九
「で、この無愛想で無遠慮で無作法な ならず者が あんたが言ってた雄なの?」
テーブルに肘をつき、ニイシャと並んで己の向かいの椅子に座るヒゼンを睨み付けながら、シャイルが嫌味たらしくニイシャに問う。
暴言を浴びせるシャイルと暴力で黙らせようとするヒゼンを 何とか なだめ、二人を引きずるようにシャイルの家に連れ帰ったニイシャは もう、疲労困憊で椅子に もたれ掛かっていた。
「口の聞き方に気を付けろ、猫よ。貴様はニイシャの恩人ゆえに生かしておるのみ。貴様ごとき、私の手にかけるは 容易いことぞ」
「ふうん、ニイシャの話では もっと大人な雄って感じだったけど…実物は しょうもないガキんちょじゃないの。ずいぶんと思い出が美化されたんだね」
「猫が、死にたいか…貴様ごときがニイシャの名を口にするな!」
「やだやだ、すぐ頭に血がのぼるなんて、まだガキな証拠だね」
「黙れ。ニイシャと同じ家に住んでおるだけでも万死に値するというに…貴様は 天に召されると思うな。貴様が行くは地獄の底。私が 今すぐに逝かせてやろう」
殺気を放って椅子から腰を浮かせたヒゼンの服をニイシャは 慌てて掴み、無言で首を横に振る。
ニイシャの目に薄く涙の膜が張ったのを目ざとく気付いたヒゼンは、びくりと体を硬直させた。
「あらら、泣かせちゃったね」
「ちっ、違う、私は、その…な、泣かないでくれっ…」
「泣いてません」
大袈裟な程に狼狽えるヒゼンと対照的に、面白そうに目を細めるシャイル。彼はヒゼンを からかって遊んでいるのだ。実際の年よりも精神的に大人びているシャイルには、直情的で良くも悪くも真っ直ぐなヒゼンは 子供の様に見えるのかも知れない。
ニイシャが茶を淹れて二人に出すと、二人は互いに睨み合いながら茶を 口にする。場を和ませようとの配慮の つもりが、罵り合いから睨み合いに発展させてしまっただけだった。ニイシャは苦い思いで静かに椅子に腰を下ろした。
こんな時、いつも空気を変えてくれるのはサナンだった。頭が切れるサナンは、たった一言で重苦しい空気を 変えてしまう不思議な力があった。サナンの明るさが自分にもあったなら、とニイシャは それを いつも羨んでいた。
そういえば、とニイシャは ふと、あることに気が付いた。
「今日、サナンが成人するんですけど…あ、あなたの成人の日は 夏でしょう?成人前は 里から離れては いけないはず…どうして 里を出られたの?」
気恥ずかしさからヒゼンの名を呼ぶのが憚られ、無難に濁してヒゼンに問う。成人前の者は里を出ても狩りの時だけと決められていた。なので、今ヒゼンが この場に居るのは おかしいことだった。
「掟など…私は あの里の生まれではない。それゆえに、掟など 有って無いようなものであった。律儀に守る義理も無い」
ニイシャの知るなかで 他の里から移り住んできた者はヒゼンの家族しか 居なかったため、当事者が そう言うのなら、そうなのか、と納得する他はない。
「本当なら…今日、そなたに私が狩った獲物を献上し、つがいになって欲しいと懇願する腹積もりでおったのだが…まさか、妹君の成人の日を そなたが教えてくれたとも知らず、私は そなたが真の成人の日に里を出たとも知らずに過ごしていた。そなたが里を出たと 人伝に聞いた時、私は己の過ちを知ったのだ」
悲しげに睫毛を伏せるヒゼンに、胸を痛める。擦れ違いに よって、ニイシャだけでなくヒゼンも 辛い思いをしていたのだ。
「私は、そなたが里を出た後も、それを知らずに そなたの家に通っていた。妹君は…サナン殿は私に何も教えてはくれなかった。一言「ニイシャは 今は 居ない」と言うと、門扉を固く閉ざしてしまった…私は、そなたに嫌われたのか、もしくは そなたが体調を崩したのだと思い、それからも五日通い続けた。そうして、そなたが里を出て六日後に、里の雌からニイシャが既に発った後だと聞いたのだ」
ニイシャはヒゼンの話を聞き、首を傾げた。サナンは 普通ならばニイシャを名で呼ばず、姉さんと呼んでいた。しかし、今の話を聞くと、サナンが意図的にヒゼンに ニイシャを妹だと思わせ、そしてニイシャが里を出ていたことを隠していた様に聞こえる。それは何故か?ニイシャは 不思議に思い眉を寄せる。すると、茶を ちびりちびりと 冷ましながら啜っていた シャイルが、ふっ、と鼻で笑った。
「あのさ、それって単純に あんたが妹に嫌われてるってことでしょ?」
悪意を隠さずにシャイルが言うと、ヒゼンは 眉間に皺を寄せて頷く。
「…成る程。ならばサナン殿が常に私を睨んでいた訳も分かるな 」
今、指摘されて初めて気が付いたらしいヒゼンに、シャイルは 嫌味が通じずに面白くないといった面持ちで 茶を啜る。
「それで、何で今さら?あんた足早そうだし、ニイシャが里を出たのに気付いた六日後とやらに、すぐ里を出れば ニイシャに追い付いたんじゃない?今、一年経ってもう春だよ?」
シャイルの追求は止まない。ニイシャの知りたいことを次から次へと聞いてくれるのは有りがたかったが、ニイシャは その早さに今一つ、着いて行けていなかった。
「猫め、酷なことを言ってくれる」
不機嫌さを滲ませた目線で睨み付けられている当の本人は、さして気にもせずに ニイシャに 次の茶をねだる。ニイシャは せがまれるままに茶を淹れて、自身も 冷めきった茶に口をつけた。
「私も、一人の雄だ。唯一求めた雌に逃げられたと思えば…これが落ち込まずに居られようか…立ち直るのに 暫く掛かったのだぞ」
ふう、と溜め息と共に吐き出された悲痛な言葉は、ニイシャに重くのし掛かった。自らに 責任の一端を感じ、ひどく申し訳無い思いで 肩を落とす。それと同時に、諦めずに追いかけて来てくれたヒゼンに 感謝の思いも込み上げる。
「あの、ごめんなさい…サナンも、私も…」
「いや、良い。今こうして 幸いにも つがいになれたのだから、過去のことなど水に流してしまおう」
悲しげに伏せた目から一転して、嬉しそうに笑むヒゼンに、ニイシャは頬を熱くし 赤に染めて、静かに首肯を返した。見つめあうニイシャとヒゼンは 二人の世界に連れ立って行ってしまったようであった。それを快く思わないシャイルは、手にしていた茶器を わざと音を立てて無造作にテーブルに置く。
その音に 肩を震わせたニイシャは、鼠の様な素早さでヒゼンから目をそらし、慌てたように茶を飲み干す。そうして、
「あ、私、お、お湯を沸かして来ます!」
と上擦った声音で 言うと、ティーポットを 掴み、奥に引っ込んでいった。
柔らかく揺れるニイシャの後ろ髪を穏やかな目で追っていたヒゼンは、その姿が見えなくなると鋭い眼差しをシャイルに向けた。
「…いちいち、邪魔をしてくれる」
「え?何のこと?」
睨み付けるヒゼンを 鼻であしらい、シャイルは 挑戦的な笑みを向ける。
「ニイシャを助けてくれた事には礼を言おう。だが、彼女に 色を含んだ想いを僅かにでも見せたなら…その首 すぐさま はねてやろう」
射殺されるのではないか、という程の殺気を浴びたシャイルは かすかに 眉を潜めると、唇を吊り上げて笑った。
「心配しないでよ。僕にしてみれば、あの子は そういう対象じゃないしね。守ってあげたいって思う存在だけど…あの子は僕の『妹』みたいなものだし。お兄様は、『妹』が幸せなら それでいいよ」
奥に引っ込んだまま姿の見えないニイシャを 案ずる目線を送るシャイルに、ヒゼンは 殺気をおさめた。自らを兄だと語る雄の 目を見れば、ニイシャを大切に思っているという言葉に嘘は無いと分かる。
「まあ、可愛がった妹が 出ていくと思えば、その元凶の愚か者に ちょっと意地悪してやろうっていう気持ちになるものでしょう?」
「愚か者、だと…」
「だって、そうでしょ。文とか贈り物とか、そんな回りくどいことしないで 直接『そなたが好きでござる』って言えばよかったんじゃないの?」
「…そんなこと、言えるか!」
シャイルの軽口を真に受けたヒゼンが、テーブルに 拳を叩きつける。その音に驚いたニイシャが 二人のもとに駆け付けると、二人は 先程までとはうってかわって、飛び交う言葉は物騒であったが 表情は穏やかに会話をしていた。
どうにか、打ち解けたらしい。ニイシャが胸を撫で下ろすと、ヒゼンに名を呼ばれ、隣の椅子を促された。
ニイシャが 恥ずかしげに腰を下ろすと、温かな眼差しでニイシャを見つめていたヒゼンと視線がかち合った。
この目に、惹かれた。ヒゼンの強さも、美しさも、全てがニイシャを惹き付けた。しかし、なかでも ヒゼンの眼差しが 一等好きだった。強い視線でニイシャを射抜く この眼差しを見る度に、ニイシャの胸は痛い程に高鳴った。
失せることの無い恋心に苦しめられ、ヒゼンを想い泣き明かした夜も数えきれない程にあった。いっそ、こんな苦しい恋ならば忘れてしまえたら、と何度思ったことだろうか。
しかし、こうして今 想いを通わせ、つがいとなることができた。この先、また生きていく上で二人に幾多の困難が立ちはだかるであろう。それでも、ニイシャは ヒゼンがいれば 恐れずに立ち向かっていくことができると思った。もう、下を向いて 誰かの影に隠れたりはしない。
ニイシャは、常にヒゼンの隣に立って生きていく。そして、他者に 守られてばかりではなく、己の意思を持ち 強く生きていく。
そう、決めた。
果てない恋心の行く末は、きっと輝かしい未来へと繋がっている。
そう信じて、ニイシャは 愛しい つがいの手を取った。
完結しました。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。本編は これで完結ですが、番外としてシャイルの行く末を書きたいと思っています。ヤンデレヒゼンは本編の 幸せムードを ぶち壊しかねないので、載せるかどうか悩んでいます…