十九話 いつもの日常に
九月一日。
そろそろ秋の足音が聞こえる季節ではあるが、太陽の日差しと気温は和らぐ様子は無い。とめどなく流れ落ちる汗を拭いながら、厳太郎は校門の前に立ち、しばらくぶりの早朝風紀に目を光らせていた。
今日は始業式のため、午前中で学校は終了だ。とはいえ、生徒が登校してくる以上、早朝風紀は行うと決めていた。
「そこ。スカートの丈が八ミリほど短い」
厳太郎は気だるそうに歩いていた女子生徒を指さし指摘した。
たしか、夏休み前にも注意した生徒だ。どうやら直してきていないようだ。厳太郎は一層眉間にしわを寄せ、女子生徒を睨みつける。
女子生徒はいぶかし気に、スカートの裾をぐいぐいと引っ張ると、厳太郎にめんどくさそうな視線を向け、足早に去っていった。
「新たな気持ちで二学期を迎えるという気構えは無いのか……全く」
厳太郎はどこまでも広がる青い空と、天へと向かって伸びる入道雲を眺めた。
先日。律子がままぁを拘束した翌日の夏休み最終日。
目が覚めると、律子はいなかった。律子からのメールにはただ一言「また連絡する」とだけあった。ままぁはどこに連れられていったのだろうか。テレパシーを試みても、ままぁからの声は聞こえてくることは無かった。
ひと夏の異常な出来事。すべては元に戻ったのだ。普段の生活に戻らないといけない。
「よう」
突然声を掛けられ、厳太郎は現実へと引き戻される。振り返ると、そこには坊主頭にした小倉がばつの悪そうな表情で厳太郎を見つめていた。
「小倉か……」
憮然とした表情は相変わらずだが、夏休み前まで毎日着崩していた制服は、きちんと着られていた。手に持っているのは学校指定のカバンではなかったが、響が指定したような紺色の地味なものだった。
「今日もかよ? よく飽きもしねーで毎日やってんな」
茶化すような言葉ではあったが、小倉の表情には一切の悪意は感じられなかった。厳太郎の顔を見つめてくる。
「堅岩高校も風紀を正すためだ。どんな時でも休むことはしない」
厳太郎も小倉の視線を受け止め答える。
「……そっか」
小倉はそう言うと、厳太郎から視線を逸らし、頭を掻いた。立ち去ることはせず、その場に佇んだままだった。
「どうした? そろそろ始業チャイムが鳴る時間だ。校内に入っていないと遅刻とみなすぞ」
「おまえさぁ……変わんねーな」
「……む?」
小倉は口元に微笑を湛えたまま、厳太郎の横で立ち止まる。
「あんがとよ」
ぶっきらぼうではあったが、確かに小倉はそう言った。
むず痒いような、少し安心したような。妙な感情が厳太郎の胸中を支配していた。
「小倉……お前」
「なんだよ」
セミの鳴き声が未だ鳴りやまない、秋の入り口の季節だ。
「おっはよおおぉぉぉございまっすううぅぅぅ!」
残暑を吹き飛ばすような声が堅岩高校の校内に響き渡った。
校舎のスピーカーから聞こえてくる響の声は、いつにも増し大きく、活力に満ちていた。
「今日から二学期のはじまりでぇぇすぅ! 皆さん、元気よくいきまっしょぉぉい!」
可愛らしい挨拶に、どことなく生徒たちにも笑顔が見て取れる。
「あのチビにも礼を言っとかないとな」
小倉が校舎を見上げながら、ぽつりとそう漏らす。
「おい。会長だぞ! チビとはなんだ。訂正するんだ!」
「俺はチビとしか言ってねーよ。お前こそ何会長を連想してんだよ」
「……むぐ」
迂闊だった。
「……そんじゃ、またな」
そう言い、立ち去っていく小倉の横顔には、確かにわずかな笑顔が見て取れた。
小倉の中で何かが変わったのだ。
それを感じ取ると、厳太郎の口端もわずかに緩んだのだった。
二階の連絡通路の窓から下を覗くと、始業式を終えた堅岩高校の生徒たちが校舎から出ていく様子が見えた。今日、授業は無いため、一般の生徒は続々と帰宅の途に就いているが、厳太郎は響に二学期の風紀活動の指針を相談しようと、放送室へと向かっていた。
会長室を訪ねたが、最近は演説がブームらしく、放送室に入り浸っているそうだ。現に始業式では放送室から、生徒会長のあいさつを行っていた。よっぽど気に入ったのだろう。
「響会長。おられますか?」
放送室の扉を二度ほどノックし尋ねる。
「厳太郎か? 入ってこい」
放送室の中からは、響の元気な声が聞こえてきた。「失礼します」と言い、厳太郎は中へと入っていった。
響は鼻歌を歌いながら、なにやら放送室の機材をいじくっているようだった。背中をこちらに向けて、楽しそうに髪の毛を揺らしている様子は、どこからどう見ても新しくおもちゃを買い与えられた子供のようだった。
「響会長。二学期の風紀活動の指針について少しご相談が」
楽しんでいる最中に声をかけるのは憚られたが、そうも言っていられない。
響はひとしきり、機材を操作した後、ゆっくりと厳太郎に振り向いた。
「おお。ご苦労さん。しかし、夏休み前から思っていたが、放送での演説も楽しいなぁ。そこにカメラがあるんだが、それで生徒を映しながら演説すると、なんとも絶大な権力を持ったような気になってなぁ。ちょっと……楽しい!」
ぬはははっはあ、と高笑いする様子はまるで独裁者のようだ。頼りになる生徒会長ではあるが、こういうところは少し心配になる。
響は放送室のイスからちょこん、と降りると、厳太郎に近づいてくる。ふと、厳太郎を見上げると、不思議な表情をして首を傾げた。
「む? 厳太郎。なんだか夏休み中よりも背が大きくなっていないか? ん……? いや、元に戻ったと言うべきか」
響が手でひさしを作り、厳太郎に伸ばしている。厳太郎は苦笑いを響に返す。
元に戻ったのだ。これでいい。これがいつもの日常だ。
「そ、そういえば、凛華先輩は? 二学期の始まりですし、少し風紀活動の相談を、と」
訝し気な視線を避けるように、厳太郎はとっさに別の話題にすり替えようとした。
「凛華なぁ……」
響の表情が突然曇る。
「今日は登校していないんだ。メールも送ったのだが、返信がない。また風邪がぶり返したのか……少し心配だ」
「そうですか……」
風邪……なのだろうか?
先日、小倉との件が一件落着した後に、凛華が妙にままぁのことを気にしていたのが思い出される。
ままぁが律子にさらわれたことを凛華にも話しておくべきだろうか。いや。憶測だが凛華はままぁに対してあまり良い印象は感じていないと思う。ボゥ星人は確かに危険な宇宙人ではあるが、ままぁはそうでないと信じたい。これ以上、ままぁのことを悪く言われてしまうのは我慢ならない。
「なぁ。厳太郎」
響が厳太郎の制服の裾を、ちょいっと引っ張る。
「君、さっきから顔面蒼白だぞ。大丈夫か?」
「えっ」
とっさに自分の顔を触る。冷たい。手のひらに、冷や汗がべとりと張り付く。
「あ、はは。これは……」
取り出したハンカチで何度も顔を拭うが、冷や汗は止まらない。響の視線が妙に突き刺さり、取り繕う言葉が出てこない。
「やっぱり変だぞ。君。何か隠しているだろう?」
「え……いや。別に何も」
もう終わったことだ。律子にも言われた。忘れないといけない。ままぁのことは。
厳太郎を見上げていた響の目に力が宿る。両手を思い切り広げると、勢いよく厳太郎の腕を掴んだ。小さな体とは思えないくらいの力に厳太郎は顔をしかめた。響の瞳はうるうると涙の薄い膜が張っていた。
「君はいつもそうだ。辛いことがあっても誰にも何も相談しようとしない。それが正しいことだと思っているのか?」
響は厳太郎の腕を思い切り引っ張る。ふいのことで、厳太郎はよろけると響の小さな体に寄りかかってしまう。響はそんな厳太郎をしっかりと抱きとめた。
「君は誰にも頼らず、一人で成長してきたのか? そうじゃないだろう? 親や周りの友人たち。幾千の人々に支えられ、今日という日を迎えることができたはずだ」
響が吼える。その瞳は厳太郎を見つめ、逸らさずに力を込める。
「私だってそうだ。凛華だってそうだ。皆誰かを頼って、生きているんだ。一人で生きる? 誰にも迷惑をかけないで生きるだと? そんな奴がいるもんか!」
「で、でも俺は……」
「まだそんなこと言うのか! 適切な時に甘えるのは『甘え』なんかじゃないんだ!」
響の叫びは直ぐに消え去る。が、厳太郎の心の中では響の声はいつまでも残響していた。
そう。たしかに甘えていたのだ。ままぁに。
これまでは甘えることは自分の価値を下げることだと思っていた。甘えない、誰も頼らない。心が疲弊してどうしようもなくなった時、ままぁに「大丈夫だ」と頭を撫でられた。どんなに心が安らいだだろうか。どれだけ心地よかっただろうか。これまでの穢れが浄化され、自分の心が晴れていくほどだったのだ。
「響会長……話を聞いてもらってもいいですか?」
響は厳太郎のその言葉に花が咲いたような笑顔を浮かべた。強く握っていた厳太郎の腕を離すと、ぴょんと後ろに飛んだ。腰に腕を当てると、小さな胸を大きく張った。
「あったりまえだろおぉ! 私はみんなの生徒会長なんだからな!」
厳太郎の目には小さな体の響が、この時ばかりはとても大きく頼もしく映ったのだった。




