八
勢い良く下げた頭も そのままにして、ニイシャは申し訳無い思いで 胸が満たされていた。
ニイシャに宛てて認められた文も 一度も目を通さずにサナンに渡していたし、一度は暖炉に くべて燃やそうとさえ思ってしまった。贈り物も、繊細で美しい細工の 一目で上物と分かる品々を、惜しむことなくサナンに渡していた。恐らく、今も里のニイシャの家の棚に仕舞われている。それらは全て 一つも封も開けず、装飾品としての意味も成すこと無く、埃をかぶっているやも知れない。まさか捨ててしまってはいないだろうかと、冷や汗さえも流れる。
知らなかったとは言え、ヒゼンの想いを 蔑ろにしてきた罪悪感が ニイシャに重くのし掛かる。
その罪悪感から、ニイシャは頭を垂れたままで じっとヒゼンの言葉を待った。
元々はヒゼンの勘違いが始まりだったとしても、幾度も顔を合わせて言葉を交わす機会があったのだ。臆病な心が故に、深い会話をするのを恐れたのが裏目に出た。 ニイシャが 早いうちにヒゼンと労せずに言葉を交わす様になっていれば、これ程までに事態は 拗れなかっただろう。ある意味では ヒゼンだけでなく、ニイシャにも非はあった。
「それ、は…どの様な意味の…」
か細いヒゼンの声を聞けば、ニイシャは 更に眉を下げる他なかった。ただひたすらに、ヒゼンに対して申し訳無いと思う。
「あの、いただいた文とか…贈り物とかを、その…私、サナンに宛てたものだと思って、直ぐにサナンに渡していたんです…本当に、ごめんなさいっ」
顔を上げずにいるニイシャは、ヒゼンが 死人のように蒼白な顔から あからさまに表情を弛め 安堵したのを知らず、情けなく眉を下げたまま頭を垂れていた。
「私が悪かったのだから、そなたは何も気にしなくとも良い。全て私の不徳の致すところゆえ。そなたは 何も気に病まずに、ただ…」
優しく温かな手を頬に添えられ、ゆっくりと顔を上げられる。恐る恐るニイシャが見上げた先には、慈愛に満ちた眼差しのヒゼンがいた。
「ただ…そばにいてくれれば良いのだ。どうか、私の つがいになってはくれぬか、ニイシャ」
眩い笑みと共に告げられた それは、ニイシャが夢にまで見た言葉だった。心臓が、痛いくらいに 脈打っている。しかし、その痛みが これは現実なのだとニイシャに教えてくれている。
しかし、ニイシャは 唇が 震えて言葉を紡げなかった。
自分のことは自分が一番知っている。狼としても雌としても魅力があるとは思えないニイシャは、いつだって己に対して少しも自信を持ち合わせていなかった。
ヒゼンの想いは 十分に伝わった。ニイシャは、里にいた時に ヒゼンの熱い想いを目にしている。その ひたむきで真摯な想いが 自分に向けられていたのだと知った今、ニイシャは至上の喜びを感じていた。
それでも、喜びの前に ニイシャの前に不安が立ち塞がる。この魅力に溢れ、誰もが 目を奪われる雄の隣に立つのが、ニイシャなどという みすぼらしい雌で良いのだろうか?そう思う気持ちが、ニイシャの唇を重くさせる。
「もしや、私の心を信じては もらえないのだろうか…?」
ヒゼンの心が嘘だとは思っていない。彼の目は雄弁に ニイシャに 愛を告げている。
「あなたの気持ちを疑ってなんかいないんです。でも…」
「でも……なんだ?」
ヒゼンの目が不安の色を宿し、ニイシャを見つめている。
「…私で、いいのでしょうか?…私は、愚図で、のろまで…美しくもない、何の取り柄もない役立たずです…」
目を伏せたままで 途切れながらでは あったが、最後には、ニイシャはヒゼンの目を見つめながら言うことができた。
ヒゼンは ニイシャの言葉を聞くと、呆気にとられた様な顔をしたかと思うと、ふっ、と小さく笑みをこぼした。
「何を 言うのかと思えば…」
何故 笑われたのか 分からず、不思議に思いニイシャは首を傾げる。
「ニイシャ、あなたは どの雌よりも美しい」
「…う、嘘を言わないでください!私は美しいなんて言われたこと、一度も…」
里の者は皆、口々に ニイシャを不美人だと言う。ニイシャの容姿を誉めるのは、ニイシャの家族のみ。
「いや、そなたは美しい。…美しいというよりは、可愛らしいという方が似合いではあるが」
驚いて見つめ返したヒゼンの瞳に、目を見開くニイシャの顔が映る。その顔は頬も目もとも赤く染まっている。
「あの里は他の里と離れており 交流も滅多に無いためか、他の里とは違った文化や価値観が在る。美醜を感じる心は変わらずとも、強さが何よりも価値のあるものとされている。ゆえに、華奢で 儚げな そなたは役立たずと言われていたのだろう」
他の里と、違う?それはニイシャが生まれて この方、考えもしないことだった。
「里を出た そなたは、数多の雄に声を掛けられたはず」
不機嫌な声音に なったヒゼンを またも不思議に思いながら、これまでの旅路に思いを巡らす。数多という程に数多くはないが、ニイシャに声を掛ける雄は種族を問わず数は居た。ヒゼンの言葉を否定しないニイシャに 己の憶測が間違いでなかったと知ったヒゼンは、尚更に不機嫌な態度を隠せなくなった。
「その雄共は、忌々しくも そなたの魅力に惹き寄せられたのであろう…」
ヒゼンの言葉が真実ならば、ニイシャは、己を不美人だと…雌として何も魅力がないと己を卑下しなくても良いのだろうか。
鬼を背負った様な怒気と気迫を醸し出すヒゼンだったが、ニイシャが 突如 はらはらと涙をこぼすのを見ると、言葉を失い狼狽えた。
「そ、それなら…」
涙をこぼしながらも、ヒゼンの手を握り何かを必死で言わんとするニイシャを、ヒゼンは 小さなニイシャの背を撫でて、先を促す。
「それなら私は、あなたの隣に立っても…つがいに、なっても…良いのでしょうか…?」
止まらない ニイシャの涙は、悲しみではなく喜びの涙だった。ニイシャの言葉を聞いたヒゼンは いたく歓喜し、眩い笑顔を浮かべながら強くニイシャを抱き締めた。
「そうでなくては、困る…そなたが つがいにならなければ、私は一生 一人に なってしまうのだから」
逞しい腕に抱かれながら、ニイシャは ほろりと また一つ、涙の雫をこぼした。よもや、ヒゼンもニイシャと同じことを考えていたとは。一生に一度だけの恋を、互いにしていたという。こうして 会えたこと、つがいになれたこと。ニイシャは 一度に幸せが押し寄せて来た心地になる。
二人は かたく抱き合いながら、しばし ようやく実った恋の余韻に酔いしれていた。
しかし、ヒゼンが 突如として素早い動きで ニイシャを守る様に 自らの背に庇い、かなりの距離がある大木を睨み付けた。
「……?」
「あの木の影に何かいる。私の背に隠れて」
何かと言われても、ニイシャの目には ただの木にしか見えず、あの距離では臭いでさえも嗅ぎとれない。
「風上にいるせいで、相手の匂いも わずかにしか嗅ぎとれなかった。獣臭は無い…人の様だが…」
流石は、里一番の狩りの名手と言われるだけあって、ヒゼンの嗅覚はニイシャよりも かなり優れているようだった。
何か、と言われ ヒゼンに仕止められた大猿を思い出して体が震えるも、人と聞けば 震えも収まった。
大木を睨み付けたまま動かないヒゼン。ニイシャもその木を見つめるも、一向に何が居るのか、果たして本当に そこに何かが居るのかさえ 分からない。ニイシャは やはり狩りは不得手だ。
膠着状態が続いていたが、息を潜めて全く動かなかったヒゼンが、足下に散らばる小石を一つ手にした。そして、ニイシャを下がらせると、わずかに振りかぶって木の方へ投げた。
まさか、この距離から木に向かって投擲するとは思わなかったニイシャだったが、更にその石が見事 木に命中するとは思いもよらず、石が木に 当たった瞬間に、
「ひゃっ」
“ゎっ!”
と、声を上げた。
しかし、ニイシャの声と重なって木の向こうから 小さく聞こえた声に、ニイシャは聞き覚えがあった。覚えがありすぎて、口を開けて呆けてしまった。
「やはり、人か…」
冷静な面持ちで 様子を うかがっているヒゼンを見ながら、ニイシャは この場を どうしようか、と戸惑っていた。
「人なら、無闇に狩れぬな…」
ニイシャの予想通りであるなら、あの木の向こうの人を狩られたら大変な事に なってしまう。
早いうちに、あれは自分の友人かも知れないとヒゼンに教えよう。そう思ったニイシャは、木から視線を外さず、警戒を続けるヒゼンの服の袖を そうっと つかみ、自分に意識を向けさせた。
「あの…」
と口にした瞬間、
「信じられないっ…!」
と木から顔を出して ヒゼンを怒鳴り付ける声が響いた。聞き覚えのある その声に、ニイシャは やはりな、と 眉を下げた。何やら面倒な予感しか しない。
「危ないじゃないさ!いきなり攻撃仕掛けてくるなんて どういう神経してるの?」
最早 大木から身を乗り出して 怒りも露にして 遠くからヒゼンを なじるシャイルに、ニイシャは空を仰いだ。どうやら 先程の ヒゼンの仕打ちに腹を立てたようだ。
「喧しいな。どれ、次は頭に当てて黙らせてやろう」
眉間にしわを寄せて 小石を拾うヒゼンの腕を必死に つかんで止めながら、ニイシャは 未だに遠くで罵詈雑言を吐くシャイルを どうやって落ち着かせようか、と深い溜め息をついた。