九話 垣間見る狂気
「厳ちゃぁーん。髪の毛自分で洗える?」
シャワーから流れる水の音と一緒に、ままぁの声が聞こえてきた。
「あ、洗える! だから入ってくるんじゃないぞ」
ままぁに授乳されること三週間。浴室の鏡には成長した厳太郎の姿が映し出されていた。
見たところ中学生くらいまでは成長できたようだ。もちろん会話もできるようになった。顔つきも以前のように精悍になってきたし、眉間のしわもずいぶんと寄ってきている。筋肉もついてようやく男の体つきになってきている。
これならば、連日行っていた繁華街の風紀活動を再開しても問題はないだろう。
すでに、夏休みも残り三日。八月のほとんどを無駄に過ごしてしまったことが悔やまれる。妙な宇宙人との邂逅。授乳されるという屈辱。踏んだり蹴ったりだ。
そういえば、凛華はどうしているんだろう。
あれから幾度もメールや電話をしているが、全く返信がない。二学期が始まる前に、なんとか話ができれば、と思う。その間、律子からの連絡は一切なかった。いつものことだ。
それにしても、と思う。
厳太郎は髪を洗い終えると、シャワーを止めた。まじまじと自分の体を見渡す。
ままぁは自分のことをボゥ星人と言っていた。ただ「ボゥ星人と地球人の遺伝子はうまく馴染まない」らしい。鏡に映る姿を見てみても、特にしっぽや触覚が生えていたり、とてつもない力が沸いてきたりと宇宙人的なことはなさそうだ。唯一、ままぁとテレパシーができることが、ボゥ星人だという証明になるらしいが、現状困ったことはない。
まぁ、何にしても後数回授乳されれば、元の姿にまで成長できるはずだ。そうすれば、ままぁとはお別れだ。いつもの生活も戻ってくるだろう。
「はぁ」
無意識に出たため息が、少し寂しげに浴室内に響いて消えた。
髪の毛の水滴を払ってから、浴室を出る。ちょうど着替えを持ってきたままぁと鉢合わせしてしまった。
「うおっ! お前、入ってくるなって言っただろ」
反射的に前を隠して身をかがめる。ままぁは少し頬を赤らめながら厳太郎の男らしくなった体つきを上から下まで舐めるように見つめてきた。
「はぁぁぁぁ……。厳ちゃん。本当に男らしくなったよね。お父さんにそっくり」
そりゃあ、本人だからな。
頬に手を当て、ままぁはうっとりと眼を細める。
「ねぇ、厳ちゃん。ままぁにもっとよく体つきを見せてよ」
ままぁがねっとりと厳太郎を見つめる。何となく危険なにおいを感じる。厳太郎はままぁが持っていたバスタオルを引ったくると、急いで自分の体を隠した。
「なに言ってるんだ。気持ちが悪い。着替えるから早く出て行ってくれ」
ままぁに背中を向け、出ていくように促す。
「ねぇ。お願い」
それでもままぁは引かない。
ままぁは手を伸ばすと、厳太郎の体に巻き付けられたバスタオルを乱暴に引っ張った。
「おい……いい加減に――」
振り向いてままぁの顔を見た瞬間。厳太郎の背筋に悪寒が走った。
厳太郎を見つめる瞳は、いつもの暖かさは無く獲物を狙う肉食獣のようだった。口端からはわずかに吐息が漏れ、頬はピンク色に上気している。
……あの時と同じだ。
喰われたとき。その記憶が厳太郎の脳裏に蘇っていた。
「ひ」
喉の奥から小さな悲鳴が漏れる。一歩、ままぁが近づいてくる。バスタオルを掴むままぁの手に力が入る。
「やめろ!」
厳太郎がままぁの手を振り払い、後退る。
「えっ……びっくりした……どうしたの? 厳ちゃん」
ままぁが一歩のけぞり、不思議そうな顔を厳太郎に向けていた。そこにいたのは、いつも通りのままぁ。
「お前……今、俺を喰おうとしたのか?」
恐怖の記憶がちらつき、ついそんな言葉を投げかけてしまう。ままぁは一瞬驚いた表情をしたが、直ぐに笑みを浮かべる。
「何言ってるの。息子を喰おうとする母親がどこにいますか。ほら、いつまでもそんな恰好じゃ風邪ひいちゃうでしょ。しっかりと体を拭いて、着替えてね」
そう言うと、ままぁは持ってきた着替えを厳太郎に差し出す。再度、厳太郎に向けて穏やかな笑みを向けると、浴室内から出ていった。
気のせいだったのか?
外からはままぁの鼻歌が聞こえてくる。
今日も快晴だ。八月の終盤になっても、セミの鳴き声は留まることを知らない。湿気を含んだ空気が夏の暑さに拍車をかけている。
バスタオルで何度体を拭いても、汗が止まることは無かった。
愛用のランニングシューズの履き心地を確かめる。まだ、若干つま先の方が空いているようだ。立ち上がり屈伸をしてみる。歩くのには問題はないだろう。
「あら? 厳ちゃん。お出かけ?」
食器を洗っていたエプロン姿のままぁが、出掛けようとする厳太郎に歩み寄ってきた。
「あ、ああ……そろそろ二学期も始まるし、必要なものを揃えておこうと思って……」
ままぁは小走りで台所に行くと、汗拭きタオルを持ってきた。
「今日も暑いよ」
タオルを厳太郎に手渡すと、ままぁはいつもの笑みを浮かべる。若干ビクついてしまう。
ままぁは小首を傾げ、頬に指をあてながら何かを考えこんでいる。今のままぁには、浴室内で見せたような雰囲気は感じられない。やはり、気のせいだったのだろう。
「じゃあ、行ってくる」
もう考えるのはよそう。厳太郎が玄関のドアに手を掻けようとすると、ままぁが胸の前で、ぽんと手を叩いた。
「私も厳ちゃんと一緒にお買い物に行ってもいいかな?」
ままぁは返事を聞く前にエプロンを脱ぎ捨てると、うきうきとした足取りで厳太郎の横に並んだ。腕を組むと肩に頭を預ける。
「うふふ。なんだか恋人みたいね」
「俺は一緒に行くとは言ってないんだが……」
「えー。一緒に行こうよー。ままぁも厳ちゃんと一緒に買い物行きたいよー」
ままぁが猫なで声を出しながら、組んでいる腕に頬ずりする。
「あまり懐かないでくれないか?」
「え……厳ちゃん……?」
思わず突き放すような冷たい言葉が出てしまう。掴まれていた腕からは力が抜けていく。ままぁの瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。罪悪感に襲われるが、ここで甘やかすとさらに付きまとわれるだろう。どうせあと数日もすれば、この妙な同居生活も終わりなのだ。
「この際だからはっきり言っておく。今後この家族ごっこをするつもりはない」
力無く触れていた腕が、厳太郎から離れる。いつの間にかままぁよりも背の高くなった厳太郎を上目遣いで見つめてくる。
「俺の母親は今、この家にはいないがいずれ帰ってくる。その時俺はお前をどう説明すればいい? 家族でもないお前を住まわせてやることなんてできない」
我ながらひどいことを言っていると思う。たしかに、厳太郎に対するままぁの愛情は痛いほどに感じる。しかし、この家においておける保証はどこにもない。
ままぁの視線が厳太郎の胸に突き刺さる。これは建前なのかもしれない。食われた時の恐怖。それが脳裏に刻み込まれて、未だ消えることは無い。ふとした時に思い起こされる。
「じゃあ」
短くそう言うと、厳太郎はドアを開け出ていった。
外に出た瞬間、絡みつくような湿気と、突き刺さるような日差しにたじろいでしまう。吹き出てくる汗を。ままぁが持たせてくれたタオルで拭った。
「なんだよ……クソっ」
悪態をついても、心にこびり付く罪悪感は消えない。頭を激しく振り、悪いイメージを振り払おうとすると、
「(うえええぇぇぇぇぇん! 厳ちゃん。ひどいよおぉぉ!)」
ビリビリと電撃を喰らったような衝撃が脳内に響き渡る。たまらずに、厳太郎はその場にしゃがみ込んでしまう。
「(やだあぁぁぁ! 厳ちゃん! そんなこと言わないでよおぉぉ!)」
再び衝撃。
ままぁの声が脳内で鐘の音のように響いてきて、何も考えられない。頭を抱えて地面に膝をつく。暑いはずなのに、寒気が全身を襲い、冷や汗が額に流れてきた。
「(ま、ままぁっ! 厳ちゃんと離れたくないよおぉ! これからも厳ちゃんと一緒に、ご飯食べたいし、一緒に買い物にも行きたいっ!)」
「あ……うぐっ……が」
漏れるのはうめき声だけ。
「(うえぇぇぇぇん……ひぐ……)」
「(す、すまない……今すぐ追い出そうとしているわけじゃないんだ。俺も言い過ぎた)」
なんとか、テレパシーを送る。ままぁが、ぐすっと鼻を鳴らした。
「(本当……? ままぁのこと嫌いになってない?)」
「(別に嫌いだからとか、そういうわけじゃない。ただ……)」
ただ、ここまで甲斐甲斐しく世話をされることに慣れていなかったのだ。いや、少し煩わしさも感じていた。物心がつく前に父親が死んで、自分のことは自分でするようにしていた。何かをしてもらうことに慣れていなかったのだ。
確かにままぁに喰われたことは、厳太郎にとっては恐怖の記憶だ。家族ではないから、家においてはおけない、ということも確かにある。が、構われることへの抵抗感。いちいち世話を焼かれることへの何とも言えない煩わしさ。様々な思いがごちゃごちゃになり、厳太郎はままぁにとってつらい言葉を投げかけてしまった。
「(……ごめんね。厳ちゃん)」
脳内で響いていた声は次第に小さくなっていき、体中から吹き出ていた冷や汗も止まった。厳太郎は頭を振って、残響を追い出すとふぅ、とため息をついて立ち上がった。
「(ままぁ、厳ちゃんがちゃんと成長できているのを見て嬉しかったの。それで、嫌な思いをさせちゃったかもしれない。本当にごめんね)」
「(そんなこと……)」
「(でも、一つだけままぁのわがままを言わせて。あと数日。厳ちゃんがちゃんと成長するまで一緒にいさせてほしい。それまでは出ていけなんて言わないで……)」
ままぁの悲痛な声が脳内に響いてくる。辛辣な言葉を吐いてしまったことを後悔した。
言葉の意味の通りに受け取っては欲しくなかった。つい言ってしまっただけなんだ。別に嫌いとかそういうのじゃない。悪かった。
様々な弁解の言葉が厳太郎の頭に駆け巡る。ただ言えるはずがない。言葉にできない。
「(ああ……ごめんね。引き留めちゃって。お買い物、いってらっしゃい。暑いからちゃんとお水は飲むのよ。車に気を付けてね)」
ままぁは厳太郎の返事を求めなかった。いつも通り、何事もなかったかのように慈愛を含んだ声色を厳太郎に向けた。
「(なぁ)」
「(え?)」
「(買い物……行きたいんだろ? はしゃがないのなら連れて行ってやる)」
……ままぁの返事がない。
少し言い方が高圧的過ぎたか? と少し不安になった時、家の玄関のドアが壊れてしまうのではないか、というくらいに勢いよく開かれた。そこから出てくるのは、夏の太陽に負けないくらいぴかぴかの笑顔のままぁだった。
「厳ちゃあぁぁぁぁぁん!」
真っ白なツインテールをあっちこっちに振り乱し、ままぁが厳太郎の手前でジャンプ! そのまま、厳太郎の胸にダイビングしてきた。
「おぶえっ!」
頭から突っ込んできたままぁの頭が、弾丸のように厳太郎のみぞおちに突き刺さる。
「厳ちゃん厳ちゃん。うわぁぁあい! やっぱり厳ちゃんはやさしい! ままぁ嬉しい!」
激しく咳き込む厳太郎をよそに、ままぁは嬉しさを全身で表現した。胸の中でうりうりと頬を押し付け、厳太郎の腰にしっかりと腕を回し抱きしめる。
「うげえぇぇぇ……お、おい。背骨が、メキメキ……言ってる……死ぬぅ」
ままぁはそんな厳太郎の言葉が耳に入っていないようで、さらに抱きしめる腕に力を入れるのであった。




