髪ゴムが切れました(前編)
「あっ」
いつも通り髪を結ぼうとしてぷちんと切れた髪ゴム。
それを見て梨沙は小さく溜息をついた。
「リサ殿!今日は髪を下ろされてるのですね!」
出勤先の窓口で今日も今日とて、住人の相談や住民票の整理をこなしていると、相も変わらずキラキラした勇者様__レスリード・ユカナ・テルエンスが顔を出した。
魔王を倒すための旅に出ているはずなのにどうしてこう、毎日ここに顔を出すのだろうか。
くしゃっとした金の髪に、宝石のような碧い瞳。憎たらしいくらい良い顔をした金髪碧眼の美青年を冷めた目線で見つめるが、太陽の笑顔を持つ彼には効果はないらしい。
「勇者様。本日はどういったご相談でしょうか」
「レスで構わないのですが」
不満気にしている勇者様をなおも無視すると、しょうがないとばかりに勇者様は口を開いた。しょうがないとため息をつきたいのはこちらの方である。
「では、美しいこちらの職員さんが、その艶やかな髪を今日は下ろされているのはなぜなのでしょうか?私の記憶が正しければ、髪を下ろしているのを初めて拝見するのですが」
「セクハラです」
「せくはら?」
「……職務に関係がありませんので答えは控えさせていただきます」
本当にそれに尽きる。この勇者様は、やたらめったらこの町に戻ってきて、この窓口に顔を出したかと思えば、「何色がお好きですか?」とか「好きな食べ物はなんですか?」とか、本当にどうでもいいことばかり聞いてくるのだ。
いっそ出入り禁止にしてしまいたいところだが、彼もまた勇者である前に一市民であることを考えるとそうもいかない。
公務員たるもの、よりよい市民生活のために奉仕しなければならないのだから、たとえこの上なく嫌でも、腹が立っても、向き合わないという選択肢はない。
どうせこの勇者様は答えないと窓口をほかの人に譲らないのだ。ただでさえ最近は『勇者も訪れる相談窓口ってここ?』という住民が少なくないというのに。
「……髪を結んでいたものが切れてしまったんです」
「なるほど……しかし、別の髪紐を購入すればいいのでは?こちらに限ってお給料が少ないということはないでしょうし」
それが出来たら苦労はしないのだ。
切れてしまったものは梨沙がこの世界に一本だけ持ち込めたゴム製の髪ゴム。この世界に存在するのは、リボンや麻紐といった髪紐。
勝手が違いすぎるのだ。
適当にくくっておけばそれなりに見栄えするものと違って、紐は自分で結ばなければならない。少しすれば慣れるのかもしれないが、今朝まで働いてくれていた髪ゴムから髪紐に乗り換えるには時間が足りなさすぎる。
「……結ぶのに、なれていなくて。以前使っていたものは、多少不器用でも使えるものでしたから」
「……」
なんだか弱みを見せているようで目を逸らすと、勇者様はなぜかその場で蹲った。
「可愛らしい……!」
体調でも悪くなったのかと慌てて様子を伺えば、口元に手を当て感極まっている。
「どちらかと言えば、凛とした美しさを持つリサ殿ですが、今のは反則です……!愛らしいです!」
「はぁ……」
どこにそう思う要素があったかどうかはともかく、体調が悪いわけではないらしい。
疑問が解決したのだったら、後ろに並んでいる白髪のナイスミドルに順番を代わってほしいものだ。
午前の業務も終わり、いつもの大衆食堂で昼食を取ろうと職場を出る。
この食堂は、大衆食堂というだけあって値段もお手頃で、なによりメニュー数が多い。定食だけで八十種類を超えるのだから、全部で二百種類くらいあるのではないだろうか。
壁中に張られたメニューの短冊を確認する。
不思議と文字は読めるし、書けた。日本語を読んでいるし、書いているつもりなのだが、便利なことにこの国の言語に勝手に変換されるらしい。
『トマトを添えた魚の香草焼き』を頼んで席に着くと、当然のように同席してくる勇者様。百歩譲って同じく席をついた魔法使い様と聖女様と踊り子のお姉様はいい。
文句を言うのも、もう諦めた。この一ヶ月、連日そうなのだから、諦めるしかない。
「リサ、なに頼んだの?」
「魚の香草焼きです。レトラさんは?」
「私はお肉!鶏肉の蒸し物よ」
楽しそうにそう言うレトラ__レトラ・ルナンドは魔王討伐に向かう勇者一行の踊り子。
肩に掛かる栗色の髪と、翠の瞳。出るとこは出て引っ込むところは引っ込んでいるメリハリのついた身体は同じ女性からみても美しいと思うのだから、男性からしたらたまらないだろう。
それでいて接近戦も、後方支援も、回復もできるオールマイティな強い人。
魔法使いのアルベリッヒと同じように、召喚されてからこの世界に慣れない梨沙を気遣ってくれる、優しいお姉さん的存在だった。
もう一人の女性……というより少女と言った方がよいだろう。十代後半の華奢なマリナ・リスリックはこの国が誇る聖女様である。お姫様のような金の髪を一本の三つ編みにして肩から垂らし、真っ白なローブを身に付けた、光り輝くような美少女。
愛らしい見た目に反して、表情はあまり変わることはなく、口数も少ないが、毎回この場に来るのだから、付き合いは悪くないのだろう。
魔法使い様曰く「少し人見知りな子」らしいので、梨沙としてはぜひこの美少女と仲良くなりたい。
「綺麗な髪……」
じっとマリナを見つめていると、それに気づいた彼女が小さく呟いた。クリクリとした空色の瞳に見つめられるのは照れくさい。レトラもマリナに同調して梨沙の髪を一房取った。
「そうね。クセのない髪で羨ましい!艶やかで綺麗ね。今日は髪を下ろしているの?」
「リサ殿は以前使っていた髪を結ぶものが切れてしまったらしい。前のものとは勝手が違うらしく、髪紐は使えないそうだ」
「なんであんたがそれを知っているの……」
もっと言ってやってください、と心の中でレトラを応援する。
「教えてあげようか?結び方」
人の良いレトラの提案は嬉しかったが、梨沙は首を振った。
「折角ですけど、切るつもりなので」
習うのもいいかもしれないが、気分を変えるのも悪くないと思うのだ。
それを理解しているらしいレトラとマリナは、勿体ないけどショートも似合いそうだと言ってくれた。
それぞれ違うショックを受けたのは男性陣の方だった。
「長い髪、似合ってらっしゃいます!ハッキリ言って好みなのですが……」
「黒髪を切るの!?あ、でも切るのなら一部欲しいなぁ……」
二者二様の反応で彼らは長い黒髪を惜しんだ。
勇者様はともかく、魔法使い様がショックを受けているのが不思議で、思わず聞いてみる。
「魔法っていうのは深い色である方がいいんだ。僕みたいな濃紺とか、深紅とか……その最たるものが黒なんだよ。例外はマリナくらいじゃないかな?」
自分の話題が急に出て少し居心地が悪そうにしている聖女様は、勇者様に負けないくらいの立派な金の髪の持ち主だ。それでいて彼女は回復魔法の国一番の使い手らしい。
「というか、アルべリッヒ!聞き捨てならないのですが、髪をもらうってどういうことなんです」
噛みつく勇者様に、飄々と彼は答えた。
「黒の髪には魔力が宿ると言うからね。魔法具の核になりそうだなーと」
「はぁ!?話にならない!……とにかく、リサ殿。髪を切るのはお止めください。もう少し考えてからでも遅くはないでしょう?」
「……まぁ、そうですが」
結局、数日のうちには切らないという約束をしてしまった。
断じて、断じて、勇者様の美貌を持ってせがまれたからではない。断じて。