十八話 本当の母親
ふわふわとした感触だ。まるで、雲の上で寝そべっているような心地よい感触だった。胸の上に置かれている手は暖かい。すべてを包み込むような感触さえ覚えるその手に守られている限り、自分はなにも恐れることはないだろう。
ずっとこの感触を味わっていたい。でも、
――さようなら。厳ちゃん。
「…………あ」
厳太郎が目を覚ました場所は、薄暗くわずかに月明かりが差し込んでいるだけだった。ここは自分の部屋だ。
「厳太郎。大丈夫?」
律子の声だ。
上手く状況を把握できない。厳太郎は無意識に腕を伸ばすと、胸の上に置かれていた手に触れた。律子は厳太郎の額に掛かった髪を、丁寧に払うと頬を撫でる。
「まだ、混乱しているようね。でも、もう大丈夫。すべて終わったから」
律子の言葉が、働いていない頭に浸透していく。
――すべてが終わった。
その言葉に、指先が熱くなり、熱を持った血液が全身を駆け巡っていく。胸の鼓動は強くなる。肌がピリピリと痛痒くなり、厳太郎は律子の手を払った。
「ままぁを……殺したのか? 母さん!」
律子は払われた手を見つめ眉をひそめる。何も言わずに立ち上がると、ポケットから小さな石を取り出した。
獣のように息を荒げる厳太郎の顔に、その石を当てる。
「……な?」
「厳太郎? 体調に変化はない?」
「どういうことだよ! 俺の質問に答えてくれ!」
律子は、厳太郎の激昂を気にすることもなく、小さく安心したように吐息を吐いた。
「思った通り、ボゥ星人の遺伝子は完全に消え去ったようね」
律子は石をポケットにしまうと、厳太郎の寝ているベッドに腰を下ろした。
「今の石は、ボゥ星人拘束具の主成分となる鉱石よ。地球にはない素材。この石に触れて体調に何も変化がないのなら、もう大丈夫」
律子の声は優しかった。厳太郎のことを心底心配しているのだろう。それは痛い程に分かる。でも、やさしい言葉をかけられても、心配をされても――望んでいたことなのに、厳太郎の胸に沸くのはままぁの安否ばかり。
「……もし、ままぁを殺すというのなら、俺は一生母さんを軽蔑する」
厳太郎には律子の気持ちは分かっているつもりだ。家族を二人も食われたのだ。復讐を考えるのは当然のことなのかもしれない。
「……まだ、あのボゥ星人は殺してはいないわ」
薄暗い室内に律子の奥歯を噛みしめる音が聞こえる。
「正確に言うと地球人の化学力では拘束はできても、ボゥ星人の息の根を止めることはできない。本当は触れるのさえ危険なのよ」
ベッドに置かれた律子の組んだ手が、一層強く握られる。悔しいのだろう。
「でも、父さんを喰ったボゥ星人は……? まさか、逃げられて」
「まさか……! 割と簡単に拘束できたわ。私は殺すつもりだった。でも、殺すことはできなかった……だって、奴は自分で命を絶ったのだから」
「! ……自殺」
「拘束後、少し目を離したすきに、ね。何を考えていたのかは分からないわ。おおかた逃げられないと悟ったのでしょう。愚かな存在ね」
律子は吐き捨てるようにそう言うと、疲労感を匂わせるように立ち上がった。
「でも、私はあなたを喰ったあのボゥ星人を生かす気はない」
「母さん!」
「所詮、異星人なんて信用できる存在じゃないわ。分かり合うなんて幻想。あの『ままぁ』とかいうボゥ星人だって同じ。いくら、やさしくてもいつボゥ星人の本性を見せるか……」
「……ままぁは違う」
律子は厳太郎を睨みつけると、手を振り上げる。自分にその手が振りかざされると思った厳太郎は、きつく目を閉じた。しかし、その手が厳太郎に振りかざされることは無かった。うっすらと目を開けると、律子の手は自らの頭を掴んでいた。
「あなたを……あなたを喰ったのよ! 厳太郎……! 一歩間違えればあなたは今この世には存在していない。そんな危険な存在を生かしておけるわけないじゃない! なんでそれが分からないのよ……厳太郎!」
律子は自分の顔を爪が食い込むほどに強く掴む。厳太郎は息を飲み、何も言えなくなってしまう。
「幻滅するならしなさい。あなたに何を言われようと、私はすべてのボゥ星人を許す気はないわ」
夫を殺され、厳太郎を喰ったボゥ星人への当たり前ともいえる怨嗟。厳太郎も律子の悔しさ、悲しみ、恨みは分かっているつもりだ。
でも。
「ままぁは違う」
絞り出した言葉だった。
我ながら子供っぽいわがままだと思う。ボゥ星人が他の異星人に危害を加える存在だということは、これまでの話で十分に分かっている。頭では理解ができても、感情が否定する。ままぁだけは違うと。
「ねぇ。厳太郎」
律子は重い足取りで、すがるように厳太郎の頭を抱いた。
「これまでのことはあなたにとって悪い夢だった。もうすべて忘れて普段の生活に戻って」
普段の生活……ルールを順守し、規律を守る。誰にも迷惑をかけずに、誰にも頼らずに……律子が厳太郎に教えたとおりに。
律子はぬくもりをもう一度しっかりと確かめるように、厳太郎の頭をしばらく抱いていた。律子の穏やかな心音と、わずかに漂う香水の香りの中に感じられる母の匂い。厳太郎はそっと目を瞑った。
「明後日からはまた学校でしょう? きっと良いことがあるわよ」
律子は幼いころそうしたように、厳太郎をゆっくりとベッドに横たわらせた。頬を撫で、胸に手を置く。ぬくもりが伝わってきたころ、律子は手を離した。
「おやすみなさい。厳太郎」
厳太郎の耳元でつぶやくと、律子は部屋を出ていった。
もう眠ってしまうおう。それがいい。
学校が始まれば、また風紀活動にも力を入れなければならない。普段の生活に戻るのだ。
それが最善なのだと、厳太郎は思うようにしたのだった。




