彼女の願い
突き飛ばされた夜々は、地面に尻餅をついただけで済んだ。
「っ。…ぁ,」
お父さん、痛い…痛い、よ…っ…。
血の付いた剣、地面に溢れた血、それを流す娘、そしてそれに抱かれた天使…順に視線を移し、ソレに尋ねる。
「…天使、治療してやらないのか」
天使は彼女を抱きしめる夜に触れる。
痛みで体が震え、声は出そうで出ない…速く治療を施すべきなのは明白だ。
「…治療したくない」
「…」
この野郎…と、無意識の内に、エキドの歯が音を立てる。
娘の必死さに、迷いが生まれていたが…やはり、と剣を握る力を強める。
「治療したら…また、怪我する」
何を、言ってるんだこいつは…っ!
言葉少なな天使を、エキドは理解できない。
…当たり前のことを言われて『そうだろ』意外の言葉が見つからなかった。
「このまま死んだらどうする」
「…しなない」
「は…?」
言葉の意味を認識するより先に、反射的に素っ頓狂な声が漏れた。
夜々を抱きしめたまま動かない夜。そこから流れる血は空気に触れ、やがて赤黒く成っていくのだろう。
「…」
天使はそれきり声を出すことなく、ただ待ち続ける。
そして、まだ約束を破るわけにはいかないと…
「…約束っ…したんだ。絶対に死なないって…!」
彼女は再び目を見開いた。
地面に生えた名も知れぬ草の上についた手に力を込める。
抱いた夜々の頭に手をやり、少し撫でて白い頬へ手を移動させる。
力無くも微笑んでみせた夜は、地面に落ちた死入を杖代わりにしてよろよろと立ち上がる。
「この子は…呼び出した時、身体中を怪我してた。…っ、きっと…他の天使に、虐められていたんだよ」
口からも血が吹き出し、皿代わりにした左手に大量についた。
自分から漏れた紅の量は、見たこともない量で…何故だろう。笑みが溢れた。
「私は…この子、夜々に、『嬉しい』って『しあわせ』って、『出会えて良かった』って……『好き』って、言って欲しいの!」
「だから絶対に…負けない!」
まだ動ける。寧ろ…なんで?軽くなった気がする。
「…片腕を切り落とせば、流石に諦めるか」
エキドはまた、気付かぬうちに口角を上げていた。理由は…言わずもがな。
…見ない内に、随分変わったようだな。
「夜々、治療してくれないかな?」
後ろの夜々を振り返らずに、夜はそう尋ねた。それでも夜々が首を横に振っているであろうことは、何となくわかった。
「でも、私は…治療してくれようとくれまいと、戦うから。どっちだって戦うなら…だめ、かな?」
治されたら…また、怪我をする。
傷が癒えても、過去に感じた痛みの記憶が消える訳ではない。治した瞬間が気持ちいいわけでもない。
夜々が言うことは、もっともだった。
…解っている。それでも…という、夜の頼み。
天使は縦にも横にも首を振らず、逡巡しているようにも見えぬまま立っていたが…思ったよりもすぐに、応えはでた。
…光が夜を包み…突き刺さるような、焼けるような、そんな“辛い時間”が、漸く終わった。
…それが、夜々の答えだった。
「…ありがとう。それと、ごめんね…無理言って」
「…良い」
傷は癒えた。だが、感じた軽さはそのまま。
…身体は、限界を超える。
「でも…本当に死にそうだったら、助けてくれないかな」
返事は相変わらず帰ってこない。
だが夜はそれでも微笑むと…死入を再び構え、走り出した。
迎え撃つように父が振った片手剣による斜め切りを、抜刀して防ぐ。
衝突は旋風を巻き起こし、辺りの草花を空へ。
「まだまだ甘い!」
「っ…!」
雷を剣にまとわりせる寸前に、エキドは剣を引き後ろへ跳んだ。
「っ…」
夜は追撃に走り、雷を帯びた剣がエキドへ迫る。
高速のそれを、エキドはしかし剣で容易く防いでいく。
防いだなら、雷が剣を伝い、少なくとも一瞬隙ができる…はずだった。
…!
「間抜け!そんな雷が効くか!」
剣と剣がぶつかり合い、確かに雷はエキドへ伝ったが…歴戦の戦士はそれぐらい屁でもない。
受け止めた死入を上へ弾き、エキドの長い右脚による蹴りが放たれる。
「間抜けはそっち!」
雷が効かないのは予想の範囲だった、とでも言うように、涼しい顔で口角を上げ返して見せる。
夜は上へ飛ばされた死入には目もくれず、体を反らし蹴りを避けた。
そして父の斜め下、後ろへ回り込み、足を下から押すようにしつつ掴むと、鋭い蹴りのベクトルを促進、加速させるようにして、脚から巨体を投げ飛ばした。
技の速さを上げるため体を軽くしていたエキドが相手だったからこそ通じた即興の技。だが…そのキレは甘い。
エキドは転がるように受け身を取る。
だが、一瞬でも…彼女を視界から離してしまったのが間違い。
居合一閃。
空から落ちてきた死入を掴み、またもエキドの背後へ回り、波の上を滑るように空を切り裂いた。
後ろを振り向きつつもエキドが盾にした剣が綺麗に真っ二つに折られ、その刃が宙を舞う。
太陽の光を反射しつつ飛ぶそれは、何処か空の彼方へ消えてしまった。
「…手、抜いたでしょ」
「抜いてない。歳を取っただけだ。…こっちの小さい剣なんかロクに使ったことも無い。あの時大剣を投げた俺の判断ミスだ」
自分如きでは父の魔法を破れるはずはない…そう思っての台詞だったが、これも死入の力だと思えば納得がいった。
「っ…はぁ……。もう、疲れたぁ…」
「…成長、したな。学校へ行っても、剣の鍛錬は疎かにしなかったのか」
「うん。…死入って、普段使っても平気かな?」
「問題ないだろう。それの姿を知ってるのは勇者と俺と、仲間の聖職者だけだ。封印のことも、当時の王を含めた4人しか知らなかった」
そっか…。と地面にペタリと座り込む。軽く話をしたら、完全に緊張が切れたのだ。
死入を掲げ、自分に降りる光を遮らせる。
風が気持ち良く、眠りそうになったが…肝心のことを聞いていない。
ちょいちょい、と夜が手招きをすると、翼を広げてゆっくりと飛んできた夜々。
膝を叩くと察したのか、そこへ腰を下ろし、翼を消した。
「…納得してくれた?」
父は渋い顔で、娘の膝の上に座る天使を観察する。
…無愛想で、何を考えてるのか分からない…弱々しくも謎めいた雰囲気を持つ少女。
何がそんなに気に入ったのか、彼にはわかりやしなかったが…
『しなない』
あの時の言葉だけは、確かに胸に残っている。
「…余程気に入ったんだな」
「うんっ。たまにしか喋ってくれないけど、可愛いでしょ?」
「…はぁ。好きなことに一直線なのは、誰に似たんだか…」
んん〜…とスリスリと頬を合わせる夜と、無表情を尚貫く夜々。その様が少し滑稽で、溜息は小さな笑い声に変わった。
「…解った。俺も手を貸そう…父親だからな」
流石に村の入り口で込み入った話をするのもどうかと、エキドは夜に手を差し伸べる。
「…うん、ありがとう。お父さんがいたら、もう安心だね」
ふわりと浮かび上がった天使は夜の背後へ戻り、夜は父の無骨な手を取り立ち上がった。
…うちの娘は、やはり世界一だな。
…急に立ち上がり、夜の意識がふらりと、風に揺らされるようにブレる。
「っと…傷は平気か?」
「うん、跡も残ってない。…貧血気味なだけ」
「…悪い、やりすぎた」
「気にしないで。事が事だから…結局お父さん、召喚獣使ってなかったし…なんの種族なのさ」
「さてな。もうずっと会ってないから、覚えてない。…そういえば、その天使の名前は?」
「あっ、そうそう!名前をお互いにつけあったんだよっ。そしたらねそしたらね〜…」
1年ぶりの再会で色々なことを語り合い、その日は久し振りの我が家で終えた。
受験生のため、こちらの更新は一時ストップさせていただきます。