視点と価値観
そこらへんに転がっている石ころのような人間、それが私だ。
もちろん石ころというのは例えであって、私が本当にそれであるというわけではない。
ここで私はひとつの比ゆ表現をしたことになる。
「私」≒「石」。
この場合、人間という観点(立場とでもいうべきか)から見て、「石ころはそこらじゅうに広がっている」という共通認識があって成り立つものだ。
しかし、本当にそれでいいのだろうか?
このような表現をする際、石ころに「凡百」といった見方をした人間もいるのではないだろうか?
いったいいつから石ころは凡百である、といった事実を押し付けられたのか。
石ころには、これといって使い道がないんだから当たり前ではないかと思った人間もいるだろう。
まあ、そう焦らないでくれ。
一般的に想像されるような石ころのサイズでもやれることはある。
たとえばコンクリートに入っている細骨材や、アスファルトの中にだって入っている。これらは現代人間の生活に必須のもので、決して必要のないものではない。
しかし、それは石ころであるならどんなものであれできること。
「あくまで期待されている以上の働きなどしてくれない」ということの事実の裏返しでもあるのだ。
つまり、私という人間は、「そこらじゅうに広がっていて」「あくまで期待されている以上の働きなどしてくれない」「人間」である。
ここまで書いてみて、ようやく皆さんがこの表現を聞いてパッと思いつく意味合いになるのだ。
これから書き連ねていく噺のほとんどはこのような内容に近いものになるだろう。
目の前にあることをそのままにしておくなんてもったいない。
上等な餌を目の当たりにした獣のように、考えて、考えて、しゃぶりつくさなければもったいない。
欲望の赴くままに。
深く深く、どこまでも。
思考は巡る、どこまでも。