09.開示と霹靂
機会は早々に訪れた。
激動の次の日は、疲れ果てて一日中ベッドに懐いていた。気を利かせた女将が持って来てくれた夕飯を食べなかったら、美晴ともあろうものが丸一日食事を抜くところだったのだから、気付かずとも余程精神的に参っていたのだろう。
ティティとはしゃいでいたのはあれか。深夜のテンションみたいな。違うか。
異世界七日目。記念すべき一週間目の本日は、先日ティティが張り切っていた「ありがとうパーティ」とやらが開催される。
とは言っても、やっぱり気まずいあの日への引け目があったので、今回は美晴が食事作りを担うことにした。渋るティティには、料理がしたくてしたくて堪らないとゴリ押しした。
実際は、一人暮らしだからせざるを得ないというだけで、別に料理が好きなわけじゃない。ただ、三食の時間をこの上なく楽しみにする美晴なので、人より味を追求してはいる。
常に美味しい店に食べに行けるほど、あちらの世界での懐に潤いはないのだ。自分で作るのが安上がりなのである。毎日弁当なぞ買ってみろ、すぐ仕送りの金が尽きるから。あんま美味しくないし。
「そうだ、ティティ。ずっと渡しそびれてたんだけど、これ良ければ使って」
「なあにこれ」
「痴漢撃退用催涙スプレー。危ない奴に襲われたら顔めがけてここ押すの。霧状に中の薬品が出てくるから、自分に掛からないように気を付けてね。激痛と涙とくしゃみが止まらなくなるよ」
「何それこわい。ちょっと、ティティに変なもの渡さないでよミハル!」
「どうしてアルトくんが青くなるの?私、アルトくんにこれ向ける機会がありそうな感じ?」
「いえ滅相もないです。ありがとうミハル」
キッチンの使い方に迷うところは多かった。レンジやガスコンロがないのは致命的で、そういう部分はティティに手伝って貰う。あからさまに手伝いたそうにうろうろしていたので、その辺遠慮はいらなかった。
代替材料が用意できる限りの多国籍の料理が並ぶ様は、ティティの用意した食卓のような華やかさには欠けまくっていたけれど、食い合わせは悪くはないだろう。
「僕、ミハルはてっきり料理苦手な子だと思ってたよ。変わった味付けだけど美味しいね。隠し味は血液?」
「苦手じゃないと認定した傍からあんたは。アルトの血液混入させてあげようか」
「これ、これ何ッ?これ美味しい、アルトくんどうでもいいから作り方教えて!」
「援護射撃!」
「うーん他人事ながらこれは痛い」
食材が違うので想定した味とは大分異なる料理も完成したが、好評なようで何よりだ。
お吸い物作ろうとしたら、キノコを投入した途端やたら甘味が出てどうしようかと思った。突貫工事はするもんじゃないなあと慌てて味を調えたのだが、無理だったので別の料理に混ぜた。だからね、ティティ。その料理の調理方法は教えられないよ。手順もアレだけど、分量も何入れたかも全く分からないし。
なお、念のためにと持ち込んだ固形コンソメとか鶏ガラス-プとかの万能調味料は現代文化の結晶であると思うので、何一つ恥じることなく投入している。この世界では物体X?馬鹿な、ただの隠し味だ。
ところで。
餃子もどきを咀嚼しながら、頑なに沈黙を守るヒューダを盗み見る。
皿の空き方から考えるに口に合わないわけではないらしい。だが不自然なほど言葉を交わそうとしない。
隣からティティが声を掛けると一拍遅れて相槌を打つものの、会話を続けようという気概が感じられなかった。目も合わない徹底ぶりである。何度も果敢に話し掛けては素っ気ない対応をされてシュンとなる妹を可哀相だとは思わんのか。
アルトはヒューダの態度を諫めようとはせずに、ティティに話題を振って気を逸らしたり、美晴を茶化したりして、場の空気を緩めることに徹している。
仕事で何かあったのかもしれないと口を挟まないことにした。社会人は大変なのだろう。先日、ティティや美晴と共に仕事を放って出掛けたのがまずかったのかもしれないし。そうだとしたら美晴も責任の一端を担うので、褒められない態度にも文句を付けたくはない。
やや多かったかと思えた料理は、そう時間を掛けることなく綺麗に片付いた。腕によりを掛けたものが完食されればやはり嬉しい。後に残る大量の食器がなければもっと嬉しかった。
器用に積み上げた皿の山をキッチンに運んだヒューダが、本日初めて自分から口を開く。
「悪い、兵舎行ってくる。兵長に呼び出されてるんだ」
「え、そうなの?じゃあ私お片付けするから、お兄ちゃんもう行って良いよ」
「私も手伝うから大丈夫。大変だねヒューダ」
「……ああ、頼んだ」
扉に手を掛けて逡巡するように俯いた。名前を呼ばれて、テーブルを片付ける手を止める。
「美味かった、ありがとう」
音を立てて扉が閉まる。そんな改まって言われるのは照れるので、できればもっと食べてる流れとかでさらっと言って欲しかった。
顔を赤くしているのをアルトに冷やかされたので、熱い茶の入ったコップを頬に押し付けてやった。大音声の悲鳴は近所迷惑になるだろう。日が沈んだら静かにするべきである。
後片付けを終えた頃には、もう夜も遅い時間だった。ヒューダはまだ帰る気配がなく、何となく雑談に花を咲かせながら居座る。ティティに染色工程を教わったり、アルトたち警備兵が見回りをしているときのよもやま話を聞いたり。
気が付けば、いつの間にかティティの瞼が下りていて、ふうらりと机に突っ伏すところをアルトが受け止めた。
「寝ちゃった。疲れてたのかな」
「採ってきた材料が枯れない内にしなきゃいけない作業があったみたいだから、昨日は結構ハードだったみたいだね。部屋に連れてくよ。ミハルちょっと待ってて」
「襲ったらヒューダに言い付けるかんねー」
出会った当初なら美晴も部屋まで同行しただろう。けれどアルトが少女を抱き上げる横顔は優しくて、襲うなとは口にしたものの、そういう心配はいらないだろうと確信できた。
借りた植物図鑑のような本を捲りながら待つこと数分。寝顔を眺めた上で軽いちゅーくらいはしたかもしれないが、締まりのない顔を見せるアルトの様子は幸せそうで、まあそれくらいなら、と思わなくもない。ティティの想いは不明だけれど、許容の範囲内だろう。
「アルトはほんと、ティティ大好きだよねぇ」
何を今更というように肩を竦めて、対岸に腰掛ける。
「可愛いでしょ?」
「そりゃ、アイドルでもここまでの美少女はいないけどさ」
「アイドル?」
「顔が良いエンターテイナー……?みたいな……?」
ちょっと違うか。えんたーていなー?と再び疑問符が立ち上がったので、何でもないと撤回した。詳しい説明が難しい場合、なかったことにするのも一つの処世術である。
頭の中にティティを浮かべる。ぽやんと笑う可憐な美。小さな卵形の輪郭にバランス良く収まるパーツは、それ単品で見ても可愛らしい。上向きの睫に覆われた垂れ目がちの大きな目とか、ちょこんとした鼻とか、ふっくら上を向きながらも慎ましやかなピンクの唇とか。
「でも、ティティの良いとこってそうじゃなくてさー、いや、顔も勿論良いんだけど」
ビンに残った果実酒をグラスに移す。ヒューダがほとんど酒に手を付けなかったので、思ったよりも余っていた。甘めなのが気に食わなかったのか、仕事を見越しての自重か。
なみなみ注いで、少し啜ってまた注ぐ。濁ったピンク色の液体はアルコールも弱く、口を潤すのに丁度良い。
「私の空間転移の能力、軽く説明しただけであっさり納得しちゃって、凄いって言ってくれたでしょ。ティティがいつもくれる『ありがとう』もだけどさ、純粋にそう思ってくれてるって分かるからすっごい嬉しいの。まっすぐ褒めてくれるんだよね。全然裏があるとか考えられないくらい、目ぇキラキラさせて。そういうの、ほんっと可愛い」
アルトが深々と頷いて、グラスを取り上げた。
「ミハルとは気が合うなあ。それも、僕がティティを好きなとこ。そんで、大丈夫かなこの子こんな純真で。僕が守ってあげないと!とか思うんだけど、結構しっかりしてたりして。またそこがツボ」
「分かる。私が男だったら惚れちゃう!」
「僕なんか女でも惚れちゃうもんねー!」
女子高生のノリでキャラキャラと笑い合って酔っ払いは杯を傾ける。
嬉しそうにティティの魅力を語るアルトは輝いていて、何だか親近感が湧いた。アルトは付き合いやすい反面、どうにも飄々とし過ぎていて本心が分かりにくいところがあった。それこそティティとは正反対で、それもあって彼女に惹かれたんじゃないかと思う。
少し羨ましい。美晴にもその内、そこまで執着できる人が現れるだろうか。美晴の世界で出会えたのなら、もう異世界に興味を引かれて、あの世界での生活を蔑ろにすることはなくなるのだろうか。そうしたら地に足を付いて、遅まきながら自分の世界でも親友を得たりできるのだろうか。
ぼんやりと浮かび上がった男の顔を散らすように首を振る。腕は立つし家事もしっかり妹と分担している様子。面倒見も良く、確かに優良物件だろうが、だからといって彼はない。だって異世界の人間だ。
しかし、例えば──もし異世界の人を好きになったら、自分はどうするんだろう。
「……幼馴染なんだけどさ、僕とヒューダと、ティティは」
「う、うん!?」
「ん?」
「んーん、何でもない!」
両手で大仰にアピールする「何でもない」はまるで説得力を持たなかったが、アルトは空気を読もうとすればとても読める人間だ。あえて読まない方向に突っ込む傾向はあるが、今回はスルーしてくれたらしい。
ちょっと重たい話をするよ、と彼は一言前置いた。
「まだ僕たちが小さい頃に彼らの両親が亡くなって、2人共、当たり前だけど凄い落ち込んじゃったんだ。僕は何て言ったら良いかわかんなくてさ、ティティはずっと泣いてたし、ヒューダはただでさえ愛想良くなかったのが、殻に閉じこもっちゃって」
違うことなく重たい話だった。滑っていた尻を持ち直し、背筋を伸ばして姿勢を正す。
甘い酒は合いそうにないので、できれば頭をシャッキリさせるために水を一杯所望する。
「でも一週間くらいしたら、ティティが真っ赤な目でうちに来たんだよ。母さんに言うの。お料理教えて下さいって。小さいのに台所に立って、また泣きながら料理作って、ヒューダに食べろって押し付けたんだってさ。で、頑張ってる妹を見て兄も奮起したんだけど……凄いよねえ、僕は何にもできなかったよ」
伏せた目は自嘲を宿して、口元が笑みに紛れて悔しげに歪んだ。
「ベタって言うけどさあ、そういうの見てて、好きにならないはずないね」
だからだろうか、彼らががいやにティティを守ろうとするのは。
アルトが何もできなかったのだとは思わない。事情を知った誰かが見ていてくれるというだけで、人は自分を保てることがある。
かくいう美晴がそうだった。異世界に行けるなどという能力を誰にも打ち明けられる筈もなく、思春期にはこれでも随分と苦悩したのだ。
目を閉じれば知らない景色が浮かぶ。好奇心に負けて、テスト勉強の最中にふらりと跳んで、成績を落とす。どうして今回は悪かったのと聞かれても答えられない。
週末に友人に遊びの誘いを受ける。一週間、瞼の裏から美晴を誘い続けた様々な異世界が名残惜しくて、誘いを蹴って旅行に出る。繰り返した結果、休みの日は何をしているのかと聞かれても言葉に詰まる。
美晴にとってその悩みを話せるのは、異世界最初の支えとなった鳥人の彼女だった。たまに同席する嫌みなインテリ鳥と言い合うだけでも、ストレスは随分と緩和された。
二人がいなければ今頃の美晴はどうしていたのか想像もできない。たまに行けるその世界を、どれだけ心待ちにしていたことか。何度も長い瞬きを繰り返して、リセットとロードを重ねて、何十回目で引き当てて、跳んで。
フォローはできなかった。根拠も述べずにアルトの重要性を説いたところで、ただのありがちな慰めとしか取られないだろう。
かと言って異世界という言葉を伏せた嘘を吐く気にもなれず沈黙を選ぶ。
瞼を閉じると間もなく自室が浮かんだ。今ここが自室だったなら、この眼裏には鳥人の世界が浮かんでいるのだろう。彼女たちに無性に会いたくなった。美晴の中に積もり積もった感謝を伝えたら、どんな顔をするだろう。
「……あー、ミハル、さ」
聞き慣れない言い辛そうな声音に目を開いた。自室への窓が閉じる。
「その、僕、怒られるの嫌いだから、できれば怒らないで欲しいんだけど」
「内容に寄るよ」
勢いを付けるように、グラスの底に少しだけ残った滴を流し込んだ。こちらを向いたのは、普段とは違う不透明な苦い顔。
アルトが口を濁すというと、どういった方向の話だろう。見当も付かずに続きを待って──息を呑んだ。
「僕たちはさ、一昨日までずっと、ミハルのこと警戒してたんだよ」
おかしな言葉を聞いた。何度か鼓膜の調子を疑ったが、アルトの後ろめたそうな顔は、聞いた言葉が正しいと証明していた。
大きく波打った心臓に、不愉快な息苦しさを覚える。
「……何それ」
「小さなザック一つの装備で森を抜けるのはおかしいし、あんなふうに力の入らない持ち方で、川に落ちて流されたティティを運べるはずがないんだよって、言ったでしょ。だから、ヒューダの家に連れてったのも、夜に宿に出掛けたのも、どっちも様子見だったんだ。ミハルが何か企んでるんじゃないのかな、ってさ」
考えてもみなかった。上辺の言葉だけを鵜呑みにしていた。
「ティティを運んでヒューダの家に行った後に僕が出掛けたのは、君のことを兵長に話すためだ。ティティが川に落ちたことも報告したよ。ティティは何せ可愛いだろう?前から領主の馬鹿息子に目を付けられてる。警備兵の連中はみんな知っていて、ヒューダの家族だってことで特別気を付けて貰ってるんだ。もしかしたら浚われたりするかもって。ティティの目が覚めてから、気を失うまでの経緯を聞いた。ミハルに会いたいって言ったのは好都合だったよ。雑談してみたところでは敵意はなさそうだし、嘘が上手そうなタイプじゃないから、判断はひとまず保留。でも不審の芽が摘まれたわけじゃないから、できるだけ気を付けるようにって結論になった」
つらつらと足早に流れる『回答』は、煩雑として頭に入り込んでは来なかった。右から入って左に抜けて、戸惑う思考の中に単語だけが蓄積されていく。
警戒。企む。ティティ。川に落ちた。馬鹿息子。兵長。不審者。経緯。保留。不審の芽。
おもむろに宿でのアルトとヒューダのやり取りを思い出した。
『もう良いの?』は腹度合いの確認なんかじゃなかった。ひとしきりこちらの動向を確かめて、今のところは害がなさそうだと判断しただけだった。
揺れる瞳からアルトが視線を外す。中身のないグラスを弄び、透明なガラスを指先で弾きながら続ける。
ミハルの手の中の液体は短時間で印象を変えていた。濁ったピンクの甘い液体。たぷりと波打つ桃色が、ひどく気持ちの悪いもののように思えた。
「もっと率直に言えば、ミハルはティティを欲しがる馬鹿息子の手先だと思ってたんだ。でも、兵長もヒューダも僕も他の警備兵も、ミハル自身に悪気があるとは思えなかった。だから、例えば君が、そうとは知らない間に誰かに誘導されてるんじゃないのかなって結論に至ったのが、四日前」
「四日……?」
「ヒューダが、ここでの食事に誘った日だね」
馬鹿息子の手先。誘導。
アルコールと一緒に、甘い毒が抜けていく。段々と醒めていく頭が、したくもないのに仕事をする。言葉の欠片を並べて、事実を美晴に突き付けた。
「酔わせて色々聞き出そうって提案したのは僕だ。個人の家って場所にいるなら、元凶の目はどこにもないし、ぽろっと何か出るんじゃないかってね。ミハルの言うことに該当する場所なんか、この辺りにはどこにもないよ。開拓が進んで自然が少ない、なんて言える場所はね。ヒューダが途中でキレたのは想定外だったんだけど……お陰で中途半端な話で終わって、結局不審は深まった。君の境遇は、どう考えてもおかしい」
酔わせて聞き出す。元凶。不審。おかしい。
口は開かない。のどが渇いた。気持ち悪い。毒を飲みたい、酒という、逃避という毒を。
おかしいのは当たり前だ。だって、美晴は、おかしいのだから。
「一昨日。本当は僕は下流の村に出向く予定だったんだ。ミハルが通ったかどうかの確認にね。でもあんまりにも最高の境遇に出会って、ヒューダ共々予定を変更した。二人で問題の森に行くと言われて見逃せるはずがない。僕たちが同行すると言った途端、君が出発を嫌がるようになったのを見て、決定的だと思ったよ」
「違う」
「……そうだろうね。今なら分かる」
顔を歪めた。確かに行くのを渋った。でもそれは、獣が怖かったからだ。二人きりじゃなくなったから嫌がったわけじゃない。
最高の境遇。二人で森に行く。問題の森。同行を嫌がる。
キーワードだけを拾い続ける。床に落ちたままのそれらが、徐々に形を作っていく。
「君は獣を恐れたんだ。なのに、僕らは君を警戒した。ティティに近付けないようにして、より腕の立つヒューダが君に付いて。森には、誰かがいるんだと思ってたよ。獣じゃなくて、悪意を持つ、人が。ミハルは知らないかな。人と獣じゃあ警戒の仕方が違うんだ。間違えたその結果が獣の奇襲だった。それでもあくまで僕たちは、まだミハルが何かを考えてるんじゃないかと思ってた」
「違う!」
ひり付いたのどが悲鳴のような否定を叫んだ。獣。警戒。ティティに近付けない。美晴が何かを考えて──。
ティティの経緯と、不審、獣、美晴の企み、森。
ふと、アルトが語らなかった『最初』が繋がった。
「……してないよ」
「うん、一昨日分かった」
懺悔するように折れた首。愕然と旋毛を見詰める。
美晴の乾いた声は老婆のようで、ここが雑踏であれば紛れてしまうほどに細かった。
「してないよ、私、そんなこと。するわけない。だって、死んじゃうんだよ、水に溺れたら。苦しくて苦しくて堪んなくて、でもどうしようもなくて、なのに、私がティティを」
「分かってるよ、だから」
「私がティティを川に落としたって、ずっと思ってたって、言ってるんでしょ!?」
突然の激昂に、アルトが驚いたように顔を上げた。見開かれた目に映る自分の顔は、激怒というに相応しい様相をしている。
それまでの懐疑に腹が立たなかったわけじゃない。経験のないものを向けられて、現実感に乏しかっただけで、浸透すればきっと後々怒髪が天を突くだろう。
でも、こればっかりは別だった。途方もなく美晴の現実感を刺激する、その疑惑だけは許せない。
ずっと自分がティティを殺し掛けたんじゃないかと、あんな酷い目に合わせるような女だと思われていたと言われて、へらへら許せるほど寛大じゃない。
「ごめんってば!タイミングが悪過ぎたんだ、疑わないわけには行かなかったんだよッ!」
「だからって──」
蹴倒した椅子が騒音を奏でた。叩いたテーブルの上でグラスが転がって、気持ちの悪いピンク色が木目を濡らす。転がる器が床に落ちた。
怒りのままに責め立てる言葉を紡ごうとして──止めた。美晴が責めるのは過去だ。今更それを詰ったところで、何も変わらないと気付く。けれど、やりきれない。
噛み締めた奥歯がカチカチと音を立てた。引き結んだ唇が震えて嗚咽を漏らしそうで、こぼれそうな涙と共に必死で堪える。
強く瞑った瞼に鮮やかな部屋が浮かぶ。
「……帰る」
自分が作った惨状を片付ける気は起きなかった。踵を返して扉を開ける。火照った顔を風が撫でて、また少し毒が抜けた。
「送るよ」
「いらない。いざとなれば転移できるもの」
「ミハル、でもね」
「アルト」
滑り出た声は驚くほど硬質だった。背を向けたまま、平坦な調子で事実を述べる。
「私がおかしいだなんて、私が一番知ってるよ」
帰る道のりで、今度は警備兵長には遭遇しなかった。今頃、ヒューダと話しているんだろうか──美晴は空間転移ができる異常者だったと。
アルトが疑惑を話したということは、美晴の疑いはあれで晴れたと見て良いんだろう。それなら今後は警備兵から無駄に視線を食らうこともなくなるはずだ。今まで全く気付かなかったから、どうせ何も代わりはしないけど。
「ああ、ちょっと良いかい、ミハル」
呼び止められて、階段を上がる足を止める。振り返ると、女将は驚いた顔をして、気遣わしげに声を潜めた。
「宿泊の更新はどうするんだい?」
言いながらハンカチを寄越されて、やっと自分が涙を滲ませているのだと思い出した。流してまではいないのが不幸中の幸いだ。食堂の通りすがりくらいなら、長めの前髪に隠れていただろう。
「……また一週間でお願い」
「そうかい。長い方が安くできるから、変更があれば言っておくれな」
「うん、ありがとう」
美晴の躊躇に気遣いを足して、大きな身体を揺らしてカウンターに戻る。
短くしようか、更新すら止めようか。そういう迷いだったのだとは言うつもりはない。言う必要もないだろう。
ベッドに倒れ込んで目を閉じる。自室が余りにも煌々と輝いて見えて、何度も瞼をこじ開けた。
最初から間違っていたのなら、美晴はどうしたら良かったんだろう。