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05.帰宅と身支度

 今日は何一つ特別なことのない一日だった。こういう日もあるだろう。

 夕方になって部屋に戻り、思い立って携帯電話を取り出した。部屋のあちこちを写真に撮り、ついでに窓から街の写真を撮る。

 窓際から室内を見回して、首を捻りながら場所を変えた。窓際は、目測を誤ったらまずい。扉の前も万が一ということがあるし、一番危ないのが窓なら、と空腹の熊のようにぐるぐると回る。

 部屋の真ん中で足を止めた。後ろに空間があることを確かめて、荷物を背負って窓を向く。

 タイマーをセットして、一枚写真を撮った後、目が乾くほどに光景を焼き付けた。瞬きをしても窓の光景の残像が見える程に観察して、もう良いかと目を閉じる。

 異世界から異世界への移動はできない。これは帰郷の一念だろうとインテリ鳥は推察する。旅行先ではひたすら家に帰りたくなるというわけだ。あながち間違ってはいないだろうと思っている。

 黒い世界に浮かんだ自室。手を伸ばすように意識を向けると、すぐに吸い込まれるような感覚があった。苦手な浮遊感に拳を握って、すぐに平常を取り戻す。

 今までなら、これでおよそ旅行は終わりだった。無事戻れる成功率は90%くらい。今回は万全を期したし、恐らくもう一度戻れると思う。不器用に結ったリボンが揺れるのに微笑んだ。

 さて、のんびりしている時間はない。50分後にアラームが鳴る。そうしたらタイムリミットだ。早い方が戻れる確率は高いので、3日ぶりの自室の空気にのんびりしたがる身体を叱咤して荷物を開けた。


 「中々清潔な感じだし、除菌アルコールはいらないかなー。化粧品も基礎とファンデだけで良いし、あ、日焼け止め少ないんだった!」


 ぽいぽいと出しては必要なものを詰め込む。旅行の準備は楽しいから好きだ。が、帰ってきてからこの放り出したものたちを片付けるとなると少し凹む。

 ちらっと視線を落とすと、やはり初日の足跡はバッチリ付いていた。


 「うう、泥が……今洗ったらちょっとは取れやすいかなー……いやでも」


 それより今は荷物である。問題は後に回して、異世界を謳歌することに邁進しよう。

 気候が安定していたので、念のため持って行っていたいらない衣類を置いていく。代わりに着回せそうなシャツを追加し、上着は少々にしておく。

 シャツはこちらのものの方が手触りが良いが、夏の上着は日除け優先デザイン重視。あちらのものも可愛かったので、この機会に新調してしまおう。旅人と言っているのにあまり服持ちでも何だし。

 あと、塩を追加で持っておこう。資金はいくらあっても困らない。現金は盗まれたら痛いが、塩を盗まれても少し悔しいだけで済む。代わりに、引き出しの奥の簡易金庫を開けて、調味料交換ができなかったときのためにと持って行った宝石を仕舞った。空き巣より引ったくりの方が可能性が高そうだ。

 それから、防犯ブザー。迂闊に鳴らすとオーパーツ扱いされそうではあるが、背に腹は変えられない。不審の目より危険の撃退である。


 「……そうだ、ティティにもあげよ」


 自分を卑下するわけではないが、美晴よりずっと絡まれそうだ。何せ彼女は可愛い。男は可愛い子を見ると声を掛ける習性があって、その後狼に変貌することがある。なれば役に立つこともあるだろう。

 弾みで鳴らすべき代物ではあるが、関係ないところで鳴っても困る。ちょっと作動が固いものがあったはずだと机を漁った。目当てはすぐに見付かって、自分用と纏めて鞄に放り込む。

 手のひらほどの小さな催涙スプレーも二本入れた。試しに自分に吹き掛けてみたら地獄を見た、効果が保証された逸品である。

 あとは、と考え出したところで、携帯電話が突然大声を上げた。時間にはまだ早く、何かと思えばメールだった。電波が断絶されていた環境だったから、受信に時間が掛かったらしい。


 「あれ、お母さんだ……」


 そういえば旅行に行く前日や当日の朝にメッセージを入れる人だった。


 『旅行先ではめを外し過ぎないように。危ないことに首を突っ込まないように。あんたは昔から好奇心で動くんだから。無事に帰っていらっしゃい』


 開いてみると現れるのは母親特有の定型文。未だに使いこなせていなくて、ぎこちなく添えられた顔文字が文脈から外れて浮いている。

 返信はしない方が無難だろう。自分は海外にいる設定なので。了解、と声に出して返事をして、どうにも愉快な気分で一人笑った。

 首なんて突っ込まない。好奇心旺盛なのは否定しないが、美晴は案外怖がりなのだ。あまり知られていないが、母は知っているはずだった。多分突っ込まないだろうけれど、それでも気を付けろという母の愛である。

 先日のように男たちに絡まれているのがティティだったとして、美晴にできることはヒューダたちを呼んでくることだ。良く考えて、そう思う。怖いとかそういうんもあるけど、現実、美晴が割って入っても事態は悪化の一途であるだろうから。

 時計を見ると、残り10分。意外と時間を食ってしまっている。もう良いかな、と目を閉じようとして。


 「そ、そうだ、髪洗いたいんだった!待って、ちょっと待ってッ!」


 慌てて風呂場へと駆け出した。

 異世界では、美晴の手持ちの洗髪剤は質が良過ぎた。あのレベルだと高価どころではなく、もう新発明のレベルである。そんなものを公共の場で使用するわけにはいかず、仕方なしに質の悪いものを利用していた。

 案の定髪は僅かながら痛んできたから、帰るついでに洗っていこうと思っていたんだった!

 丁寧に洗うだけの時間はなく、肩にタオルを掛けて髪だけを洗って、風呂場がカビないよう配置を直していたら、部屋からけたたましいアラームが聞こえた。

 洗い流し不要のコンディショナーを引っ掴んで駆け足で戻る。

 51分。これ以上は危ない。増えた荷物を持って、携帯電話の写真を表示し、凝視した後、目を閉じる。

 瞼の裏に浮かぶいくつもの世界。一番近くにあるのは鳥人の世界で、これだけ準備していても最優先なのかとまた笑う。鳥人の姿を思い出しそうになって、急いで隅っこに浮かんだ移動先の光景を取り寄せた。

 次に自室に戻るのは、できればタイムアップのときが良い。何度も帰って、志半ばでうっかり戻れなくなるのは悔しいので。

 足下を踏み抜いたような不安定感。吐き気に似たむかつきに眉間に山を作る。ぐっと全身に力を入れて。


 「ぎゃっ、ぁああああ!?」


 浮遊感が大きくなって、目を開けると空中だった。腹から押出された悲鳴が、床に激突して潰れる。腰を打った。痛みにしばし呼吸が止まる。

 涙目で見回すと、確かに自分の宿泊する部屋だった。が、どうやら着地点がずれたらしい。窓の外や壁の中に出なくて良かったと、安堵だか苦痛だか分からない溜息を吐く。

 よろよろと荷物を下ろし、もう一度思う。次に自室に戻るのは、できればタイムアップのときが良い。壁に投げ付けられたトマトみたいになるのは、断じて御免である。

 塗れた髪が冷たいが、腰の痛みが引くまではとベッドでうなだれていると、外からやかましい足音が聞こえてきた。


 「おい、どうした!?」


 ヒューダの声だ。張りのある一声に、何だどうしたと集まる人のざわめき。これはまずい。

 転げるようにドアを開けると、険しい顔をした男が威圧感を露わに立っていた。


 「べ」


 その背後に群がる、食堂の客だろう人々。顔を引き攣らせ、恥辱を押して嘘を吐く。


 「ベッドから落ちて……ごめん……」


 美晴の顔はトマトから軍配を奪うほど真っ赤だろう。言葉の信憑性はむしろ増したかもしれない。

 あからさまに白けた雰囲気で解散したギャラリーに健忘症発症の呪いを唱えつつ、音が鳴るほど奥歯を噛み締めた。

 21歳の女、ベッドから落ちて汚い悲鳴を上げる。とんだ辱めである。

 だというのに、気まずそうな顔も見せず、ヒューダは美晴を見下ろした。


 「おまえ、ずっと部屋にいたか?」

 「うん、いたけど」

 「髪はどうした」


 あ、と滴を落とす毛先を摘む。肩に掛けたタオルもそのままに出てきてしまった。


 「汚しちゃったから水で髪洗って、そのままうとうとしちゃったんだよね。不安定なカッコでベッドに乗っちゃったのかも」


 部屋の隅に置かれた水桶を指さして誤魔化した。悪いことをしていたわけではないので罪悪感はそんなにない。そりゃ、嘘を吐いているのに違いないのだから、多少は申し訳ないと思うけど。

 納得したようなしていないような、曖昧な顔で彼は頷いた。


 「……あ、もしかして、もっと前にも部屋来てくれてたり。本格的に寝てたときかも」

 「いや、来てない。仕事帰りに伝言に来ただけだ」

 「伝言って?」


 あんまり追求されて嘘に嘘を重ねると良心が痛むから、話を逸らそう。本題に入るだけだから構わないはずだ。

 肩を竦めたヒューダは、極簡潔に用件だけを述べた。


 「妹がな、明日一緒にメシでもどうか、だとよ」

 「いつ?」

 「夜」

 「おっけおっけ、嬉しい!是非腹の虫を騒がせてお邪魔させて貰います!」

 「わかったわかった。昼飯抜くなよ」


 明日の予定が一つできた。

 早速ティティに会えるとは僥倖だが、そういえばあのオーパーツ、どうやって渡そうか。変わったお守りで通るだろうか。無理かな。

 ううん、と唸ると疑問が飛んで来る。


 「いや、手土産をどうしようかと……」

 「いらん」

 「でも、人ん()行くのに手ぶらっていうのも」

 「食い物はティティがアホみたいに用意するし、残るもん貰っても、狭い家じゃな」


 そうか、そういう事情もあるのか。食事の添え物でも用意していくべきかと思ったが、多すぎても邪魔になる。置物なんぞ持って行けば、彼女は遠慮して、いらなくても廃棄できなさそうだ。それならじゃあ手ぶらで、と先に言っておけば角も立つまい。

 手土産に紛れさせて渡すこともできないし、防犯ブザーは機会があればということにして、とりあえず催涙スプレーだけ渡しておこう。スプレーは構造は違うかもしれないが、色んなところで目にしているので。


 「じゃあまた明日ー」


 悩みも解決。スッキリした頭の今なら昨日のように寝返りを続けることはないだろう。

 朗らかに手を振ってヒューダを追い出す。背を向けた彼に習い、ドアを閉めようとノブに手を掛け──ふいに掛かった影に視線を上げた。

 至近距離に立つヒューダが、すん、と鼻を鳴らす。


 「……何か、良い匂いするな、おまえ」


 何の匂いだったか、と首を傾げながら去って行く背中を唖然と見送った。

 髪。そうか、シャンプーの香りか。仄かなマンダリンオレンジの香りが評判の良い愛用品だ。翻ったときに香りが届いたのか。そうか。

 別に何があったいうことはない。ないが、不思議と心臓が暴れて暴れて、この日も中々寝付けなかった。そんな異世界三日目。

 ちくしょう。

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