髪ゴムが切れました(後編)
その時の勇者様の顔をなんと表現したらよいだろう。雲がかかった太陽と言うべきか、死にかけのカエルというべきか。思案する間もなく、彼は梨沙の手を取り、そのキラキラしたお顔を近づけた。
「浮気ですか!?」
旅路からの帰還の開口一番にそれなのだから、疲れがたまっておかしくなってしまったのだろうか。いや、前からこんな感じだった。
梨沙の返答を聞かなければそのまま死んでしまいそうな勇者様に向かって首を傾げる。勇者様がおかしいのはいつものことだが、今回梨沙には全く心当たりがない。
浮気も何も、相手さえいないのに何を言っているのだろう。
そんな梨沙の様子にようやく気付いたのか、勇者様がじとっとした目で、まとめてある梨沙の髪を見た。
「……誰にプレゼントされたんです?」
「え……、あぁ、これですか?」
梨沙の髪を束ねる薄紫の綺麗な髪紐は、隣の窓口でどこか面白そうにこちらを見るノルンに借りたものだ。
「借りものですよ」
「ええー……俺はあげたつもりでいるんだけど」
「ちょっと、ノルン……!」
急に割って入ったノルンの言葉を嗜めるように名前を呼ぶと、ピクリと勇者様の肩が揺れた。
「リサ殿……」
急に子犬のような目で、じっと梨沙を見る勇者様。普段、人の話を聞かない癖に、こういう時だけ梨沙の言葉を待つ健気な姿はちょっとずるいんじゃないだろうか。
ただ髪紐を借りただけで、なんでこんなに罪悪感を抱かなければいけないんだろう。
「本当に他意はありませんから。髪紐を借りたら思ったより楽だったので今日だけ、です」
その言葉にあからさまにほっとした勇者様は、いつになく気弱な様子で梨沙の前におずおずと右手を差し出した。その人差し指に泊まるのは、海の青よりも深い、瑠璃色の羽を持った蝶だった。その美しさに見入っていると、勇者様はそうっとその蝶に息を吹きかける。
ふわふわと舞い上がった蝶は、その羽を優雅に羽ばたかせ、梨沙の黒髪に留まった。
慌てて、そうっとその蝶に手を触れると、思ったよりずっとしっかりした感触に驚いた。そのまま手に取ると、美しかった蝶は、美しい姿そのままにガラスで作られた大きなクリップ型の髪留めに変わっていた。
「……髪紐は苦手とのことでしたから。その、旅先で見つけた美しい蝶に似せて作らせたのです」
繊細なガラス細工の蝶は、光に透かすとまた表情を変える。確かにこのクリップ型の髪留めなら、苦労せずに髪を束ねることができる。
「……いただいてもいいですか?あの、私、返せるものもないのですが」
「お返しなんて……とんでもない。私が貴女に送りたかっただけなので」
ちょっとだけ、勇者様を可愛いと思ったのは内緒だ。
勇敢さと意気地なさを併せ持ったこの人は、梨沙が髪を束ねているのを見て、この蝶を受け取ってもらえないのではないかと焦ったのだろう。少しだけ胸が熱くなる。
「あ……でも、もしよろしければ、『勇者様』はやめて、名前で呼んでいただけると嬉しいのですが」
それぐらいのお願いなら、叶えてあげるべきだろう。大して悩みもせず、その言葉は梨沙の口からポンと飛び出た。
「本当に、ありがとうございます。レス」
「っ……!?」
ぶわっと赤く染まった勇者様の顔。耳まで真っ赤になってずるずると座り込む姿はいつか見た光景だった。
「本当に、心臓に悪いお人ですね、リサ殿」
「……?」
「まさか愛称で呼ばれるとは思ってなかったので」
アルもレトラもマリナも、普通に名前で呼んでいるでしょう?と聞かれて、今度は梨沙の耳が赤く染まった。
「よくてレスリード様か、レスリードさんか、だと思ってたんで、不意打ちでした」
さも梨沙が悪いと甘く責め立てるような視線が、いたたまれない。
「すみません、今度からそう呼ばせていただきます」
たぶん、無意識に「レスと呼んでください」とせがまれていたことが頭に残っていたのだろう。確かにこれはいけないと謝ると、勇者様は慌てて立ち上がり、ぜひ愛称で呼んでほしいと懇願した。
それに押し負けてしまったのは、言うまでもない。