十六話 胸中に蠢くこの感情は
「いやぁー。良いものを見た」
響が夏の日差しの中、満足そうに大手を振っていた。凛華も安心した様子で、電車を降りた後も終始笑顔だった。
「うん。小倉君もこれで大丈夫かな。はぁ……でも本当に良かった。今年の夏休みは色々あったね。なんだか疲れちゃった」
「夏休みはあと一日で終わりだ。宿題は終えたか? 心残りは無いか? 私は明日、父親と映画に行ってくる」
むふん、と響は嬉しそうに胸を張った。
「響ちゃんは本当にお父さんと仲が良いもんね。そういえば、この前ショッピングモールで二人を見かけたよ。お父さんに甘えてるの見てたらちっちゃな子供に思えちゃったよ」
「う、うう……それは恥ずかしい……」
凛華と響がはしゃいでいるのを微笑ましく見つつ、厳太郎は空を仰いだ。
甘える、ということは一体何なのだろうか。
一人でできることには限度がある。それは、厳太郎も十分分かっている。分かり始めた。場合によっては信用できる人を頼り、助けてもらう。
今回の小倉の件でも凛華に相談し、結果的には響に助けてもらう形となった。果たしてこれは『甘える』行為なのか。
「厳太郎……どうしたの?」
黙りこくり、空ばかりを見ていたのだ。凛華の心配そうな声で、厳太郎はふと我に返る。
「あ、いえ……何でもありません。小倉の問題も解決しましたし、これで気持ちよく二学期を迎えられそうです」
そう。何も問題はないはずだ。
「そういえば」
響が厳太郎を見上げると、少し心配そうな顔をした。
「ままぁは……どうしているんだ? ほら、昨日あんなことがあったから……」
「……ま、ままぁ」
凛華は授乳事件のことを思い出したのか、顔をみるみる内に真っ赤に染め上げていく。
「ああ……大丈夫ですよ。家でおとなしくしています」
「そうか、よかった。うん……!」
響は再びにこにこと笑顔を振りまきながら、軽快に歩き始めた。
厳太郎は自分の体を触る。
おそらく後一度授乳されれば、元の年齢にまで戻れるだろう。自分の体だ。そう確信めいたものがある。
自分が元に戻れば、ままぁはどうする?
母親にはなんて説明しようか。正直に宇宙人だと説明しようか? いや、それはややこしくなりそうだ。だったら、行き倒れを拾った? ままぁは外国人に見えなくもないから、ホームステイとか?
「……郎……太郎?」
いや、無理に話す必要もないだろう。律子は帰ってくるときには、必ずメールを寄越す。しかも、自宅に滞在するのは一、二日程度だ。その間だけ、ままぁを他の場所に匿えばいい。ままぁが厳太郎を自分の子だというのなら、いつかは離れなければならない。その日まで、隠し通せばいいのだから。
「……ねぇ……厳太郎ったら!」
思考の海に沈んでいた厳太郎が我に返る。まるで突然、深い眠りから起こされてしまったように、厳太郎は慌てながら周りを見渡す。
「……もう……響ちゃん帰っちゃったよ」
凛華の声に、厳太郎はようやく頭を働かせる。
「どうしたの? なんだか上の空みたいだったけど……」
「あ、いえ。なんでもありません」
厳太郎の言葉に、凛華は何も答えなかった。厳太郎の頭の中を見通すように、透き通った瞳は厳太郎の顔を見つめてくる。
「厳太郎……あの子。ままぁちゃんだったっけ。どうするの?」
凛華は本当に厳太郎の頭の中を読んでしまったのではないか。厳太郎の額にじわり、と汗が滲んできた。
「ど、どうするの……とは?」
「いまだに信じられないけど、あの子宇宙人なんだよね。厳太郎はつまらない冗談は言わないし……得体のしれない子をずっと家に置いておくつもりなのかなーって」
得体が知れない。確かにそうだが……。
「よくテレビで宇宙人は危ないって言ってるよね。地球を侵略して来たりするのかな? ちょっと怖いなー……なんて」
「ま、ままぁは……自分の故郷の星が無くなったみたいで、どこにも行くところが無いんです。できれば、力になってあげたい。そう思っています」
「喰われたのに?」
額の汗がこめかみを伝っていく。凛華から発せられたとは思えない鋭い声色。凛華は厳太郎を横目でちらり、と見ると「ふぅん」と小さく言った。凛華は腰の後ろで手を組むと、不満げに口をへの字に曲げた。
「そっか。何かあったんだね」
厳太郎は何も答えずに、ただ凛華の背中を見つめていた。
「実は凶悪な宇宙人だったりして……ままぁちゃん」
「凛華先輩……! ままぁはそんなこと……」
凛華はくるりと厳太郎に振り返った。その表情は、いつもの笑顔だった。
「それじゃあ、私帰るね。また二学期に」
そう言うと、凛華は足早に去っていった。
凛華の背中が見えなくなるまで、厳太郎はその場に立ち尽くしていたのだった。
なぜか心が晴れない。
小倉の問題も一件落着し本当なら、気持ちよく二学期を迎えられるはずだ。このもやっとした気持ちはなんだ。厳太郎は胸に手を当てると、服を強く握った。汗が布地に移り、じっとりとした感触が手に伝わってきた。
自宅までの道のりを足早に駆けていく。息を切らせつつ玄関を開けると、クーラーの冷気が厳太郎の火照った体を冷ましてくれた。
「ままぁ。今帰った」
いつもならば、直ぐにでも満面の笑みで出迎えてくれるままぁが現れることは無かった。しん、と静まり返る室内はなぜか異質に感じられる。
きっと出かけているのだろう。
靴を脱ぎリビングに入ると、散乱していたおもちゃが綺麗に片づけられていた。やっぱりそうだ。おもちゃの片づけを終え、ままぁは買い物にでも行ったのだろう。
厳太郎は流れ落ちる汗を、テーブルに置いてあった新しいタオルで拭うと、クーラーの温度を二度ほど下げた。
ソファに腰を下ろし、深く体を預ける。意識はしていなかったが、疲れがたまっていたのだろう。大きく息を吐くと、じんわりと疲れが溶け出していくのが分かる。
少し眠ろうか。そう思い瞼を閉じようとしたとき、
「あら。厳太郎。帰っていたのね」
抑揚のない冷たさすら感じられる声に、厳太郎は反射的に体をビクつかせてしまった。
体を起こし、恐る恐る後ろを振り向いた。
「…………母さん」
厳太郎のかすれた声は、本来、久しぶりに帰宅した母親に向けられるものではなかった。
律子はしわ一つ無い黒のパンツスーツに身を包み、腰に手を当てながら厳太郎を見下ろしていた。真っ黒な艶めいた髪の毛は、肩のあたりで切り揃えられており、クーラーの冷気が当たると、ふわりとはためいた。
クーラーの冷気に眉をひそめた律子は、リモコンで温度を二度ほど上げた。
「久しぶり。二ヶ月ほどかしら。なにか変わったことはなかった?」
律子は表情を変えない。普段からあまり感情を表に出すことはないが、今日の律子はいつもにもまして感情の読み取れない表情をしていた。
「か、母さん。いつもなら帰ってくるときに連絡してくるのに……今回は急だったんだね」
妙にのどが渇く。
律子は髪の毛をかき上げると厳太郎の横に腰を下ろした。
薄く化粧を施してはいるが、きめ細かい肌はとても三十代後半とは思えない。生活のほとんどを仕事に費やしてきた律子だが、くたびれた様子は感じられない。むしろ最近はさらに律子の体からは力がみなぎっているように感じられ、息子である厳太郎も時にそのみなぎる活力に圧倒されることもある。
「悪かったわ。厳太郎。急遽、この地域でやらなければいけないことがあってね」
律子は『地球外生命体に対する危機管理』の仕事をしているが、実のところ詳細な職務はよく知らない。こちらからはほとんど連絡がつかないし、たまの帰宅の時も律子から一方的なメールだけだ。必ず連絡は入れてくれたので、突然現れるとびっくりしてしまう。
「まだ、仕事中なの。あなたの様子を見に少し寄っただけ。問題がなければすぐにいくわ」
問題がなければ。
あまり息子の様子を心配する母親のかける言葉ではないだろう。
それでも、律子が帰ってくるのは嬉しかった。唯一の家族なのだ。こんな関係ではあるが、一応仲が悪いわけではない。
「それで、どうなの? 問題はないの?」
律子が厳太郎の顔から視線を逸らさずに近づいてくる。厳太郎の肩を掴み、まるで逃がさないようにしているようだ。
「大丈夫。食事もちゃんとしてるし、家事だって……。学校でも変わったことはないよ」
厳太郎は必死に笑顔を取り繕う。
律子が家を頻繁に空けるようになり、仕事に本腰を入れてからと言うもの厳太郎は余計な心配をかけるまいと取り繕うことが多くなった。
ひどい風邪を引いても、心に傷を負ったとしても……。
でも、今回は違う。ままぁの存在。厳太郎には律子にままぁのことを相談する覚悟ができていなかったのだ。
「……そう」
この母親だ。いくら、家のことは厳太郎に任せてあるとはいっても、家族でもない少女と一緒に住むことを許すはずはないだろう。
厳太郎は必死に、次の言葉を出そうと頭をひねっていた。
「残念ね」
「……え?」
…………なにが、残念なんだ?
律子の言動に、理解が追い付かない。律子は、洗練された動作で立ち上がった。目は一層吊り上がり、自宅にいるとは思えないほどの緊張感を醸し出していた。
「(厳ちゃん……! そこにいるの?)」
突然、脳内にままぁの声が響いてきた。厳太郎は律子に背を向け、ままぁに語り掛ける。
「(お前どこにいるんだ? 俺の母親が帰ってきてるんだ。出てくるんじゃないぞ)」
「(え……厳ちゃんの母親……? まさか、そんな)」
ままぁの声が、徐々に困惑の色に塗り替えられていく。頭を強く掴んで、厳太郎はままぁに語り掛けようとする。
「どうしたの? 頭でも痛いの?」
そう言うや否や、律子は厳太郎の腕を掴み上げる。女性の力とは思えない。抵抗する隙も与えず、律子は厳太郎の腕を捻ると、その場に無理やり跪かせた。
「いっ……つ……母さん! なにを」
「厳太郎。あなた」
何が何だか分からない。突然の暴行。実の母親に組みひしがれるという異常な状況。厳太郎はすでに思考が止まっていた。
「喰われたのね」
その言葉に、厳太郎の体にピリピリと痛みが走った。




