六
ついに春になった。雪は溶け、緑が芽吹き、暖かな風がニイシャの髪を 揺らす。
雪が溶け初めた春の日に、ニイシャは 家を出て近くの開けた野原に来ていた。そこかしこで緑が顔を出し、小さな花弁を揺らす花も 見受けられた。
この日はサナンの成人の日だ。今日の昼までに、サナンを つがいに求める雄たちは自らが狩った獲物を手にして、サナンのもとへ大挙して押し寄せるだろう。サナン はニイシャから見ても美しくて強い、魅力的な雌だ。彼女を求める者は 相当数いると思われる。それこそ、ミュイチの時のように家の外が 人で溢れかえるかもしれない。
そして、そのなかにヒゼンも いるのだろう。―――いや、そもそも 二人が既に恋仲であったのなら、ヒゼンは 家に招き入れられ、サナンと共に彼女の成人を祝っているのだろうか…
ちりちりと痛む胸に手を宛て、重い 溜め息をつく。
サナンに幸せになって欲しい。その想いを裏切るように、二人が寄り添う姿を思うと 心が 酷く痛む。
このまま、二人を思い浮かべる度に 胸を痛めて生きることに なるのだろうか。
広い野原の乾いた地面に座り、ぼんやりと周囲を見回す。空を飛び回る小鳥の さえずりが聞こえる。鳥達は 春は恋の季節だと聞く。今も、ニイシャの上では二羽の鮮やかな色の鳥が 忙しなく飛び回り くちばしを擦り合わせてみたり、互いの尾を ついばんだりと 恋の季節を謳歌している。
と、そこへ一羽の 小さな鳥がやって来て、二羽のうちの片割れを 追いかけ回す。追われた鳥は 逃げ惑い、もう一方の鳥は突如として乱入してきた小さな鳥を 威嚇し、くちばしで強く突いて追い払おうとする。負けじと追い回す小さな鳥だったが、諦めたのか 、やがて二羽から離れて近くの枝で羽を休めた。
しかし、その目は 追い掛けた鳥に未練があるのか、元の通りに戯れる二羽を目で追っている。
「あの子、私に似てる…」
見目の良い美しい者に恋をした。けれど、相手には心に決めた者がいた。邪魔者は 追われ、一人になる。その様が、ニイシャの境遇と重なって見えた。
「…でも、あの子は 私とは違う」
あの小さな鳥は、叶わないながらも精一杯に 想いを伝えていた。小さな体を いっぱいに広げて、「自分を見て欲しい」と全力で好意を示していた。それは、空を見上げていただけのニイシャの心を くすぐった。
自分は彼に 想いを伝えていなかった。サナンに気付かれたくないという、その思いばかりが強くて、彼にはニイシャの好意が微塵も分からないように振る舞っていた。
素っ気なくさえあっただろう。相手を意識し過ぎるばかりに 不必要に かたくなな態度だった様に思う。
…もし 里を出る前に、サナンとヒゼンに 自らの恋心を伝えていたら、どうなっていたのだろう。
恐らく、ヒゼンは その場でニイシャの想いを即座に切り捨てる。それは間違いない。そしてサナンは、笑って「そうだったんだ」と言うだろう。そうして、昔から姉思いの優しい子だったから、姉とヒゼンを恋仲にしようと 力を尽くしただろう。だが、恋する相手に 別の相手を推されるヒゼンは 堪ったものではない。そして、ヒゼンはニイシャを憎んだかもしれない。芽生えたかもしれない恋の芽を摘んだ姉に良い感情を抱くはずがない。
ヒゼンに憎悪の目で睨み付けられる様を思い浮かべ、ニイシャは背中に冷たいものが走った。
ニイシャは 二人の邪魔をする つもりはない。ただ、自分の想いを伝えたいだけ。しかし、伝えてどうなるというのだろう。言わずに このまま胸に秘めるが善いのか。それとも 自らの思うままに全てを打ち明けるのが善いのか。
ぐらぐらと どちらとも付かず傾く思考に、ニイシャは 頭を悩ませる。
そして、何気なく見上げた空には、あの小さな鳥が飛び去って行く姿があった。
「行っちゃった…」
あの鳥は、幸せになれるのだろうか。ニイシャは あの小さな鳥の行く先が気になった。自らの影を投影して見てしまった あの鳥には、幸せになって欲しかった。
思わず、ニイシャは立ち上がって駆け出していた。鳥の飛ぶ方へ、その姿を追って野原を駆け抜け、山へ分け入る。
空を飛ぶ 小さな姿に夢中で、途中に何度も 何かに足をとられ、木の枝に引っ掛かった。しかし それでも ニイシャは足を止めずに走り続けた。
やがて、鳥は 大きな木の太い枝に留まると、身体に見あった小さな巣に羽を休めた。あれが、あの鳥の家らしい。
今日は もう、あの巣で休むのかもしれない。失恋の痛手を眠って癒すのだろうか。…そう思い、自分も家に帰ろう、と ニイシャは 周囲を見渡した。
全く見覚えの無い場所まで来ていたらしい。雪の深さや日の方角からして、北の方へ来ていた様だ。ニイシャの家よりも、こちらはまだ雪が深く、風が冷たい。意図せず、里の方角へと 足を向けていたらしい。
…里を思った途端に、ヒゼンに想いを告げるか 否かで迷っていた事を思い出す。
―――今の時点では、まだ答えを出せそうにない。もう少し、時間をかけて考えたい。
しかし、今は春だ。あと十日の間には、ヒゼンに会いに行くか 答えを出さなければならない。夏になれば、ヒゼンは成人して里を出る。そうなれば、何の接点もないニイシャは 余程の偶然でもなければ、この先 一生ヒゼンに出会う機会は訪れないだろう。会いたいのなら、ニイシャが動くしかない。
シャイルの家から里までは、寄り道をせずに走り続ければ、 二十日もすれば 辿り着くはず。間に合わなければ、途中に馬車を借りる手もある。
とっさに思い付いた未完成の“計画”であるが、悪い物とは思えない。早速、家に帰ってシャイルに相談してみよう、とニイシャは 踵を返した。
しかし、歩き出した その途端に、ニイシャを射抜く様な殺気を感じた。
ぞくり、と全身の肌が粟立つ。脳裏には、いつかニイシャを襲った大きな獅子が思い出される。
あの時は、ヒゼンが助けてくれた。けれど、今はニイシャ一人きり。近くに人の気配も感じられない。
ああ、今度こそ食べられてしまうのかもしれない。
冬の間、狩りもせずに 家に籠りきりで ろくに 鍛練もしなかったニイシャの脆弱な足では、あの時の様な大きな獣に 追われたとしても、逃げ切れるとは思えない。
後ろを振り返るのも 恐ろしくて、ニイシャは その場に膝をついた。いっそ、一思いに頭から食べられてしまえば…
固く両掌を組んで握り締めると、シャイルの顔が思い浮かんだ。
もう一人の兄の様に慕うシャイル。里を出てから一人さ迷うだけだったニイシャの人生は、彼に会えてから 劇的に明るくなった。この先、死ぬまで一人で寂しく生きるだけだと思っていた ニイシャの 人生に、希望を持たせてくれた。
このような最期を迎えることは悲しいが、死ぬ前にシャイルに会えて良かったと、心から思った。
ただ、一つ心残りがあるとすれば。
―――死ぬ前に、ヒゼンに一目でも会いたかった。
あの強く美しい雄に想いを馳せながら、ニイシャは 固く瞳を閉じた。