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「はぁ…」
身長よりも長く細い布袋を右手で抱えて歩きながら、俺は一人溜息をつく。
人の波もたいぶ収まり、澪奉の街は昼間から比べたらがらんとしているが、それでも行き交う人々は相当数いてブルーな気持ちの俺にとっては鬱陶しいものだった。
先程まで珈琲で膨らんでいたお腹も、燃費の悪い体質のせいか情けない悲鳴の声を漏らしている。
現在は三時過ぎくらいか。よく考えてみればちゃんとした食事は朝食べたきり口にしていない。このまま帰宅して夕飯まで我慢すべきか、この辺りにある軽食店に這入って何か食べるかと逡巡しかけたところで、再三に渡る抗議の音が耳に入り、一も二もなく後者を選ぶことにした。
というわけで、できるだけ近くに…とふらつく足をなんとか踏ん張り、周囲に目を配っていたその時だった。
大きなショッピングデパートのウィンドウ正面に立ち止まる巨大な影を見て俺はすぐに勇む脚を止めた。
そこそこ距離があったし(なんせ俺は目があまりよくない)、人が右往左往していて詳細までは見ることはできなかったのだが、大きさから判断するに大型犬か何かだろうと推測する。
しかしその存在に不自然なものを感じ眉を顰めた。あれだけ大きな動物がいるのであれば誰かしら振り向きはするだろうし、もし人間に飼い慣らされているのならばその主がいて然るべきはずなのだが、どうやら周辺にもそれらしき人物は見当たらない。
まるで誰もがその存在を容認しているかのように、咎めることも訝しむこともしない。元からあの場所にあった、オブジェクトか何かを見ているように、誰も見向きしなければ、違和感すら感じさせる様子もないようだ。
静かに身じろぎもせずたたずむ獣の姿はある種、百獣の王の如し。ひたすら気配を消して景色に溶け込み、獲物を待ち構える獰猛な獅子のような印象を与える。
いつしか俺の瞳は、その存在に釘付けになっていた。先程まで心に居座りまとわり続けていた不快な劣等感も、ひしひしと沸き上がってくる単純な好奇心に押しやられ始めていた。
視線を真っ直ぐに固定したまま、謎の存在に少しづつ足を踏み出す。一歩、二歩。ゆっくりと、確実に距離を詰めていく。
その時。肌をちくりと針で刺したような僅かな、それでいて明らかな殺気じみたものを感じたのだ。
人影の中をすぅっと細められる黄金色の瞳。明確な指向性を持ったその視線の先に這いよる者の存在を察し、牽制するかのごとく射貫いてくる。
全身が総毛立つ感覚に見舞われ、俺は思わず体を竦ませ身構えた。
圧倒的な質量で叩きつけられる警告と、凄みを効かせて睨み付ける、あからさまな警戒。大胆なようでいて繊細な心理を持ち合わせている獅子は、どこか古めかしい人間臭を漂わせていた。
じんわりと汗に濡れて張り付くカッターシャツ。額からはだらだらと脂汗が滲み始めている。
『ふふっ、面白い人間じゃ。儂のことが視えているようじゃのう』
張り詰めていた意識を掻い潜るように、突然頭の中に直接響く獰猛な声に、思わず俺は息を吹き出した。一瞬脳裏をよぎった「どこから!?」という愚問をすぐに霧散させるが、それを察した声の主が微笑混じりに言葉を続けた。
『儂に気付いておるのならこっちに来い。そんな半端な位置に居られると話しづらいではないか』
「あっ…」
と、いつものように声に出そうとしかけた時に、そうだったと思い直し早急に口を噤む。なにより傍からみれば、比較的でかい声で独り言を言っているようにしか見えない筈だし、相手は意識に直接話しかけてきたのだから、心の中で会話すべきなのだ。が、俺はそんなテクニックを持ち合わせているわけではなかったので、一応「わかった」と念じたあと、すぐに止めていた脚を再び回転させ始める。
獅子を中心に発散されていた重厚な殺気は、いつの間にか霧散していて先程よりは随分と近づきやすくなった。だからといっておいそれと緊張を解けるほど俺も子供ではない。油断しているところに奇襲を仕掛ける、という可能性も無きにしも有らずなのだから……
それ程遠い距離でもなかったのだが用心に用心を重ね歩いた結果、距離を詰め終わるまでに3分ほどの時間を要してしまった。動物の表情を読んだりすることはできないから、それに対し獅子はどのように感じたかは定かではないが、囁かれた言葉によって、怒りを感じたということはないように思われた。
「少年……なぜ儂がいることがわかったのじゃ?自画自賛するわけではないが、そこそこナイスハイディングだったじゃろうに」
「俺にもよくわかんないけど……普通に見えたというか、なんというか…」
語尾を口の中でモゴモゴと発しながら頭を一掻きした。はっきりしない物言いに獅子は「まぁ、それはよい」と呟いて続ける。
「久しぶりに現界してみたのはいいものの……どうも、少し騒がしくていかんのう。少年もこの状況はあまり好ましいものではないじゃろう?」
確かに。今の俺の様子は、置物か何かと会話を交わす変な少年ってところだろう。この獅子は見た感じ誰の目にも当たり障りなく映るようだけど、俺は違う。ただでさえ長い何かを持った奇異の存在で人の目を集めてしまっているし、これ以上の悪目立ちは是非回避したい。俺はその問いに対して首を縦に振り肯定の意を表した。
「あぁ、出来るなら場所を変えたあとで詳しく話したいんだが……」
声を顰め手を口元に当てながらの提案に、果たして獅子の返答は
「いや、場所ならここでも構わん。が、少しこ奴らを黙らせようと思うてな」
「!?」
嫌な予感を感じ、慌てて獅子に問い返す。
「えっちょっそれ、歩行人たちを殺すってことじゃ……!?」
「さすがにそんなわけはなかろう、何を勘違いしておる。黙らせることと死滅させることが同義じゃと誰が言ったか。最近の世の中は物騒になったもんじゃ」
えぇ…じゃあどうやるんだよ、と思っていたことがそのまま口から出そうになりかけたが、なんとか胃の中まで押し戻し、別の言葉を探し出す。
「な、ならどうやるっていうんだ?今度はこの人達の目を騙すんじゃなくて、耳を騙すとか?」
当てずっぽうに言ってみたことだったが、俺の思想は強ち間違っておらず、寧ろ半部以上は当たっていたようだ。
獅子は獰猛な目をギラギラさせ、人間ならばドヤァという擬音が相応しい表情を浮べながら言う。
「――時間を、騙すんじゃよ。儂にのみ赦されし想像の――いや《創造》の力で、な……」
"ソウゾウ"という言葉を聞いて、俺の頭は急に思考を停止させてしまった。
想像?創造?なんのことかさっぱり見当もつかない。この動物は何を口走っているのだろうか。もしかしたら厨二病という煩わしい病にでもかかってしまったのだろうか。
腹の底から沸き上がってくる嘲笑を堪え切れず、思わずぷっと吹き出してしまっていた。腹を抱えて、程にはいかなかったが少なくとも口を塞いで笑いをどうにか収めようとしていた。だから、俺は大事なことを見落としていたのだ。
そう、ここが普通の街とはかけ離れていたことを。常識ではありえないことも、澪奉市ではありえるという事実を。
「――そして流れは絶え失せる」
いつの間にか、景色から一切の色彩は消え果てていた。