16日目 火曜日
「やあ、元気かい?」
目が覚めると同時に、担当医である橘先生の顔を見て、憂鬱な気分になった。
「はあぁぁっ」
「っていきなり、ため息!?」
「いや、朝っぱらから嫌なものを見たと思って」
うるさいハエが飛んできたようなものだし。
「あのねぇ。キミの中で、僕はどういう位置づけなんだい」
「ええと……害虫?」
「悪びれもなく、ひどいことを言ってくるね」
まったく、こっちはいろいろと思い出して考えることが多いっていうのに。
場の空気を読まないこの人を見ていると、昨日の夜、固めた決意すら霧散しそうになる。
「だいたい、なんでこんな早い時間に橘先生が来るんですか」
「担当医が自分の患者の様子を見に来たら悪いというのかい?」
「悪いですね。あなたの場合」
「なんか、機嫌悪くない?」
「別に、今に始まったことじゃないですし」
「そんな〜」
「どうも、あなたのことは信用できないんですよね」
「嫌われるようなことをした覚えはないけどなぁ」
「ありますよ。それもかなり」
人のことをモルモット扱いしているんだし。
「ふむ。もしかしたら、本能的に僕のことを敵視しているのかもしれないね」
「それって、どういう意味ですか?」
「気にしないでくれ」
答えられないのか……。やっぱり、この人のことは信用できない。
どういう目的があって、オレをここに置いているのかがわからないうちは、不信の念を抱かざるを得ない。
この人に比べたら、担当看護師である真都香さんの方がよっぽど信用できる。
まあ、性格にちょっと問題はあるけど。
「そういや、真都香さんはどうしたんですか?」
「彼女なら、今日は休みだよ」
「お休み?」
「そっ、キミの担当になってからというもの、全然休みをとっていないからね」
「あ、そうか」
たしかに真都香さんとは、毎日のように会っている気がする。
昨日もつきっきりで看病してもらったし、本当にいろいろとお世話になっているから、いつかちゃんとお礼をしないと。
「まあ、彼女の方はなにかあったわけでもないし、心配しなくてもいいよ」
「そうですね。でも――」
「他の子がどうなったか……だね?」
「はい」
「ま、現時点でわかっていることなら教えてあげるよ」
「お願いします」
どうやら、この内容については答えてくれるようだ。
「まず、紗耶香ちゃんの方だけど、如月のお嬢さまに刺されてしまったよね」
「ええ」
「で、この病院ですぐに緊急手術をすることになって、運よく一命をとりとめることができたんだ」
「本当ですか!?」
「ああ」
「よかった。あんなにたくさんの血が流れ出ていたのに、生きのびることができて」
「…………」
なぜか橘先生が複雑な笑顔を見せた。
「どうかしたんですか?」
「いや、そのことなんだけどね。正直、紗耶香ちゃんが助かったのは、彼女の功績によるところが大きいんだよ」
「どういうことですか?」
「人が刺されて死ぬ原因の多くは、内臓が傷つけられることによって起こる感染症か、出血多量によるものなんだ。たしかに、紗耶香ちゃんは運がよかった。重要な内臓を傷つけられてなかったし、感染症も起こしてはいなかった」
「はあ……」
「だけど、出血多量で死なずにすんだのは、紗耶香ちゃんだったからなんだよ」
「紗耶香だったから?」
「そう、彼女はね……自分で自分の止血をしていたんだ。刺された腹と背中の部分を、自らの手で縫い付けてね」
「なっ――」
自分で縫い付けた? あの傷を?
「キミの両手をそういう風にするために、道具一式はそろえてあったから、やろうと思えばできるだろう。だけど、腹を刺された激痛に苦しみながら自分の体に縫合手術をするなんて、僕にはマネをする自信がないよ。あんな傷を受けた状態で、正常な判断ができるかどうかも怪しいし」
「…………」
「それなのに、紗耶香ちゃんはやってみせたわけだ。彼女の手術をすることになった担当医は、執刀しようとして驚いたそうだよ。なにしろ、すでに完璧な応急処置……いや、応急どころか処置そのものがされていたからね」
「そんなことまで」
「しかも、意識をはっきりと持っていて、このあとどう対応すべきか指図までしてきたっていう話だ」
「……っ」
背筋に悪寒が走った。
紗耶香がやったことがどれだけすごいことなのか、医学の知識がないオレでもわかる。
強靭な精神力と意志の強さがなければできないことだろう。
恐るべき執念……といったところか。
「それじゃあ紗耶香は、まだこの病院にいるんですね」
「いや、すぐに自分のお屋敷に連れ戻されたよ」
「えっ? 重症患者を入院させなくてもいいんですか?」
「医療施設なら、ここより彼女のお屋敷の方が高度なものをそろえてあるさ」
「なるほど」
「それに、自分が刺されたことでうやむやになっているけど、紗耶香ちゃんはキミの両腕の腱を切り落としている。一度ならず二度までも患者を傷つけてしまった以上、ここに置いておけないよ」
「そうですか」
紗耶香はまた、お屋敷に連れ戻されることになったのか。その方が、紗耶香にとっていいことなのかもしれない。
でも、なにか……ひっかかる。
だって彼女は、先週も――
「橘先生。紗耶香は先週、お屋敷で軟禁状態にあったはずですよね」
「ああ」
「それなのに、どうやってこの病院に来たんですか?」
「その件に関しては、僕も気になっているところなんだ。各方面に手をまわして調べているから、なにかわかったら教えてあげるよ」
「よろしくお願いします」
それは解決しなければならない問題のひとつでもある。
でないと、再び紗耶香はここにやって来るだろう。
「それで、琉璃佳の方はどうなったんですか?」
「如月のお嬢さまなら、自分が入院している病院に連れ戻されたよ」
「病院?」
「ああ、忘れてもらっちゃ困るが、彼女も重症患者だからね」
「あっ、そうだった」
普段とまったく同じように行動していたから、すっかり忘れていた。
「それなのに、彼女もここに来ていたわけだ」
「正直、オレも驚いています。しかもオレを守るためとはいえ、人を刺してしまうなんて」
「う〜ん。その辺が、どうもよくわからないんだよね」
「えっ?」
「凛から聞いた話では、如月のお嬢さまはそんなことをする人間ではなかったはずだ。キミを守るためとはいえ、それで人を刺すなんて考えにくい。いったい彼女に、なにが起こったんだ?」
「お屋敷のときから変わったことと言えば……琉璃佳がゴシックの瞳を持ったことくらいでしょうか」
「……はっ!?」
橘先生が、今まで聞いたこともないような間抜けな声を出してきた。
「ちょちょちょ、ちょっと待ってくれ。なんの話だね、それは!」
「あ、ええと……彼女はお屋敷で過ごした最後の日に、オレをかばって自ら死を選んだんです。家族ともいうべき人に裏切られ、すべてに絶望して。だからそのとき、ゴシックの瞳を持ってしまったんだと思います」
「な、なるほど。たしかにゴシックの瞳の発動条件は満たしている。しかし、そんな形で力を得るなんて!」
「オレも予想すらしていませんでした」
「となると、彼女が凶行に走った理由もわかってくる」
「どういうことですか?」
「キミは彼女に、ゴシックの瞳の力を使っているよね」
「はい」
「だとしたら、力の影響はかなり大きくなっているはずだ。ゴシックの瞳は、同属に対して使った方が効果があるから」
「だ、だからって人一倍、正義感が強かった琉璃佳が、あんなことをするとは思えません」
「キミもすでに、わかっているんじゃないかい」
「なにをですか?」
「ゴシックの瞳を持つと、命に対する価値観が失われることを」
「あ……」
「それが自分の命であろうと、他人の命であろうともね」
そうか、そういうことなのか。
先週、琉璃佳は明日佳さんの気持ちが理解できるようになったと言っていた。
それは多分、依存の対象以外の命を、なんとも思わなくなるということだったんだ。
だから明日佳さんと同じように、人を傷つけることに罪悪感を抱かなくなってしまったのか。
「なんてことだ」
依存の相手を守るためなら、どんなことでもしてしまう。倫理とか正義とかをすべて捨てて、自分の命を危険にさらすことになっても。
それが、ゴシックの瞳の呪いなんだ。
「キミの場合、すこし特別なケースでもあるから、そのことを理解しにくかったのかもしれないね」
「…………」
「とにかく、今さら起こったことを悔いても仕方がない。僕は如月のお嬢さまのことを、もう一度よく調べてみるよ」
「本当は、オレもなにかしたいのですが」
「今、キミがやるべきことは、早く怪我を治すことだ。それから今後、キミに対する監視はさらに強化されるだろうから、行動にはかなりの制限がつくと思ってくれたまえ」
「わかりました」
「それじゃあ、僕はいったん失礼するよ」
橘先生が病室から出ていく。
それからしばらくして、朝食が運ばれてきた。
看護師さんに手伝ってもらいながら朝食をとったあと、外科の先生が来て怪我の状態を見てくれた。
腕の方も足と同様、きれいに処置されているとのことだった。
傷が化膿することはないけど、足のときと同じように、すぐに動かすことはできないみたいだ。
まあ、当然だよな。
それが終わっても、オレはなにもできないままだった。
まいったな、車椅子を使うことすらできないなんて。
両足だけでなく、両手までも使えないとなると、ベッドの上から動けなくなってしまう。
しかも、トイレにすら1人で行くことができない。
結局、手持ち無沙汰なままお昼になって、昼食も朝と同様、看護師さんに手伝ってもらいながらとった。
「調子はどうだい?」
食事を終えてしばらくすると、またしてもハエが病室に入り込んできた。
「この病院には、殺虫スプレーとかないんですか?」
「僕は害虫じゃないからね!」
でもまあ、真都香さん以外では橘先生くらいしか話し相手もいないし、すこしくらい我慢するか。
「それで、今度はなんの用ですか?」
「一応、キミに伝えておこうと思ってね」
「なにをですか?」
「僕はこのあと、如月のお嬢さまの様子を見てくるよ」
「琉璃佳の!?」
「ああ」
「それって、オレも一緒に行くことは――」
「できるわけないから! キミは当分の間、この病院から一歩も外に出られないと思ってくれたまえ」
「そうですよね」
「まあ、手ぶらで行くのもなんだし、キミから彼女になにか伝えることでもあるかと思ってね」
「伝えること……ですか。じゃあ、ひとつとだけお願いします」
「なんだい?」
「今度会ったら、オレのことを全部話すから、聞いてほしいって言っておいてください」
「キミのことを全部……ね。わかった。でも、キミは自分のことを全部理解できるようになったのかい?」
「はい。最近、昔のことをすこしずつ思い出してきたんです」
「ほう……」
「いろいろあって、オレはここに来る前の記憶が曖昧でした。でも、先週あたりから、はっきりと思い返せるようになってきたんです」
「ふむ。どうやら中和剤の効果はあったようだね」
「中和剤?」
「キミが先週、受けていた点滴だよ」
「はっ!?」
ちょっと待て! なんだそれ? そんな話、初めて聞くぞ。
「あ、あれって、普通の点滴じゃなかったんですか!」
「そうだよ〜」
そうだよ〜って、この人はなんでそんなことを軽く言ってくるんだ。
「どうしてオレに、そんなものを打ったんですか」
「キミは『心を病ませる薬』を投与されているみたいだからね。それを中和する薬を実験的に使ってみたんだ」
「実験的!?」
「まだ、どんな副作用があるかわかってなくてね。ホントはもうちょっと早く使いたかったんだけど、紗耶香ちゃんと引き合わせる必要があったから、タイミングが難しかったんだよ」
「そんなものを、オレに無断で打っていたんですか」
「いいじゃないか。そのおかげで、失っていた記憶が戻ってきたんだろう?」
「え、ええ。まあ……」
「結果よければ、すべてよしってね」
たしかに、そうだけど。
「ついでに、思い出したくないことも全部、思い出してしまいましたよ」
「それは仕方ないさ。いい思い出だけを記憶にとどめることなんて、普通の人間にはできやしないんだから。どうしても記憶を消したいって言うなら、怪しげな薬を使って操作するしかないけど」
「あ、あんなの、もう二度とごめんです!」
「まあ、中和剤の記録は取れたし、僕は十分満足しているよ」
「オレは完全に、橘先生のモルモットなんですね」
「ふふ、キミにどう思われてもかまわないさ。前にも言ったけど、僕にも目的があるからね。それを実行するためには、手段を選ばないつもりだ」
「その目的を、オレに教えてはもらえないんですか?」
「残念ながら、それは無理な相談だよ」
「そうですか」
「でも、それを達成することができたら、教えてあげなくもないかな。まあ、可能性としては低いだろうけど」
「…………」
「さてと、今日はこれで失礼するよ」
言いたいことだけ言って、橘先生が病室から出ていった。
あの人の目的……か。多分、それにオレが関わっているんだろうな。
そのあと、また看護師さんに手伝ってもらいながら夕食をとった。
消灯時間になる前に、琉璃佳のことを思い返してみた。
彼女があんなことをしたのは、オレのせいだったのか……知らなかったとはいえ、力の影響で琉璃佳が凶行に及んだのは間違いないだろう。
それを知ることができて、謎となっていたことがひとつ解決した。あとはそれを、どう受け止めるかだ。
もし――琉璃佳とまた会うことができたら、すべてを話して力を使ったことに対する責任をとろう。
彼女の望むことを、すべてかなえよう。
そう、オレは――
オレは琉璃佳に、罪の代償を払わなければならないから。




