少年と公務員
酷い偏頭痛のようなガンガンとした痛みに、失っていた意識が無理やり起こされた。ゆっくり瞼を開き、見知った光景ではないことを確信して、小さく息を吐いた。まだ立ち上がれないのを理由に目で周りの様子を確認しておく。紅いカーペットが敷き詰められた床、チョコレート色の壁紙、草花の模様に彫刻の施された机や椅子。古いが柔らかい光を放つランプ。そして梨沙が寝かせられている大きな寝台。
貴族の部屋だと言われても納得できそうな豪華な部屋だが、ただひとつ、部屋のいたるところに積まれた本だけが異質だった。博物館行きの古そうなものもあれば、巷で流行りの小説も、ジャンル、年代問わず様々な本がうず高く存在していた。
梨沙をこの場に連れてきた存在が周りにいないことを確認して、息を潜めながら身体を起こす。特に怪我はないものの、気絶させられた時に数束髪が切れたのか、着ている洋服に黒髪が絡みついていた。
「逃げなきゃ……」
あの少年が誰なのか定かではないが、乱暴な手段で連れてこられたのに変わりない。いずれ梨沙がいないことは職員や勇者たちにバレてしまう。心配をかけたくないというのは我が儘かもしれないが、決して彼らの荷物になりたくはなかった。
困ったような、怒ったような、複雑な感情で笑顔を浮かべるレスリードが脳裏によぎった。傲慢で押しが強いように見えて、踏み込んでほしくないところに踏み込まない。勇者たらんとする姿は好ましいけれど、その裏で一人の男としての葛藤だったり、悩みだったりというのも確かにあって、勇者であり、一人の人間であるレスリードという個人を、梨沙は前ほど嫌いじゃない。
「地下室、散らかったままだったらみんなパニックになるだろうな……」
そうじゃなくても、出勤してこない梨沙を不思議に思うだろう。
梨沙は意を決し、一つしかない出入り口の扉に近づいて、そっとノブに手を掛けた。音を出さないように静かに回し、鍵がかかっていないことに安堵する。ひんやりと冷たいドアノブに力を込めて、ドアを開けた。キーっと甲高い音を立てる扉の先には自分と同じくらいの背丈の少年がいた。冷たいものが首筋に当てられた時のような、背筋を伝う恐怖に身体は動きを止めた。
見事な紅い髪と黒い瞳の彼は地下室と同じように、どこか困った声で「部屋に戻ってくれる?」と言った。
犯人である少年に押されるように足は一歩部屋の中へ戻った。梨沙が足を引いたおかげで、扉とのあいだに隙ができ、少年はその間を通り扉を閉めた。立ち尽くす梨沙を視線で動かす。その強い瞳になぜだか抗えず、彼の目線の先にあるテーブルセットの赤いふかふかの椅子に腰を下ろした。
梨沙が座ったのを確認して、彼もまた向かい側の椅子に座った。ぱちんと指を鳴らすと、目の前の机の上に、湯気をあげるケトルとティーセット、ナッツのビスケットや、干しブドウのスコーンなどいくつかの茶菓子が現れた。顔に似合わず、手慣れた様子でお茶の準備を整えた少年は、梨沙にティーカップを一つ渡した。金縁の美しいティーカップには琥珀色の液体がたっぷりと満たされており、不安げな梨沙の顔を映しこんでいた。
「どうぞ」
「……」
「毒とか入ってないよ。なんなら僕のと交換する?」
「いいえ……」
勧められても手を付けない様子に肩を竦めると彼は、自分の分の紅茶を口に含んだ。それからもう一度黒い瞳が梨沙を捉えた。上から下までゆっくり眺めた後、ざっくり切れた黒髪を見て痛ましそうな顔をする。
「髪切るつもりはなかったんだけど、手加減ができなくて、ごめんね」
泣きたいのは梨沙の方なのに、彼の瞳があまりにも悲しみに満ちていたから、思わず首を振った。髪ならばいつかまた伸びる、と思うのは甘いだろうか。
それよりも聞きたいことが山ほどあった。なぜ梨沙を捕らえたのか、ここはどこなのか、少年は何者なのか。
すべて正直に答えが返ってくるとは思わなかったが、一縷の望みをかけた。
「……あの、ここはどこなんでしょうか。それになぜ私を誘拐したのですか?貴方はいったい、誰なんですか?」
「……そうだね、一番答えやすいものから答えようか」
カップを机の上に置くと、愁いに満ちた表情で梨沙を見据え、ゆっくりと口を開いた。
「我が名は、ルーカス・リスリック。人々からは魔を統べる者、魔王と呼ばれている」
紅い髪に黒の瞳。魔に愛される素質を持った少年の目は、不思議なくらいの嘆きを湛え、梨沙を映していた。