乙女たちの恋模様1
秋野梨沙がこの世界に召喚されて、二か月が過ぎようとしていた。『この世界に必要な人間』として呼び出されたわりに、今やっているのは窓口業務なのだから、実は前の世界とほとんど変わらない。
それでも、見知らぬ世界で、衣食住と職が約束されているのだから、幸運と言えるだろう。
「公務員はいいわね、安定してて」と嫌味を言う人もいたが、気づいたら異世界に召喚される公務員だっているのだから分からないものである。いや、公務員だからこそ、この世界で生きてこられたのかもしれない。ありがとう、お父さん、お母さん。
梨沙が暮らしているのも、王宮管理の宿舎で、前の世界風に言うと官舎というやつだ。手狭だが小奇麗で、セキュリティーもこの世界にしてはしっかりしている。昔から王宮の騎士や文官の寮だったらしく、忍び込んでくる青年やお嬢さんも少なくなかったらしい。今は出入り口に警備兵もおり、そういうことも少なくなったそうだ。
さてそんな、宿舎の一室で梨沙は目を覚ました。日はとうに出ているが今日の梨沙は、そんな様子に焦ることもない。
今日は正真正銘、何もない休日なのである。
健やかな目覚めに伸びをして、梨沙は一息ついた。こんなに穏やかな朝はいつぶりだろう。
もちろん、これまでの二か月に休日は存在した。梨沙の職場は完全週休二日制であるし、残業なんてものも存在しない。しかし、その休日もこれまでは王宮への報告や、魔法使い様との魔法の練習で全て消えていったのだ。
この世界に来てから、職場と宿舎、たまに王宮、それから食堂にしか訪れていなかった梨沙はこの日、何をするか、心に決めていたのである。そうだ、観光をしよう。
勇者様にもらったガラス細工の蝶で髪を束ねる。すると、蝶に結んだ薄紫の髪紐が梨沙の黒髪で美しく揺れた。同僚のノルンに「勇者様からはもらって俺のはもらってくれないの?」と言われれば、断ることなんてできない。間違いなく梨沙もNOと言えない日本人だった。
なんだか日に日に彼らがあざとくなっていっている気がするのは気のせいだろうか。
髪紐を使うことはいまだにできないが、ガラス細工の蝶にうまく結べば、思った以上に相性がいい。最近、梨沙は好んでこの髪飾りたちを使っていた。
着替えて外に出る準備を整える。王宮から支給された服は丈夫で高そうだが、あまり趣味ではない。普段使いするには華やかすぎるのだが、スーツとワイシャツで過ごすわけにもいかないので使っている。それも今日で終わり。外出のついでに買い物もしてしまおう。
窓口を訪れるお嬢さんたちが来ているこの国伝統的な服は、シンプルな形のワンピース。しかし、布自体が綺麗な染色と刺繍が施されていて、なかなか可愛らしい。少なくとも、フリルがやたらついたこのドレスのようなものよりはずっと好みだ。すぐに見つかるだろうか、と思いながら宿舎を出る。
うららかな日差しと、澄み渡る空。気候としては春に近い。二か月たっても大して温度の変化がないことを考えると、日本のように顕著に四季が存在するわけじゃないらしい。
ワンピース一枚で過ごせる素晴らしい気候に感謝しつつ、梨沙はこの国のメインストリートを訪れた。
観光がしたいとノルンに相談するとおすすめされたこの場所は、職場からそう離れていない。道の両脇に並ぶ商店や露店には衣料品、日用雑貨のようなものから食材、薬のようなものまで幅広く売られている。
食材はなじみのあるものから、ないものまで様々で、異世界だと知らなければ、外国の市場だと勘違いしてしまうような景色だった。
幸いにして軍資金はたっぷりある。これまでのストレスを発散しようとばかりに梨沙は街へ踏み出した。
三枚のワンピース、小説、それから茶葉を手に入れて梨沙はこの世界に呼び出されて過去最高に機嫌がよかった。買った品物は魔法で送ってくれるらしく、持ち歩くこともない。これに限っては前の世界よりも断然優れていた。
買い物がひと段落すると、丁度お昼時。歩いてきた道を引き返しつつ、露店で昼食を買った。小麦で作られた薄いパンのようなものに、濃い目に味をつけた羊肉と野菜が挟んであるそれは、見た目のわりにボリュームがあり、お腹にたまる。周りの人たちと同じように歩きながら食べていると、一つの背の高い建物に目がいった。
高い位置に銅鑼と鐘を足して二で割ったようなものがついた建物には、どこかで見たようなシンボルマークが彫られている。その建物に入って行く人たちの中にちらほら白い服を纏った人がいるのに気づいて、梨沙はようやく思い出した。
聖女様であるマリナが着ていたローブに、同じ模様が刺繍されていたのだ。
つまり、この建物は教会なのだ。
それなら、観光していかない手はない。立派な建物は歴史的にも価値がありそうなものだし、何の神様かは分からないけれど、拝んでおいて損はないだろう。
実に日本人らしい考えで梨沙は、教会に足を踏み入れた。