3日目 水曜日
「…………」
耳元で、誰かのささやき声が聞こえてくる。
不思議に思いながら目を覚ますと、目の前に結梨花の顔があった。
「ええと、お、お兄ちゃん早く起きてよ。もう、私がいないとなんにもできないんだから」
なに言ってんだ? こいつは?
「おい」
「ぬわっ!?」
驚きながら、結梨花が飛び退いていく。
「お、おはよう」
「おはよう、おまえは人の枕元でなにをやっているんだ?」
「なにって、練習に決まっているだろうが」
「練習?」
「ああ、兄を起こすときは、こういうセリフを使うのがデフォルトみたいだからな」
「それはどこの世界の標準設定だ」
朝っぱらから、なにをやっているかと思ったら。
「昨日やったゲームのヒロインは、こうやって起こしていたぞ」
「おまえ、あのゲームをやったのか!?」
「ああ、最初の方だけだがな」
「だったら、それ以上はやるな」
「なぜだ?」
「いろいろと問題になりそうだからだよ!」
今よりもっと、よけいな知識を付けられたりしたら、たまったもんじゃない。
下手をすれば、おはようのキスをしよう……なんてことを言ってくるかもしれないし
「おまえがそういうのなら、そうするが……あ、そうだ! おはようのキスというものを――」
「やらないから!」
「むうぅ……」
どうやら、すでに遅かったらしい。
「とにかく、着替えるから出ていってくれ」
「仕方がない」
がっかりした様子で、結梨花が部屋から出ていく。
やれやれ……朝っぱらから、こんなに騒ぐことになるなんて。
そもそも、結梨花に自分が美少女だっていう、自覚がないのが困りものなんだ。
オレだって思春期の人間なわけだし、なにかのはずみで自制しきれなくなる可能性もある。
ああ、茉莉花ー! 早く帰ってきてくれーっ!!
着替えをすませたあと、部屋からダイニングに移動した。
「朝食の準備をするから、ちょっと待っていてくれ」
「わかった」
今朝の朝食は、結梨花が作ってくれるみたいだ。
腕の方は信用できるし、任せるとするか。
「さてと」
オレはソファーに座って、テレビの電源をつけた。
画面から、切羽詰まった様子で話す、レポーターの声が聞こえてくる。
どうやら、臨時ニュースをやっているみたいだ。
「なにか事件でもあったのかな?」
『――の国で、起こった爆破テロにより、空港は完全に破壊されてしまいました』
「えっ!?」
『懸命に救出活動が行われていますが、すでに多数の死傷者が出ているようです』
テレビに映された場所を見て、一気に血の気が引いていった。
「この国って、まさか!?」
「ん? どうした?」
オレの驚きの声を聞いて、結梨花がそばに来た。
「このニュースを見てくれ」
「ニュース?」
いぶかしげな表情をしながら、結梨花が画面に視線を移す。
そして、オレと同じように驚愕の表情を見せた。
「こ、ここって!?」
「ああ。オレたちが、この間までいた国だ」
そう、事件が起こっているのは、先日まで撮影のために訪れていた国だった。
当然、茉莉花はまだ……そこにいる。
『事件当時、空港には当国に向かう便があったため、自国の犠牲者が多数出ているようです』
「まさか、その便って!?」
「ここに帰ってくるための直行便は、1日1本しか出ていない。私たちが乗ったのは一昨日の夜の便。そして、茉莉花たちが乗る予定だったのが、昨日の夜の便。時差の関係でこっちは朝だが、向こうが夜だとしたら」
「そんな――」
あの事件現場に、茉莉花がいたってことになるのか?
「う、ああ……」
無残にゆがめられた体……流れ出るおびただしい血……
両親を失ったときの記憶が、呼び起こされてしまう。
「落ち着け! まだ茉莉花たちの身になにかが起こったわけじゃない」
「……っ」
「今、ここで取り乱しても、どうにもならないんだから!」
心配そうな顔で、結梨花がオレを見つめてくる。
そうだ。取り乱している場合じゃない。
目の前にはオレと同じように……いや、オレ以上に心配している家族もいるんだ。
ここで以前のように、落ち込むわけにはいかない。
「大丈夫……だ」
「本当か?」
「ああ、本当に大丈夫だ」
オレのかたくなな表情を見て、結梨花はそれ以上なにも聞いてこなかった。
『現在、大使館をはじめ関係各所は対応で追われ、国会では臨時の会議が開かれています』
テレビからは、事件の情報が流れてきている。
ここであわてたって、事態が改善したりはしない。
今はただ――茉莉花の無事を祈っていよう。
あれから、どれくらい時間が経っただろうか。壁にある時計を見ると、昼の12時であることがわかった。
ずっとテレビを見続けていたけど、新しい情報はなかなか入ってこなかった。
どうやら現地はかなり混乱していて、今は出入国を禁止されているようだ。
「やっぱり、なにもわからないままか」
指をくわえているしかなくて、もどかしい気持ちになる。
すぐにでも茉莉花が無事かどうか確認したいのに、その手段がオレたちにはなかった。
くそっ! 自分の無力さに、苛立ちを覚えてしまう。
「……ん?」
唐突に、家の電話が鳴りだした。
「誰からだろう?」
「私が出よう」
「頼む」
結梨花がダイニングにある子機を取って、電話に出てくれる。
「……はい。あ、いえ……大丈夫だと思います。すみません、気を使っていただいて。ええ、よろしくお願いします」
電話を切ったあと、ため息をつきながら結梨花が戻ってきた。
「誰からだったんだ?」
「木之本先生だ。事件の進展について、連絡をしてきてくれてな」
どうやら電話をかけてきたのは、オレと茉莉花の担当教師である木之本先生みたいだった。
「あの人、茉莉花が巻き込まれていることを、どこで聞きつけてきたんだ?」
「今朝のニュースを見たあと、私が連絡しておいたんだ。私たちには無理でも、あの人ならなんとかできるかもしれないと思ったからな」
「なるほど」
そんなことにも気づかなかったなんて、どれだけオレは余裕がないんだろう。
木之本先生か……あの人、見た目は完全に幼女なのに、いろいろとすごい人ではあるんだよな。
去年も担当だったおかげで、これまで数多くの武勇伝を目の当たりにしてきた。
なにより自分の生徒を大切にしてくれるし、オレの両親が死んだときも、すごく心配してくれた。
「茉莉花の安否を確認するために、なんとか入国できる方法はないかと、手を尽くしてくれているみたいなんだ」
「本当か!?」
「だが、あの国はいろいろと問題があって、かなり難しいらしい」
「そうか……」
木之本先生の力を使っても、あそこに行くのは難しいのか。
となると、完全に打つ手がない。
「なあ……もうすぐ昼だし、なにか食べないか?」
「えっ? いや、あまり食欲はないから」
「しかし、今朝からなにも食べていないんだぞ」
「悪い、本当になにも食べたくないんだ。とてもじゃないけど、のどを通る気がしなくて」
こういう場合、無理にでも食べた方がいいということはわかっている。
だけど、どうしても食欲がわいてこなかった。
今はただ、テレビのニュースを見ることしか……オレにはできないでいた。
どれだけの時間が、過ぎたのだろうか?
多分、もう夕方くらいになっていると思うけど……時間に対する感覚が、だんだん失われていく感じがする。
そんな状態であっても、オレは依然としてテレビだけを見続けていた。
時間が経過するにつれて、事件による負傷者や死者の数がどんどん増えていく。
悪い知らせを聞くたびに不安がつのる。
「……っと」
今まで見ていた番組が、他の内容を取り上げだした。
オレはすぐに他のチャンネルに切り替えた。
たとえニュース番組が終わっても、こうして他のチャンネルに変えれば、すぐにこの事件のニュースを見つけることができる。
それほどまでに、各方面から注目を浴びていた。
いくつかのチャンネルをまわしていると――
そのうちのひとつ……衛星チャンネルで、現地から生の映像を送っている番組を見つけた。
他のチャンネルみたいに事前にチェックをしていないせいか、生々しい映像が映し出されている。
血塗られた瓦礫が折り重なっている光景が、事件のすさまじさをまざまざと表していた。
「なにか、飲まないか?」
ずっと側にいる結梨花が、オレのことを気遣って聞いてきた。
「いや、いいよ」
「…………」
しかし、オレはそのやさしさに答えられなかった。
さびしそうな表情をしながら、結梨花がキッチンへと向かう。
「はぁ……」
ため息とともに目を閉じて、目頭を押さえた。
本当に気が滅入りそうだ。今日一日、ずっと気分が落ち込んでいる。
一刻も早く茉莉花の無事を確認したい。その思いだけが、からまわりし続けている。
どうすれば……いったい、どうすればいいんだ。
「おいっ!!」
キッチンから戻ってきた結梨花が、いきなり大声を出してきた。
「どうした?」
「こ、これ」
「え……」
結梨花が指し示すテレビの画面に目を向けてみる。
すると、そこには――
茉莉花の見るも無残な姿が映し出されていた。
「なっ!?」
首から上が瓦礫によってつぶされているが、着ている服や隙間から伸びている髪からして、見間違えようがなかった。
『……関係者の話から、身元が確認できそうです』
現地のレポーターが、死体が誰のものなのかを割り出そうとしている。
『ええと、どうやら茉莉花……という名前の方だそうです』
「う、嘘だ」
急激に、世界がせばまっていくような感覚がした。
視界がぼやけて、まわりの状況がわからなくなっていく。
『この方は撮影のためにこの国に訪れていて、帰国しようとした際に、事件に巻き込まれたと思われます』
淡々とした様子で、レポーターが茉莉花のことを説明してくる。
もはや、疑いようはないだろう。
「そんな……そんなことって」
頭の奥で、鐘のような音がガンガン鳴り響いてきた。
同時に、自分の心が得体の知れないなにかで締め付けられていく。
「あ、あああ……あああああああああああああああああああああああああああっ!!」
声にならないような声を、あらん限り上げて――
オレは、自分の視界が閉ざされていくのを感じた。
「うっ……」
次に気がついたときには、あたりはもう暗くなっていた。
どうやらあのあと、意識が飛んでしまったようだ。
「大丈夫か?」
すぐそばには、心配そうに覗き込む結梨花の顔があった。
「大丈夫そうに……見えるか?」
「いや」
「……だよな。でも、こういうときこそしっかりしないと」
そう言って、ゆっくりと身を起こす。
だけど結梨花は、オレの姿から目を離そうとしなかった。
精一杯強がってみたけど、あまり効果はなかったようだ。
当然か。鏡を見なくても、自分がひどい顔をしているのがわかる。
でも、結梨花だってつらいはずなんだ。これ以上、心配をかけるわけにはいかない。
「あっ、また電話のようだ」
再びかかってきた電話を、結梨花が取ってくれる。
すぐに動くことができなくて、情けなくなってしまう。
「はい。ええ、こちらでも確認しました。えっ!? 本当ですか? それで……そうですか。わかりました。いえ、ありがとうございます。では……」
さっきより暗い表情をして、結梨花が戻ってきた。
「誰から……だった?」
「木之本先生だ。かなり無茶なやり方で入国したらしい」
「本当か!?」
「そしてすぐに、テレビでやっていた死体の身元確認をしたそうだ」
「それで……」
「…………」
「ま、まさか」
「やはりあれは、茉莉花のものだったそうだ」
「……っ」
「こうなってしまうと、もう――」
「ああ、わかっている。わかっているから」
過酷な現実を前にして、心がざわめいてしまう。
オレは唇を噛みしめながら、あふれ出る気持ちをいさめようした。
それからしばらくの間、まるで時間が止まったかのように、なにもできない状態が続いた。
結梨花は悲痛な表情をしながらも、オレのそばから離れないでいてくれた。
そのおかげで、なんとか自分を保てている。1人だったら、絶対に気が変になっていただろう。
「なあ、お腹……すかないか? なにか作ってやろうか?」
伏し目がちに結梨花が聞いてくる。
強いな、結梨花は。自分の半身とも言える、双子の妹を亡くしたっていうのに、オレのことを気遣ってくれる。
いつもと同じように、接しようとしてくれる。
それなのに、オレは自分のことでいっぱいいっぱいだった。
「いや、今はいいよ」
「しかし、朝からなにも食べていないんだぞ」
「すまない。それでもなにも食べられそうにないんだ」
「食べても全部、吐いてしまいそうだから」
「……っ」
「ごめんな、結梨花だって辛いだろうに」
「私のことはいい、今はおまえの方が――」
「悪い。しばらく1人にしてくれないか」
「あ、待て――」
結梨花の制止を振り切って、オレはリビングを出た。
そして自分の部屋に、逃げ込むようにして入る。
くそっ、逃げ出してしまった。
これが一番、悪い選択肢だとわかっているのに。
この状態で、お互い1人になるのはマズいってわかっているのに。
それなのに――それ……なのに……
「あ、ああ……あああああっ」
ダメだ。わきあがる感情を、押さえつけることができない。
茉莉花……茉莉花……茉莉花……茉莉花……茉莉花……茉莉花……茉莉花……
「ぅ……くっ」
叫び声を上げそうになるのを、両手で口をふさいで止めた。
ここで大声を上げてしまったら、結梨花に気づかれてしまう。
しっかりしないと、いけないんだ。こんなときこそ、しっかりしないと……
だけど――だけ……ど……
きれいごとを言って、気丈に振る舞ったとしても……
前向きになろうと、どんなにがんばっても……
死んだ人間は蘇らない。戻ってきたりはしない!
だから……だからっ――
「ごめんな、結梨花。オレは……おまえみたいに強くなれそうにないよ」
それからまた、何時間か経過したような気がする。
時間の感覚なんて、もはやどうでもよくなっていた。
茉莉花を失ったオレには、なにもない。なにも……ないんだ。
茉莉花と一緒にいることが、オレの生きがいだった。彼女のために、自分の気持ちを押し込めて家族であろうとした。
どんな形であれ、身近にいられるだけで幸せだったから。
それがなくなった以上、存在し続ける理由はない。
オレは弱い人間だから、残された道はひとつだけだ。
「…………」
決意を固めると、さっき用意した道具を持って……自分の部屋を出た。
「……ん?」
階段を下りようとしたところで、結梨花の部屋からなにか聞こえてきた。
耳をすましてみると、それが結梨花の泣き声であることがわかった。
「う、うう……っ、茉莉花、茉莉花。ああ……瞳の模様が……大きく……なって……」
ドア越しではっきり聞き取れないけど、結梨花がうなされているのは間違いない。
当然……だよな。悲しくないわけがないんだ。
それなのに、あいつはオレのことばかり気にかけていた。
ずっと、オレの心配をしていた。
「くっ……」
だけど今、結梨花の部屋に入ってもなにもできない。
オレにそんな強さはない。
……すまない。
心の中で謝罪の言葉を述べると、オレは結梨花の部屋の前を去った。
物音を立てないように、ゆっくりと玄関までやってくる。
今ここで、結梨花に見つかるわけにはいかない。絶対に止められるから。
できるだけ静かにドアを開けて、オレは家の外に出た。
そして人通りのない夜道を、1人歩き始める。
「……っう」
さっきからずっと、苦しい思いをし続けている。これを、なんて言い表せばいいのだろう。
心が痛い。
そう、まるで自分の心を、刃で切り刻まれているような感覚だ。
今まで受けたどんな痛みよりも、つらくて苦しい。
体に受ける傷よりも、心に受ける傷の方が……遥かに人を追い詰めていくみたいだ。
この苦しみから、早く開放されたい。
早く……早く……
痛みに耐えながら重い足取りで歩き続けて、ようやく目的地である公園にたどり着いた。
ここならある程度の広さがあるから、誰かに見られる可能性も低いはずだ。
さあ、やるべきことをやってしまおう。
オレは目の前にある大きな湖を抜けて、林道のある場所までやってきた。
まわりには、大きめの木がいくつも植えられている。
その中から一番下の枝の高さが、ちょうど身長の倍くらいのところにあるものを見つけた。
「これがよさそうだ」
今度はあたりを見渡して、足場になりそうなものを探してみる。
すると、すぐ近くにあるゴミ箱に目が留まった。
中をのぞいてみると、都合のいいことになにも入ってない。
そのゴミ箱をさっきの木の下まで運び、さかさまにして置いてみると、自分の腰くらいの高さがあった。
これなら、踏み台として申し分ないだろう。
「よっと」
そのゴミ箱の上に飛び乗って、さっき見つけた木の枝につま先立ちをしながら手を伸ばしてみる。
枝に手が届いたところで両手でしっかりとつかみ、そのまま軽くぶらさがった。
若干、きしんだ感じがしたけど、1人分の体重ならなんとか支えられそうだ。
枝の強度を確認したところで手を離し、ポケットの中からロープを取り出した。
それをさっきの木の枝に通して、自分の首のあたりで結び目を作る。
さあ、これで準備は完了だ。
オレはここで……死ぬことにした。
『首吊り』
自殺をするなら、これが定番と言えるだろう。一番オーソドックスで、確実かつ手軽な方法だ。
今の時間なら誰にも邪魔されないし、ぶらさがってるところを朝には発見されるはずだ。
第一発見者の人を驚かせてしまうのは忍びないけど、手首を切る勇気なんてオレにはないし。
かといって、屋上から飛び降りたり電車に飛び込んだりしたら、死体を片付ける人が大変だ。
死んだあとまで、誰かに迷惑をかけるようなことはしたくない。
もちろん、残していく結梨花には悪いと思っている。だけど、あいつなら1人でも生きていけるだろう。
昔から、なんだって器用にこなしてきたんだから……不器用なオレは、茉莉花のもとに行こう。
この悲しみと苦しみから解放されるために。
「さて……と」
結んだロープの輪に、ゆっくりと自分の頭を入れた。
そして――
ゴミ箱を蹴り上げ、体を宙に浮かせた。
「ごふっ」
首が絞まる感覚と共に視界が閉ざされ、頭が熱くなっていく。
同時に、激しい耳鳴りがしてきて、目から眼球が飛び出しそうになった。
これが、死ぬってことなのか……
「兄さま」
一瞬、茉莉花の顔が浮かんできた。
「……今……行くから……」
「うっああああああああああああああああああっ!!」
意識が途切れる寸前、遠くから悲鳴のような声が聞こえてきた。
次の瞬間――
なにかが折れるような音がして、首の圧迫感が消えると同時に背中に鈍い痛みを受けた。
「うがっ……ごほっ……」
な、なんだ?
不思議に思いながら目を開けると、夜空が見えた。
どうやら、地面に落っこちたようだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
さっきの叫び声の主が、鬼のような形相でオレを見下ろしている。
ゆ、結梨花?
その手には、ロープのつながれている枝があった。
もしかして、あの木の枝に飛び掛かったのか? さすがに2人分の体重は、支えきれなかったってことか。
しかし、近くの木から蹴り上がったにしても、踏み台も使わずにあの高さまで跳躍するなんて――
「この、大バカ者っ! おまえはいったい、なにをしていた!!」
ものすごい剣幕で、結梨花がオレを責め立ててくる。
「なにも言わずに家からいなくなっていたから、あわてて探し回ってみたら、こんなところで死のうとしていたなんて!」
「…………」
「なぜだっ! なぜ自殺しようとした!!」
「お、オレには――オレにはもう……生きていくための……理由がないから」
かすれそうな声で、自分の気持ちを正直に伝えた。
「やはりおまえは、茉莉花のことを思っていたのか」
「…………」
この状況では反論する余地もない。
そう、オレは茉莉花のことを――
「わ、私では、私では茉莉花の変わりには――」
「うがっ!?」
「ど、どうした?」
「いや……なんか今、目の前に……十字架みたいな模様が見えて……」
「なにっ!?」
「なんていうか、自分の心を……壊されたような感覚がしたんだ」
「…………」
自分でも、おかしなことを言っているのはわかる。
だけど他に、この状況をたとえようがなかった。
「そんな……まさか、おまえも私と同じように!」
「えっ?」
結梨花が今まで見たことがないほど、驚愕の表情をしている。
「いったい、なんなんだ……これは?」
「そういう……ことならっ」
とまどうオレに対して、結梨花が鼻先まで顔を近づけてきた。
「お、おい」
「今のおまえになら……同属となり、心が弱まったおまえになら、私の力が及ぶかもしれない」
「同属?」
「こうなった以上、手段を選んでなどいられない。自分の気持ちを押し殺してまで、家族ごっこをやるのもたくさんだ」
「ゆり……か?」
「茉莉花だけでなく、おまえまで失うくらいなら、私は悪魔の力すら借りるだろう」
「え――」
「おまえはこれから、私のために生きろ。私がおまえの……彼女だ!」
「がああああああああああああああああああああっ!?」
ま、まただ。さっきと同じ模様が眼前に映りこんでくる。
しかも今回は、なにか得体の知れないものに心を動かされる感じがした。
「いいな!」
「ウ、ウン」
結梨花のために生きることが、己の願いであるかのように……自らの意思が書き換えられていく。
本当の気持ちを消されて、新しい感情に心が動かされる。
「ずっと、私のそばにいるんだぞ」
「アア、オレハ結梨花ノ彼氏ダカラ、ズット……ズット、ソバニイルヨ」
今、この瞬間から――結梨花がオレの、彼女になった。