二十一話 甘えてほしかった。
凛華からの電話から十分ほど。指定された場所は、歩いていける距離にあった。
残暑はまだ厳しく、外に出るとすぐに汗が噴き出してくる。
「凛華はいったい何を考えているんだ?」
指定された場所にたどり着くと、厳太郎はこれまでにないくらいの汗が背中に伝っていくのが分かった。
厳太郎の目の前にはどーん、と見上げなければならないほどの建物が立ちふさがっていた。外観はピンクや青色など、やけにカラフルで他の建物とは一線を画している。
「ここって……いわゆる」
「ラブホテル……だな」
壁には普通のホテルにはないであろう「ご休憩 ご宿泊」と書かれている料金表が張り付けられていた。
「なぁ、本当にここが指定された場所なのか? 夏休みにあまり良い思い出が作れなかったからと、あわよくば、私とここに入りたいとか不埒な考えじゃないだろうな」
「な、な、な、な、何言ってるんですか! 止めてくださいよっ!」
響は頬を赤く染めて、ずりずりと厳太郎から距離を取っていた。響は仕切り直すように、咳払いをする。
「ま、まあ、君に限って妙なことは考えていないだろう。ところで、凛華の言ったことは本当なんだろうな?」
「……分かりません」
律子とままぁの居場所を知っている。
確かに、凛華はそう言った。
この住所を話した後、凛華はすぐに電話を切ってしまった。その後、凛華に電話をかけても二度と通じることはなかった。
「行くしかないな。ここで、こうしていても何も始まらない」
「はい……」
「よし! 行ってこい!」
響きが勢いよく厳太郎の背中を押した。
「え?」
前につんのめりながら厳太郎は響を見た。腕を組みきょとんとした表情で佇んでいた。
「響会長も行ってくれるのではないのですか?」
響は厳太郎の言葉に頬を赤らめながらぷい、と背中を向ける。
「ば、バカを言うんじゃない! こんなところに私と君で入っていったら、そ、その! 誤解されてしまうじゃないか! わ、私は入らないぞ!」
「ええ……そんな。ここまで一緒にきてくれたのに……」
「指定された場所がラブホテルだとは知らなかったからだ! それに、私はこの容姿だ。入り口でばれたらめんどくさい」
「ああ、そういえば、こういうホテルって十八歳以下は入れませんでしたね。あ、でも凛華先輩は入っていますよ」
「凛華は大人びているからな。年齢くらい欺けるだろうし……とにかく! 君一人で行ってくれ!」
響は喚き散らしながら、厳太郎の背中を力いっぱい押し続ける。
「わ、分かりましたよ。一人で行ってきますってば!」
そう言いながらも抵抗する厳太郎だったが、ラブホテルの自動ドアが開くと覚悟を決めた。腹に力を入れ、中へと入っていく。響は厳太郎を中へと押しやると、風のようにどこかへ去っていってしまった。
「え、えっと、確か二〇二号室だったような……二階か?」
部屋の様子が分かるパネルやら、やけに静まり返った内部はあまりなじみの無いものだ。
「受付の人はいないな……このまま、上がって行っても良いのか……?」
高鳴る鼓動を抑えながら、二階への階段を上がっていく。ふかふかの絨毯を踏みしめながら歩いていくと「二〇二」と凛華が指定した部屋にたどり着いた。
厳太郎は部屋の前に立つ。
「り、凛華せんぱーい……来ましたよ……」
小声で呼んでみるが応答はない。どうしたらいいのか分からずに、佇んでいると部屋のドアにインターフォンが備え付けられているのを発見した。震える指で押してみる。
ドアがわずかに開けられると、その隙間から凛華が様子を窺ってきた。
「り、凛華先輩?」
凛華は厳太郎だと分かるとドアをもう少しだけ開け、腕を伸ばしてくる。厳太郎の腕を掴むと、そのまま中に引き入れた。
「う、わっ!」
素早い動作でドアのカギを締める。ガチャリ、という音が妙に厳太郎の耳についた。
こちらに背を向ける凛華は高校の制服姿だった。薄い白地のシャツに黒と紺の横じまの入ったスカート。堅岩高校の正式な夏服だ。凛華の背中には汗が滲んでおり、うっすらとブラが透けて見える。厳太郎は思わず目を逸らす。
「今日も暑いね。何か飲む? オレンジジュースにコーラもあるよ」
凛華はまるで自分の部屋にいるかのように、ベッドの脇にある冷蔵庫を開けた。
妙にきらびやかな部屋の壁と巨大なベッド。奥の方にはガラス張りの風呂まである。非現実のこの空間に、いつもと変わらない様子の凛華。
「凛華先輩……! ままぁのいる場所を教えてください!」
このままでは凛華のペースに巻き込まれてしまう。厳太郎は用件だけを凛華に伝えた。
「厳太郎はコーラじゃないよね。はいっ」
凛華は言葉が聞こえていないかのように、冷蔵庫からオレンジジュースの缶を取り出すと、厳太郎に向けて放った。
「う……わっと!」
厳太郎はキンキンに冷やされたオレンジジュースを空中でキャッチする。
「飲みなよ。厳太郎」
やはり何か変だ。佇んだまま、凛華が厳太郎をじっと見つめてくる。今渡されたオレンジジュース。変なものが入っていないかと疑ってしまう。しかし、栓は開けられていない。暑い中、歩いてきたこともあり喉も乾いている。厳太郎はオレンジジュースの栓を開け、一口、二口飲んだ。酸味の効いた甘さが喉を潤してくれる。普通のオレンジジュースだ。
凛華は満足そうに頷くと、巨大なベッドの縁に腰を下ろした。ふいに、スカートの裾が少しめくれて、肉付きの良い太ももがはだけてしまう。
「厳太郎もここおいでよ」
凛華が隣をぽんぽん、と叩く。
「凛華先輩。ままぁと……母さんはどこにいるのですか? お願いです。教えてください」
「ここに来たら教えてあげる」
凛華は小首を傾げ、小悪魔のように足を組み替える。顔には妖艶な笑みを浮かべている。
厳太郎は喉を鳴らす。情欲ではない。わずかばかりの不安。いつもの凛華ではない。
厳太郎はテーブルにオレンジジュースの缶を置いた。凛華の目を見つめたまま、隣に腰を下ろした。思っていたよりもベッドが沈み込み、驚いていた時、
「えーい」
凛華が妙に甘ったるい声を出しながら、厳太郎に抱き付いてきた。突然のことで、凛華と共にベッドに倒れ込んでしまう。
「ちょ……! 凛華先輩!」
凛華は腰をくねらせながら、スカートがめくりあがるのも構わずに足を厳太郎の腰に絡ませてきた。上手く身動きが取れない厳太郎の顔を撫でまわすと、首筋に唇を這わせる。
凛華の唇から熱が伝わるように、厳太郎の体が尋常じゃないくらいに火照ってくる。そのまま、凛華は固まって動かない厳太郎の首筋を吸い出した。
「りっ! 凛華先輩……ちょ、やめて……」
止めてくれ、とは言うものの唇の柔らかさと、時折感じられる舌先の感触が厳太郎の体をこわばらせる。
「……ぷはぁっ」
満足そうに凛華は唇を話すと、両手で厳太郎の顔を挟み込む。
「うふふ……? びっくりした?」
変だ。やっぱり変だ。いつもの凛華じゃない!
厳太郎は、凛華の艶めいた視線から逃れるように無理やり顔を横に向けた。すると、厳太郎の目にはとんでもないものが飛び込んできた。ベッドサイドに備え付けられている小さめのテーブル。そこにおいてある飲み干したと思われる缶。
「凛華先輩……これって!」
厳太郎は自由だった右手を伸ばす。缶を手に取る。
「これお酒じゃないですか! 凛華先輩!」
果実の絵が描かれているその缶の中身はほとんど飲み干されているようだ。わずかに残った中身が、ちゃぽんと音を立てた。
凛華は驚愕の表情を浮かべている厳太郎の顔を、ぐいと力の限り自分の眼前へと向かせる。凛華の瞳はとろけており、頬は朱に染まっている。口元はへらへらと笑みを浮かべており、赤い舌先がちろり、と覗く。
「えへへへへ。おいしかったぁー。厳太郎も飲む?」
へらへらとした表情に、厳太郎の胸に凛華に対しての怒りがこみ上げる。
「……凛華先輩。どうしちゃったんですか? こんなの間違ってる。いつもの凛華先輩に戻ってください」
初めてかもしれない。凛華に対して嫌悪感を抱いたのは。
その感情の揺らぎを敏感に感じた凛華は、シーツを強く握りしめた。厳太郎の目をきつく睨みつける。
「いつもの『私』ってなに? 厳太郎は『本当の私』を知ってるの?」
薄暗く妙に甘ったるい匂いのする室内に、凛華の声が響いて消える。穏やかな声色ではあったが、その裏に隠れ潜む凛華の憤りに厳太郎は息を飲んだ。
「学校での私も『本当の私』。今ここでこうしている私も『本当の私』なの。厳太郎はさ。自分の都合のいい『私』しか見えなかったんじゃない?」
中学生になってからは、頻繁に女性の家に行くのは良くないことだと思っていた。むやみに女性と出かけるのは、不順異性交遊につながると思っていた。
「私も厳太郎の性格は知っていたから、仕方ないことだと思ってた……でも」
凛華の言葉の節に悲壮感が宿る。何も言葉を発することのできない厳太郎を睨みつけた。
「なんで、あの子だけには甘えるの? あの子と私は何が違うの?」
組み伏せられているとは言っても、女性の力だ。普段から体を鍛えている厳太郎ならば、凛華を組み伏せることは容易だろう。
それができないでいるのは、凛華の口端が震え、涙が大きな瞳にたまっているのを見てしまったからだ。
「ねえ、厳太郎。私を見て」
凛華は厳太郎の肩を押さえたまま、馬乗りになる。厳太郎の腰には凛華の下着が密着し人肌の温もりがじわり、と伝わってきた。
「凛華先輩。止めてください」
厳太郎は視線を逸らし続ける凛華に対し、穏やかに語りかける。
「凛華先輩」
凛華は鼻をぐずぐずと鳴らしながら、汗に濡れたシャツを脱いでいく。上半身には傷一つ無い柔肌に、可愛らしい薄ピンクのブラ一枚のみ。
「やめましょう。凛華先輩」
凛華はそんな厳太郎の言葉を無視するように、背中に手を回した。パチと何かが外れる音がすると、凛華の上半身に唯一つけられているブラが外れた。凛華は胸に手を当てているため、胸があらわになることは無かった。
「凛華先輩。ダメです」
再び語り掛ける。
凛華は空いている右手で器用に、厳太郎のシャツのボタンを外していく。すべて外し終えると、シャツをはだけさせた。凛華の指先が厳太郎の素肌をやさしく撫でる。
「俺はこんなことは望んでいません」
ついに凛華の手が止まった。そのまま手を握り締めると、凛華は頭をがくりと下げた。さらり、とした黒髪が肩口から流れ、厳太郎のはだけた胸をくすぐる。
「ぐすっ……えぐ」
凛華の目からこぼれた涙が、厳太郎の胸にいくつも落ちる。凛華の体中の力が抜けていく。厳太郎はそんな凛華を払いのけることもせずただ見つめていた。
「やっぱりできないよぉ……無理やり厳太郎を私の物にすれば私だけを見てくれると思っていたけど……嫌がってるもん。できないよ……」
凛華は子供のように嗚咽を漏らし、大きく肩を震わせている。
「厳太郎。小さい頃はずっと私に甘えてきてくれたのに……律子さんがあまり家に帰ってこないから、ずっと私と一緒にいてくれたのに……」
凛華が思いの丈を漏らす。
「俺は誰かに甘えることを恐れていました。一人でなんでもできると。でもそれは間違いでした。頼るべき時に頼らないこと。それは強さではありません。だから俺は小倉の時も、凛華先輩に相談をしたんです。一人では成し遂げられないこともあると分かったんです」
厳太郎も自らの正直な気持ちを語る。それでも、凛華は嗚咽を止めなかった。
「でも……本当に甘えたいのはあの子なんでしょ?」
厳太郎は息を飲む。
「さっきの叫びの中に……思いの中に私は含まれていなかった。それを感じちゃったら、もう何が何だか分からなくなっちゃって……どうしても厳太郎に振り向いてほしくって」
幼いころ。律子が家を空けることが多く、厳太郎の頼るべき人は凛華だけだった。実の姉のように慕い、甘えていた。それが凛華の欲求を満たしていたのだろう。一度は甘えることを捨てた厳太郎だったが、再度蘇ったその感情はままぁに向いていると感じさせてしまった。そのことが凛華にはどうしても我慢ができなかったのだ。
「厳太郎の頭を撫でてあげたかった。辛いのならやさしい声をかけてあげたかった。厳太郎が望むのなら、何でもしてあげたかった……家族でもないのに気持ち悪いよね」
凛華の思いが厳太郎に流れ込んでくる。一途な思いは凛華の中で形を変え、酒の力を借りることでは暴走しこのような事態をもたらしたのだ。
厳太郎は腕を伸ばすと、凛華の肩をやさしく掴んだ。細く小さく、滑らかな感触が手のひらから伝わってくる。厳太郎は力なくへたり込む凛華を自分の胸へと抱き寄せた。
凛華は小さく「ひゃ」と漏らすと、顔中を真っ赤に染め上げる。
「凛華先輩。ありがとうございます。そう思ってもらえてうれしいです。それと、俺は誰に一番甘えたいとかそういうのはありません。俺はただ……」
凛華を抱く腕に、さらに力を込める。
「ままぁを救いたいだけです」
その言葉に、凛華は安心したように吐息を吐く。
「うん……本当は分かってた。ただ、ままぁのことばっかり頭にある厳太郎にちょっと意地悪したかっただけなのかもね」
凛華が「ふふ」と笑みをこぼす。
「それにしては刺激が強すぎますよ」
「私って変態なのかもね」
「凛華先輩」
「ん?」
「ままぁと母さんの居場所を知っているんですか?」
「うん。知ってる」
凛華はあっさりと答える。
「教えてください。ままぁを助けに行かないと」
密着している凛華の頭がわずかに頷いたように感じた。
「このまま? 私はそれでもいいけど」
そうだった。勢い余って凛華を抱き寄せてしまったが、お互いほぼ裸だったのだ。そのことに気が付いた厳太郎は急に恥ずかしくなってしまう。
「す、すいません。とりあえず服を着ましょう。話はそれからです」
厳太郎は目を瞑ったまま、凛華の体を起こす。自分のシャツのボタンをはめながら凛華に背中を向けた。背後で聞こえてくる衣擦れの音が、扇情的な妄想を掻き立てた。
「ふふ。私はこのままでも良かったんだけどなぁ」
さらに追い打ちをかける凛華の声に、厳太郎は体中が熱くなっていくのが分かった。




