異世界公務員の忙しない一日(後編)
そう広くはないロビーを埋め尽くす、人、人、人……。
ノルンの手紙から五分もしないうちに梨沙は職場に戻ってきていた。そう広くはない相談所を埋め尽くす人に圧倒され、しかし意を決して、人の波をかき分けて窓口へと向かった。
「ノルン!どういうこと!?これって」
「リサ……!このあたりで一番大きな物流関係の商会……テルダ商会が、つぶれたんだ」
「嘘でしょう……」
テルダ商会は異世界生活二か月目の梨沙でも聞いたことがある有名な商会である。自分で商品を流通できない商人や職人が所属し、国中に商品展開をしていた。
「彼らは、テルダ商会に加盟していた商人達……仕事を失くしたんだ。職の斡旋で今週は潰れるぞ」
相談所の外の列も含めれば、三百人ほどの人が職を求めてきたのだろう。
「ノルン……それだけじゃない。彼らに職を紹介するだけじゃこの問題は終わらない」
午前中の慌ただしさが静かに思えるほど、窓口は混雑していた。しかし、その熱が上がれば上がるほど、梨沙は怖いくらい冷静に頭が回った。
「明日からの流通が崩れる……物資や食品の取り合いになってしまう……!」
その未来が容易に想像できて、梨沙の声は震えた。
ノルンの瞳が驚愕で広がった。この混雑はすべての第一波に過ぎない。このあと訪れる最悪の事態……食料をめぐる争いや、不足による餓死、病気の流行などを考えるとキリがない。その心配が現実に起こり得るほど、テルダ商会が無くなったことはこの国に大きな揺らぎをもたらしていた。
襲い掛かる不安にいっそ倒れてしまいたくなる。これを二人で裁くのは無謀に等しいことだった。
「順番を守って並んでください!」
朗々と響く声に、いつのまにか下がっていた顔が自然と上がった。目線の先には混雑する相談所を整列させるレスリード、それにマリナやアルベリッヒもいる。慣れ親しんだ声のはずなのに、それは曇る目の前を薙ぎ払う強さを持っていた。不覚にも泣きそうになる。不安ではない、安堵で。
職員がくよくよしている暇はない。一番不安を抱えているのは急に職を失くした彼らの方なのだから。
「職安を設立しなきゃ……」
「しょくあん?」
「ええ……。ノルン、使われていない窓口を開けて、テルダ商会の中で事務に携わっていた人間を数人、こちら側に入れよう」
「えっ……!?」
「彼らを職業安定所の職員に任命しましょう」
それでまずは数人分の職を確保され、こちら側の戦力も増える。どうやっても二人だけじゃこの事件は回せない。それを理解したのか、ノルンはすぐに二人の男性と一人の女性を集めた。その素早さに驚いていると、ノルンは、五十人くらいはヒアリングしてたからね、と笑った。
軽く自己紹介を済ませ、改めて彼らにやってもらいたいことを伝えた。
「みなさんにやっていただきたいのは公共職業安定所……ようするに、目の前にいる皆さんに仕事を斡旋してもらいたいんです」
日本では通称ハローワークと呼ばれる施設に相当するものを、緊急ではあるが設立する。緊張した面持ちで梨沙の話を聞いていた三人は、少しだけ笑みを零した。代表して一番年かさの男が口を開く。
「それに近い仕事をしていましたから、心配しないでください。ただ……紹介できるほど、仕事はあるのでしょうか」
「っ……!」
もっともな疑問だ。こちらから紹介できる仕事は、実際ほとんどない。相談所で雇うにしても、数に限りがある。
梨沙が来てからようやく動き出した相談所は、圧倒的に民間との繋がりが薄かった。致命的な欠点に梨沙は唇を噛んだ。
「仕事は取ってくるわ」
窓口を隔てるカウンターを乗り越え、彼女は机の上に数十枚の紙の束を叩きつけて不敵な笑みを浮かべた。
「レトラさん……!」
紙の束を一枚一枚確認すれば、それは間違いなく人員募集の書類だった。
「テルダ商会がつぶれたこと、聞いたわ。うちから……ルナンド商会から出せる求人は五十人」
「ルナンド商会の求人だって!?」
「そうよ。お父様から捻りだしてきたわ」
頼もしすぎる言葉に誰もが息を呑んだ。しかし、それでもまだ足りない。
「でも、レトラさん」
「足りないんでしょ。取ってくるわ。伊達に飲み屋で踊り子やってたわけじゃないのよ?お偉いさんとの繋がりもあるわ!」
捨てる神あれば拾う神あり、とはまさにこのことだろうか。元テルダ商会の三人は、拝まん勢いのキラキラした瞳でレトラのことを見つめていた。
「テルダ商会が担っていた流通もルナンド商会と知りあいの商家たちで負担する。被害は最小限にするわ。だから、リサ……あとはお願いね」
考え得る限り、最高の条件を提示したレトラに梨沙は強く頷いた。これで彼女の期待に応えられなければ女が廃る。
話は終わりだ、とレトラは背を向け走り出した。
ここからは、梨沙たちの戦いだ。味方も、支えてくれる人もいる。拳をぐっと握って、職業安定所は幕を上げた。
走り出したばかりの職業安定所は、予想以上にうまくいった。嬉しい誤算が二つ存在したのだ。
一つは、人員募集の情報が思った以上に相談所に集まったこと。
レトラの伝手が大きな割合を占めていたのはもちろんのこと、アルベリッヒが紹介した薬屋や魔法具店。それからピンチを聞いたこれまでの相談者たちや常連さんがそれぞれに持ち寄った人員募集。
五つの窓口のうち、一つを求人書類の受付に当てなければならないほど、たくさんの情報が集まったのである。
口頭で募集要項を告げる人もいれば、書類と言うには拙い、穴だらけの情報が書かれた紙を持ってくる人もいた。けれど、書類というものに不慣れな人たちまで、力になりたいとこの場に来てくれたことが、梨沙には何よりも嬉しかったのである。
もう一つの誤算は、元テルダ商会の三人の能力が高かったこと。
似たようなことをやっていたことがある、と言っていた通り、仕事をこなすスピードが恐ろしく早かった。紹介する相手が元テルダ商会の仲間だということも大きい。それぞれの得意分野をある程度把握しているらしく、短時間でその人にあった職を紹介することができたのだ。
あとはその繰り返しだった。
誰かが持ってきた人員募集の情報を整理する。相談者のヒアリングと、職の提案。できることはそれだけだったが、涙を流しながら喜ぶ相談者を見れば、疲れなんか気にならなかった。
「ありがとう……!俺には子供を宿した妻がいるんだ……!あんた達のお陰で助かった。この恩は忘れないよ!」
そう言った若い男性が、最後の相談者だった。お昼頃から始まったこの騒動は、日付が変わってからようやく収まった。
最後の彼を送り出し、職員たちは出入り口に鍵を掛けた。今日はもう終わり。
もしかしたらまだ職業安定所を訪れていない元テルダ商会の人間も存在するのかもしれないが、まだ人員募集の案件には余裕がある。明日からまた頑張ればいいだろう。
「皆さん、本当にお疲れ様でした!」
「リサもオツカレサマデシタ……。あぁ、これがお疲れ様ってことなんだね」
ノルンが欠伸を噛み殺しながら笑った。今日こそ仕事で疲れた日は無いだろう。でも心の中は充足感でいっぱいだった。職員たちも、どこか誇らしげな顔をしている。
「レトラさん本当にありがとうございました……!」
「あぁ!ルナンド商会には選りすぐったやつを送っといたよ。くれぐれも内緒にしてくれよ?」
元テルダ商会の年かさの男、セネルが茶目っ気たっぷりな顔でそう言った。
「あら、ありがとう。でもこっちもテルダの持っていた流通を根こそぎ奪えて得したのよ。それから優秀な人材もね」
飾らない笑顔でレトラが応えた。走り回ったおかげで疲れただろうに彼女はそんなこと微塵も思わせない。今日一番の功労者は間違いなく彼女だった。人員募集だけでなく、流通の方までなんとかしてしまったのだ。その手腕には頭が下がる。
「それから、勇者様たちも……、本当にありがとうございました」
「レトラに比べれば私たちの力なんて微々たるものですよ」
そんなことはない。さりげなく求職者と求人情報を持ってきた人を分け、列を整備していたことを職員たちは知っていた。『勇者様』と『魔法使い様』と『聖女様』が列を整備していたおかげで大きな暴動もなく、相談者たちは長い時間、大人しく待っていてくれたのだ。梨沙たちが目の前の相談者とだけ向き合えたのは彼らのお陰だった。
「それにリサ殿が職業安定所を思いつかなければこちらだって……リサ殿!」
すべてが終わった心地よい充足感で、意識が遠のく。足の力が抜けた瞬間、慌てる勇者様の顔が見えて、思わず梨沙は笑ってしまった。
あのとき、前を向けたのは貴方のお陰なんですよ。
言葉にならない感謝の言葉をつぶやいて、梨沙はレスリードの腕の中に倒れこんだ。
このあと後日談があって、新しい章に入って行きます。
登場人物は覚えていただけましたか?
こちらの作品ですが、作者は公務員ではありません。公務員の方からしたら「ねーよ!」ってことが多分に含まれているでしょうし、業務も地方公務員の仕事から厚労省や税務署関連のものまで多岐に渡っています。
あくまでフィクションです。