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「あ、あなたは……!!」
体が弛緩していて、思いの外上擦った声が口から飛び出す。
「覚えてくれていてほんとに光栄だよ。とは言ってもまだ、別れて一時間程度しか経っていないんだけどね」
高貴なイギリス紳士を思わせる雰囲気、この洗礼された所作。見る者の目を留める彼の青年は、見間違うはずのなく《雪片勇介》氏だ。
軽度に整髪された前髪をわしゃっと掻きあげ、彼は目つきを鋭いものに変える。
「いやぁ、とんだ計算違いだったよ。まさか君に《舞神》がコンタクトを取るなんて……いずれ起こりうる可能性自体は視野に入れてはいたけど、もう少し時間が掛かるだろうと"上"も考えていたんだが」
「雪片さん、俺にはまったく仰っている意味が」
「下がれ少年。こ奴からは並々ならぬ気配を感じる。ここから先は儂が奴と話をする」
背後から重厚なプレッシャーを感じ、体が自然と半歩後ろに下がっていた。
視界に少女の小柄な四肢と、それに纏わりつく、空間が歪んで見えるほどに沸き立つオーラが現れる。
「何の用じゃ小僧。儂の結界を破るなぞ、到底人間のなせる技ではないぞ」
陽気に語っていた時から比べると、ワントーンもツートーンも低い声が空気を震わせ耳に届く。その声には明確な殺気が込められているように思える。
「まさかとは思うが……五帝いずれかとの契りを交わした、というわけではあるまいな?」
横目でちらりと金獅子の――少女の表情を盗み見る。柔和な顔つきには不似合いな、険悪な鋭さが張り付き、背格好からは想像できない辛辣なプレッシャーを与え続けていた。
その表情に、雪片は気圧された様子は全く見せず、むしろ対照的な明るい微笑で浮かべ。
「さすがは金獅子殿。御察しの通り――」
おもむろに右手を持ち上げ、指先を意味有りげにパチンと弾いた。
その瞬間、青年の瞳に赤々とした閃光が奔る。
足元から身体全体に掛けて真っ黒な奔流が沸き起こり、その中で青年が醜悪な笑みを浮かべている。
影のようなそれは、青年の傍で形ある存在へと姿を変え――。
「僕はこいつを屈伏せしめたのさ―――!!」
主の声に呼応してか、高らかな雄叫びを街中に響きわたらせた。
全身を覆うのは艶のある鉄黒の短毛。後ろに行くほど細く引き締まった胴に、地面を力強く踏み付ける前後2本づつの脚。そして、闇色の中で唯一金色の光を放つ、鋭い両の目。
同型の金獅子とは対照的な見た目であるが、よりシャープな印象を受ける、このネコ科の動物を象ったバケモノの名は――
「なっ――黒豹じゃと!?」
「相変わらず元気のいい雌猫みたいだな、金獅子。少し見ねぇ間に少し老けたんじゃねぇか?」
笑い混じりに、よく通るバリトンボイスで挨拶の声を掛ける黒豹。
金獅子の驚いた様子に優越感を覚えたのか、一層笑い声を強めた雪片が、少女に言葉を投げかける
「どうです、《舞神》。こいつのことをよく知っているが故に、大層驚かれたことでしょう。なんせ、五帝最強と呼ばれた《黒豹》を掌中に納めたのですからねぇ!!」
するとその発言に耳にぴくっと反応させた豹は、目を伏せながら
「おい、何回も言ってんだろ、俺はわざとお前に負けてやったんだって。その辺勘違いされると俺の面目立たなくなるじゃねぇか」
そんなやり取りにも耳を貸さずプルプルと震え続けていた少女が、人間の横で身体を沈めた豹に向けて、毅然と言い放つ。
「《黒豹》……貴様も落ちぶれたものだな。こんな腹の汚い若造なんぞに付く程の愚か者だったとは知らなんだ!」
「斯く言うてめぇも、雑魚臭たっぷりのガキとつるんでるじゃねぇか」
火花散る両者の間に、
「あー……旧知の友との再会で盛り上がっているところ恐縮なんだが、僕にはあまり時間がないのでね。話を進めてもいいかな?」
鼻の付け根を左手の親指、人差し指で押さえながら、雪片は二人(二匹)の会話を遮った。
「小僧、目的はなんじゃ。彼の闇帝と手を組むなぞ正気の沙汰とは思えんぞ。五帝安寧を誓ったというのに、《黒豹》が力を貸すほどのことともなれば……戦争を起こす以外考えられん」
「やはり、金獅子殿は鋭い頭をお持ちのようだ。ならば話は早い」
そう言い切ると雪片は一呼吸置いてから、腰を折り右足を立て跪いた。
深く頭を下げ、真剣味を帯びた声音ではっきりと言葉を続ける。
「私、雪片勇介とともに……大悪党、八重家一族を滅ぼしましょうぞ。貴殿の、光帝の力と、我が闇帝眷属の力を持ってすれば、あのような蛮族共など造作もないことでしょう」
今の今まで俺は、完全に蚊帳の外にいたはずだった。もちろん金獅子が雪片の相手をしてくれていたからというのもあるし、何より俺の知識じゃあこのレベルの話を理解することが出来なかったからだ。
だけど、今雪片の言葉を聞いただけで俺はすべてを理解した。
――この雪片という男は、バケモノを――特に優れた個体である《五帝》という神格を集め、日本の裏社会を牛耳る《八重家》の人々を、殲滅しようとしている。
俺も血筋は引いているし、つい二年前までは八重涼太として名を連ねていた一族であるから、どのような家風か、どのくらいの規模なのかは把握している。
だから、彼の言っていることが何れ程、馬鹿げているのかも理解しているつもりだ。
八重家は、その財力と人脈ゆえに日本を実質支配し、かれこれ江戸時代から今に至るまでその名を轟かせてきた。刑事、判事、政治、外交などあらゆる分野に強いコネクションを確立しており、総理大臣はもとより、各国首相にまで食い込む事が出来るほど巨大な組織だ。
だから言ってしまえば、八重を敵に回すことは、世界を敵に回すことと同義である。しかし――
俺の目の前で腕を組んだ彼女を初めとする、《五帝》が集まったのだとすれば……そのバランスはいとも容易く崩壊することは想像に難くない。
「おいおい……仮にもここには八重の坊ちゃんがいんだろ?そんなやすやすと話しちゃってよかったのかよ?」
「あぁ気にするな、その子はもう八重ではない。ただ利用価値のある少年だよ。だから金獅子、少年とではなく僕と……」
「断る――と……言ったら?」
「うーん、聡明な貴方ならばその決断はないと踏んでいたのですが……そうですねぇ、実力を以て排除させてもらう、でしょうか?」
金獅子を纏っていたオーラの色が徐々に赤く染まりだしていた。その現象の意味を、果たして雪片はどのように理解しているだろうか。
「面白い……ならばやってみるといい。儂が手前如きに屈するわけは無かろう。黒豹、貴様のその心底腐った根性諸共――塵に返してくれるわ!!」
大地が轟き四方八方に亀裂が入る。金獅子が立つ位置を中心に、大きく陥没し、その余波で時空がポロポロとかけていく。
「交渉決裂……というわけですか。まぁいいさ、残りの四帝全てを仲間にすればどうにでもなることだろうし」
紳士風な青年は、立ち上がることなく後ろに飛び退り、空中でくるりと後方一回転を決めた。その身体を、受け止めるように黒豹が同タイミングでジャンプ、背中に載せる。
豹の背に跨る雪片は、再び前髪を掻きあげ瞳孔を深紅に輝かせながら嘲笑を上げる。
「というか焔帝と氷帝はもう手の内にある。計画の第一段階は既に始まっているのだよ……」
「思い上がりおって……!!手前の喉笛噛みちぎってやろう!!」
体勢を低くし、爆発的に高まった脚力で強く地面を蹴り出す金獅子。
黒豹も四脚の足を存分に縮こまらせて、空気を蹴り一迅の疾風のように駆け始めた。
「久しぶりに、鬼ごっこでもやるかぁ、どうだ澪!!」
「いいじゃろう、迅!!さりとて貴様が一度でも勝ったことがあったかのう!!」
だが大地を駆け空へと昇り詰め始めた2体の神の間に、再び青年が入り込む。
「残念だが《舞神》殿!僕を追いかけてくれるのは嬉しいが、その代わりに焔帝の眷属が涼太くんを殺してまうぞ!それでもいいのか!」
「そういうことだから、大人しく死んでくださいね――"用済み"、君」
焔の鱗、とでも表現したらいいのだろうか。
空を見上げていた俺の視界に現れたのは、大きなトカゲみたいなバケモノを従えた、赤髪の少女だった。
「聖なる炎天の元に、灰燼と化せ――獄炎の息吹」
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