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[3]

 乾いた喉を潤すために、ソーサーからカップを持ち上げ熱々の液体を口に含む。口内に広がる、適度に焙煎された珈琲の味と奥深い風味に名残惜しさを感じながらも、俺はテーブルにカップを戻した。

 目の前の紳士然とした青年も、同じように喉を潤し静かにカップを置き、目を伏せ味を愉しんでいるようだ。

 店内を流れるBGMだけが二人の間を流れ、何気ない昼下がりの雰囲気を充満させている。俺たちの他に客はいないのか、喫茶店の中は案外ひっそりとしたものだった。

 とりとめのない思考と視線を半強制的に店内から、目の前に戻し固定した。その行動に気づいたのか、青年も瞑想から現実に意識を引き戻したようだ。

 ぶつかりあう視線。初めて会った人物との慣れない空気に、俺は少々たじろいでしまったが彼からはそんな雰囲気は感じられなかった。やはり荒波のような厳しい社会を生き抜いているから、場慣れしているのだろうか。

 「一息ついたところで……カードケースの持ち主が見つかって本当に良かったよ。あのまま見つからなかったら大変な事になっていたところだったね」

 青年は微笑を浮かべ不意に言葉を投げかけてきた。優しい微笑みから本当に俺のことを案じてくれていることが伺える。

 その恩義に神にでも救われたかのような気持ちになりながら、

 「ホンっっっっトにありがとうございました。貴方が駆け付けてくれなかったら俺は、今頃警察のお世話になっていたところです。この御恩は決して忘れません!!」

 テーブルに手をつきながら、音がしそうな勢いで頭を下げた。偽りなど無い本心からの感謝をありったけ伝える。

 「そんな…僕は対したことしてないよ。ただ、困っている人のためにちょっとあとを追っかけたくらいで…」

 「充分ありがたいことです、いくら感謝しても感謝しきれません。届けていただいたカードケースには僕の個人情報だって入ってたわけですし、結果的に流失を阻止してもらったようなものです。重ねてありがとうございました」

 気持ち的には土下座してでもこの感謝を形にしたいところだったが、ここは店内で人目もあったのではばかられた。その代わりに誠心誠意、最後まで低頭の体制を崩さず、言葉を重ねた。

 あの後、駆け付けてくれた紳士然とした青年からカードケースを受け取り無事精算を終えることができた。その後、この青年から少しお茶でもと誘われ現在に至るというわけだ。

 そういえば思い直してみると俺は彼の名前を聞いていなかった。大袈裟かもしれないが、実質彼は恩人(俺としては大袈裟ではないことだと思う。もし個人情報が流失していれば命を狙われる可能性もあったかもしれないし)だ。このままおいそれと名前も知らないまま立ち去るのは些か不謹慎すぎる。

 躊躇いがちに伏せていた顔をあげ口を開いた。名前を聞くときは、自分から名乗るのが礼儀である。

 「不躾ながら名前を申し上げるのを遅れてしまいました。僕は――」

 「八重凉汰やえりょうたくん――だったかな?」

 「!?」

 なんで俺の名前を、と言いかけた口を、はっと思い直してきつく結び直す。

 相手はカードケースを拾ってくれた人物、もちろんその際生徒証明書も確認しているはずで姓名を知っていても不思議はないし、そして俺が《八重》の人間だという事も既知の事実だったわけだ。

 看過されていたことは言うまでもなかったのに、八重家の人間だと言い当てられ全身を電撃が迸る。

 「すまない、持ち主を確認するために少々拝見させてもらって……気分を害してしまったようだ、本当に申し訳ない」

 気持ちが表情に表れてしまい、今度は青年がバツの悪そうな表情で頭を下げた。

 「違うんです!貴方は何も悪くない、当然の事をしただけじゃないですか!頭を下げるべきは俺のほうです」

 誰がどう見ても彼に非はなく俺が悪い筈なのに、そんなことを攻めはせず謝罪の言葉を告げてくる。

 どうしていいのか、混乱し慌てふためいている俺はほかの目から見ても心底情けなく写っていることだろう。

 両者ともに頭を垂れしんとした空気が暫し流れたあと、ゆっくり顔をあげ紳士の青年が口を開いた。

 「僕だけ名前を名乗らないなんて失礼な真似をしてしまった」

 居住まいを正し背筋を伸ばして、彼は俺の目を見ながら滑らかに言葉を紡いでいく。こんなところまで紳士のような振る舞いができる彼は、俺とは比べ物にならないほど良くできた人間である。

 「僕は雪片勇助ゆきひらゆうすけ。――出会ったばかりですまないがもう僕は会社に戻らなくてはならない。ちょっとの間だったけど楽しい話ができて良かった。ここは僕が払っておくから心配しないでくれ」

 それじゃあ、と言い残し雪片さんは踵を返しレジの方へ向かっていった。最後の最後まで紳士的な言動で立ち去る彼はやっぱり俺とは違う「本物」なのだろう。

 カランコロンと入口の扉が鳴り、消えていく背中を目で追いながら、俺はカップに残ったコーヒーをやけくそ気味に煽っていた。


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