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11.私と世界

 「ひああああ!?」

 「う、お」


 また落ちた。急激な移動というのはこうも精度が悪くなるものか。

 落下地点はベッドの上で、スプリングがひどい悲鳴を上げた程度の被害で済んだのが幸いだった。今回は美晴が上になったお陰で、頭は痛いけれど身体には特別痛みもない。下敷きにしたヒューダには申し訳ないが。

 暗い室内。手探りでもたもたとベッドから降りて照明のスイッチを入れる。視界を満たす見慣れた光景に息を吐くと同時──現実が訪れた。

 やってしまった。


 「どうしよ……」


 さあっと血の気が引いていく音がする。カーペットに尻を落として手を付いた。

 固まっていたらしいヒューダが、柔らかなベッドの上で身を起こす。


 「おい、ここどこだ?」

 「私の部屋……」


 美晴とは裏腹に、彼には見慣れないものの宝庫だろう。ベッドサイドのデジタル時計を手にして興味深そうに眺めている。

 19時、とぼんやりしたまま目に写して、また視線を俯けた。


 「私の部屋、ってな。ミハルの部屋はあの殺風景な宿屋だろ」

 「そこじゃなくて」

 「……故郷の?」

 「そう、ええと、実家……じゃないけど、そんな感じの」


 考えが纏まらない。向けられる質問に答えるだけの容量が空いてない。

 時計を置いたヒューダがベッドから降りて部屋を見回す。片付いているとは言い難い狭いワンルームをうろうろと移動して、窓際で止まる。

 じっと外を見る顔は、ガラスに反射してぼけている。


 「ひとまずあいつらとの鉢合わせは回避できたと考えれば良いんだな」

 「回避はできたけど」

 「おまえ、転移は短距離しかできないって言ってなかったか」

 「転移……は……」


 矢継ぎ早に紡がれる言葉に、どんどん頭から血が抜けて行く。

 19時、と繰り返し思う。19時、3分。

 返答がないことを訝しんでヒューダが振り返った。ぎょっとしたように、慌ててこちらに駆けて来る。

 あんまり動き回ると足跡の処理が面倒で堪らないから、じっとして──いやそんなことはどうでも良い。現実から逃避している場合ではない。


 「体調が悪いのか?酷い顔色してるぞ。少し休んで──」

 「駄目」


 心配そうな顔で覗き込む彼の腕を掴む。目を閉じる。いくつもの浮かび上がる景色を一つ一つ確かめる。

 ない。一度開けて、再度閉じる。いつの間にか息を止めていた。目を開ける。泳ぐ視線が左下を向く。景色を思い出す。閉じる。──ない。あの世界が、見付からない。


 「ミハル?」


 携帯電話を取り出す。急いで画像を並べて、その中でも一際よく見た宿の一室を呼び出した。焼き付けるように凝視する。


 「おい、どうした」


 目を閉じる。探す。見当たらない。目を開ける。どんなだった、と細部を思い出す。画像に映るこざっぱりとした部屋。チェストが一つ。固いベッドは許容の範囲。板張りの床は冷たくて、夏の気候には気持ちが良かった。窓から見える風景は──目を閉じる。

 見付からない。


 「おい、ミハル……ミハル!」


 両肩を押さえられて怒鳴るように呼び掛けられた。鍛えられた彼の身体の向こうのデジタル板が視界に入る。

 歯の根が噛み合わず、カチカチと不快な音を奏でている。全身の震えが止まらない。


 「ごめん、どうしよう、ヒューダ。ごめん」

 「落ち着け。まずは説明しろ」


 怒らないから、と付け足された言葉からすると、美晴は余程酷い顔をしているのだろう。


 「私は、違う世界から来たの」


 促されるまま、何も組み立てることのできないまま、ただつらつらと事情を語った。

 異世界という存在のこと。美晴の能力の詳細について。ヒューダの世界を訪れた経緯。

 彼はとっ散ちらかった話を辛抱強く聞いてくれて、たまにずれ込んで自己嫌悪に陥る軌道を修正した。時計の数字が目に入るたび恐慌に見舞われる美晴の手を握り、落ち着けと声を掛けて。


 「私のせいだ」

 「落ち付けって。おまえは俺を助けようとして、この世界に連れてきただけなんだろ」

 「それでも、帰れる保証もないのにするべきことじゃなかった!」


 一日外出していたとはいえ、宿の部屋はもう目に焼き付いているはずなのに、どうしても光景が眼裏に浮かばない。何度も写真を凝視して、目が乾いて痛いほどなのに。

 一時間制限が思考の邪魔をする。同一世界へのジャンプは一時間以内。それを超えたらきっともうチャンスはないのだと、これまでの経験がリミットを煽って集中を阻害する。

 帰れなかったら──どうなるのだ。不安な状況にある(ティティ)を置いて消えた彼を、誰かに目撃されたという確信を持つ領主が気に留めたら。私兵をけしかけられてティティに危害が及ぶ。アルトはティティを守ろうとするだろう。大量の戦力を抱えた領主に、彼は刃向かうことを躊躇わない。警備兵の皆はアルトに加勢する。彼らが傷付けば街の平穏は誰が保証するんだ。

 そして、故郷から突然離された彼は、ヒューダはどうなるのだ。

 異世界から持ち込んだ、ベッドに転がるちっぽけな包みが美晴を責め立てる。


 「私のせいだ。私が落とし物なんてしなければ、ヒューダを巻き込んだりしなかった」

 「違う、俺が」

 「違わない」


 宿屋の画像を虚ろな瞳で見続けながら、慰めの言葉を否定する。


 「私が話を切り上げなきゃ良かった。私が今日ヒューダに会わなければ何も起こらなかった。私が疑われたことに拘らなきゃ良かった。あの街に留まらなければ良かった。あの街に行かなきゃ良かった。あの世界に行かなければ良かった。私がこんな力を不用意に使ったからいけなかった。私がいなければこんなことにはならなかったのに。私がいたから」


 吐露される思いは自己否定ばかりだった。

 美晴は長らく、人間関係に悩んできた。自分の逃げ癖にも悩んでいる。その根本を辿ってみると、美晴はいつも、この力の存在について思う。考えて、考えて、最後に着陸するのはいつも、ちょっとだけネガティブな方向だった。

 ぐるぐると回るのは、気難しい鳥人の言葉だ。

 一歩間違えれば様々なものを巻き込んで命を落とす危険性すらあるのだと。美晴が今まで致命的な事態に陥らなかったのは偏に悪運が味方をしただけであると。

 その通りだ。いや、もっと酷い。だって、彼は共倒れになると危惧したのに、美晴は被害になど合ってはいないのだ。ただの一方的な加害者だった。

 美晴はおかしいのだ。知っている。でも、このおかしさは、他人を不幸にするのか?


 「どうして」


 いつもは心の片隅に浮かんでは泡と消える思いが、質量を持って美晴を押し潰す。


 「こんな力、なければ良かった」

 「違うだろ!」


 肩を掴む手に力が入って骨が軋む。反射的に顔を歪めると、慌ててヒューダは力を抜いた。それでも手は離れないまま、体温を下げた美晴の肩を暖めている。


 「俺は、ミハルの力に感謝してるんだ。それを、おまえが否定するなよ」

 「感謝……?だって、私、迷惑掛けて」

 「違う。俺は何も迷惑なんか掛けられてない」


 はっきりと彼は目を合わせて断言した。

 考えもしなかった言葉に戸惑いを露わに見返す。視界にヒューダを入れると、こんな問答をしている場合じゃない、と片隅に追いやられていた意識が浮上した。

 手の中の端末に視線を落とそうとすると、ヒューダの手が頬を押さえた。無理矢理顎を上げられてのどが詰まる。


 「ぐだぐだ言ってごめん。急がないと……」

 「良いから聞け。どうせ成功しやしないだろ」

 「なにそれ。やってみないと分かんない」

 「行きたくもない世界を真っ直ぐに思い出せるもんかよ。良いから、先に聞け」


 的を射る正論に反論を切り捨てられて黙り込む。

 否定されて、いくら謝罪を受けたとはいえ美晴を切り裂いた世界の印象は悪い。ヒューダを連れ帰るという名目がなければ、すでに自室に足を着けてしまった今、美晴は二度と意識を向けようとは思わないだろう。目を閉じて、例えあの世界が浮かんでも。

 彼の目の中に浮かぶ美晴の顔は酷いものだった。髪はボサボサで、顔色は悪いし、自己嫌悪に歪んでみっともないし、いつの間にやらか噛み締め過ぎた唇からは血が滲んでいて、唯一好んだ猫に似た吊り目は泣きそうにひしゃげている。

 頬を覆った手がそっと髪へと流れた。頭を撫でるような、髪を整えるような。状況に似合わないゆったりとした仕草に落ち着きを覚える──はずがない。混乱の渦中に突き落とされて目を回す思いをした。

 何だこれは。

 ヒューダが口を開くのがもう少し遅ければ、美晴は握った固形物を全力で彼に向けて投擲していただろう。


 「ミハル、悪かった。俺が、悪かったんだ」

 「なに……」

 「ずっと俺はおまえを疑ってた。ティティに害を成したのはミハルじゃないかとか、これから害するのかもしれないとか、色々」


 黙する。なあなあで済ますのならともかく、こうして目を合わせたままで真実許せるほど大人になれない。


 「疑いが何一つ真実じゃなかったと知って……どうして良いか分からなかった」

 「……言った通り、仕方ないとは思ってる。でもそれ以上に怒ってる」

 「怒るのは当たり前のことだ。だから謝ろうとして、でも」


 数日間の空白を思い出す。

 美晴は彼らを避けていたが、彼らが美晴の部屋へ押し掛けようと思えばいつでも顔を合わせることができた。それでもヒューダが来なかったのは、単純に気まずいのが辛いんだと思っていた。謝る気があるとかないとか、そういうのは考えていなかった。

 ただ踏ん切りが付かないんだろうと思っていた。美晴こそがそう思っていたから。

 どうも、それは違ったらしい。


 「ミハルがいなきゃ、ティティは死んでたってことだろ。なのに正反対のことを疑って、それは謝ったくらいでどうにかなるものじゃないと」


 口ごもって、そのまま言葉が切れる。太い首が落ちて、美晴の視界を旋毛が占領した。


 「……悪い、纏まらない」


 とても考えてくれたらしい。葛藤があったらしい。謝罪の後。彼なりのけじめの付け方について。

 その辺りが美晴とは違って固いところだなあと思う。悪く言えば融通が利かない。美晴はひとまず謝ろうと思った。その後のことはその後として。

 罪悪感の深度の差もあるかもしれない。別に自分が適当な謝意を持っていたわけじゃないけれど、彼が言うことには美晴はティティの命の恩人という位置付けのようだし。

 何だか微妙に冷静さが戻ってきた。もしかして世界では一所の空間における総合パニック指数とかが設定されてるとか。誰かがパニック起こしてると冷静になれるって言うし。ヒューダが混乱きたした分、美晴の思考力が戻るみたいな。なんちゃって。ここまでパニックの名残。

 一周して帰ってきた思考能力が口を開く。


 「……とりあえず、謝って」


 下がった視線がまた合わさった。鋭いはずの目は情けなく尻が落ちて、弱々しく揺れている。


 「悪かった。それから、ありがとう」

 「……うん」


 少しだけ、すっとした。謝られたって許せるものじゃないと思っていたけど、本気の反省が身に沁みるとまた捉え方が異なるらしい。

 のどに刺さった小骨が取れたようで、素直にこくりと頷く。そうなると、やっぱり気になるのは自分の所行だ。

 できる限りの神妙さで頭を下げる。


 「私も、ごめん」

 「違う!」


 だというのに、あろうことか返ってきたのは叩き潰すような否定だった。たちまち憮然と頬を膨らませる。


 「なにが!」

 「何を謝ってんだおまえ。ていうか何を謝って終わってんだ、俺は。そうじゃなくてだな」


 豪快に髪を掻き回し、苦々しい顔をした。

 こちらの表情である。睨み付けられたので遠慮なくガン付け返した。


 「何でミハルが卑屈になってんだって話だよ。ミハルがいなきゃティティは死んでた。それは確実なんだ。おまえが異世界?への転移?って能力を持ってたからこそ、ティティは助かった」


 ……睨んだのではなく、この上ない真剣な顔であったらしい。精悍な顔立ちというのもきつく見えるので考え物だなあ。美晴には心配いらない事実である。悔しくなんかない。


 「……でも、私のせいで、もしかしたら街の人がどうかなってたかも」

 「ならなかっただろ!どうせティティがどうかなってたら、獣はまた街まで上がってきてたよ。人間の臭いを辿ってな」


 いまいち納得いかない顔をしていたようで、ヒューダの顔が剣呑に歪んだ。


 「それと、何か勘違いしてるようだけどな、ミハルが俺たちに掛けただの掛けたかもしれないだのと思ってる迷惑ってのは、ティティを助けた一回で軽く帳消しになるものなんだよ。どうして回数だけで卑下に走るんだ。つうかそもそも、おまえが思い込んでる何もかも、俺たちは迷惑だなんて考えたことはない」


 勢い込んで身を乗り出すのでヒューダの高い鼻と美晴の低い鼻の先が触れ合いそうになる。硬派に見えて、意外とパーソナルスペースが近い。


 「おまえがその力を持つことで、今までどう思ってたか、俺には分からない。けどな、俺たちはミハルがそうであることに感謝してる。ミハルがそういう力を持っていて、異世界旅行とやらを楽しむ性質だったからだ。良いか、ミハル(・・・)が、そういう性格で、その能力を持った、今のミハル(・・・・・)だからこそだ。あろうことかその恩を仇で返した俺やアルトが凹むのは分かるけどな、おまえが自分のせいでどうのと嘆くのはおかしいだろうが」


 あんまり近くて、言葉が目から入り込むようだった。

 段々と下がる凛々しい眉尻が、いつしか悲哀を作り出していた。捨てられた子犬──サイズで考えると、餌をお預けされた狼である──のような瞳で告げられる懇願に、萎縮していた心臓が正常な鼓動を刻み出す。


 「いらなかったなんて言うな……頼むから、誇ってくれ。ミハルは俺たちを救ってくれたんだよ」


 肩から伝わる暖かさに、いつの間にか体温を取り戻した美晴の身体は眠気すら伝えた。ぼんやりと得た言葉を咀嚼する。

 美晴の力があったことで、この暖かさは救われたのか。失望に体温を失うような、そんな思いをせずに済んだのか。彼は『美晴』のお陰だと言う。楽しむ反面、ずっと心の奥底で憎んできた、この力を持ったおかしな美晴の。

 それはとても、何というか──凄いことじゃないだろうか。


 「……」

 「……理解できてるか?」

 「もっかい、やる」


 思っていた返答と違ったのだろう。返答になっていなかったとも言う。胡乱な顔で見返したヒューダから今度こそは視線を外し、画面を黒く染めた携帯電話を操作する。

 混乱はあったが、頭の芯がやけにすっきりしていた。数秒眺めて、そのまま目を閉じる──ヒューダの確保を忘れていた。視界を暗くしたままふらふらと手をさまよわせると、大きな手が絡み付く。引き寄せられて、抱き締められて──集中を乱したくて堪らないんだろうか、彼は──いくつかの光景の中、求めた光をようやく見付ける。

 簡素な宿屋の一室で、安全な着陸を遂げる。端末の時計が切り替わった。

 20時。

 きっちり一時間だったのか、それとも混乱の時間を含めると少しオーバーしていたのか。定かではないが、実験をしたいとも思わない。

 安堵が過ぎた。何も考える気力が起きず、ふらふらとした足取りで部屋を跨ぎ、慣れた固いベッドに顔を埋める。

 おい、と低い声を夢現に聞いた。吸い込まれる意識は、自室の光景を見せる時間すら与えなかった。

 ああ、電気消すの忘れてきた。

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