三
秋が終わりかけていた。採集に向かうニイシャの かごに入る森の恵みも、日に日に少なくなってきていた。
採集で得られる数が減ったので、ニイシャは里の問屋に卸すのはやめた。採集した全てを蓄えにまわし、家と森を往復する毎日を送っていた。採集の途中、たまに小さな獣を仕留めて家に持ち帰る。その度に父と母は あからさまに安堵する。
採集が得意なニイシャは、果物やキノコを食べ、小さな獣を狩ることで 里を出ても一人で生きていく事ができる、と やっと認められたのだ。
秋が終わり、冬を越せばニイシャは里を出なくてはならない。遅まきながら一人立ちの算段が整い、ニイシャは 心穏やかに過ごしていた。
この頃は 寂しいのか、サナンはニイシャの行く先々に着いてこようとする。その姿に 兄に ひっつく昔の自分を見ているようで、ニイシャは 恥ずかしく思いながらも、純粋に自分を慕う妹を嬉しく感じていた。
一つ、困ることがあるとすれば。サナンと一緒に採集に赴く度に、ヒゼンが 何処からか現れてニイシャに声を掛けるのだ。それも必ずサナンがニイシャの傍を離れた時を見計らったように、ニイシャが一人の時に。
そして、ヒゼンは こう言うのだ。
「妹君に」
と。ヒゼンは必ず手土産を持っていて。それは若い雌が好む菓子を手渡される時もあれば、見事な細工の髪飾りの時もあった。それは雄が雌の気を引くための行動に他ならなかった。渡す相手がニイシャでなければ。
ニイシャにしてみれば、何故ヒゼンがニイシャに贈り物を渡すのか分からなかった。ヒゼンが いつも言うように、妹に―――サナンに、自らの手で直に渡せば良いのでは。贈り物を受けとる度に そう口から出そうになるが、あと少しのところで その言葉は喉の奥に引っ込んでしまう。そうして、いつもニイシャは 曖昧に笑みを浮かべながら、受け取った品をサナンに渡していたのだった。
サナンは 何も言わずに、受け取った品を そのまま棚にしまいこむ。菓子は二人で分けて食べたが、他の装飾品の類いは手付かずのまま棚に眠っている。
その品を見ながら、ニイシャは 一人 しくしくと痛む胸の内を、聡い妹に気取られぬように隠し続けた。ヒゼンに声を掛けられて弾む心も、贈り物をサナンに手渡す苦しみも、決してサナンに悟られてはならないからだ。ニイシャが いくらヒゼンに恋い焦がれようと、ヒゼンが選んだのはサナンだ。可愛い妹とヒゼンの仲を、ニイシャは応援しようと心に決めていた。
秋が終わり、冬が訪れた。その年で初めて雪が降った日、ニイシャはサナンの部屋に呼ばれた。
春に里を出るニイシャにと、サナンは新しい服を あつらえてくれた。丈夫な生地で丁寧に縫われたその服は、サナンのニイシャへの思いが込められているせいか、高価な服よりも 一等輝いて見えた。服を抱き締めて喜びの涙を流しながら、ニイシャはサナンを きつく抱きしめ、近づく別れを惜しんだ。サナンも 宝石のように輝く瞳を涙で濡らし、ニイシャの背中を撫で続けた。
冬が更に深まり、里に雪化粧が施される。煌々と燃える火に薪を くべながら ニイシャは ぼんやりと 揺らめく赤を見つめた。
手元には、一通の文。今朝、門扉の下に挟み込まれていたものだ。文が濡れぬよう、丁寧になめした革が巻かれていた。差出人は 見ずとも分かる。ヒゼンだ。
贈り物を貰うばかりで、文も何も返さない妹に 飽きもせず、こうして 幾日か日を空けてはヒゼンから文や贈り物が届く。
今や里中の誰もが知っている。里一番の狩りの名手のヒゼンは、ミュイチの妹に執心していると。ここで兄の名も噂に加わっているところを見るに、主な噂の出所は ミュイチに相手にされなかった雌たちだろう。まだミュイチに未練があるのか、里で会えばニイシャは 未だにミュイチの妹、二番目の妹と呼ばれ続けた。
ミュイチがいた頃は、兄に まとわりつきニイシャを敵視する雌たちを見苦しいと感じていた。しかし、恋を知った今は、勝手ながらも彼女たちに親しみを感じている。ニイシャも、ヒゼンに一途に請われるサナンに嫉妬をしているのだ。サナンに悟られぬよう隠していても、ふとした きっかけ で恋心が じわりと滲み出てしまう。
そう、例えば ニイシャが 今 手にしている この文。この文を見つけてから、ニイシャは 何も手につかなくなった。文を ぼんやりと眺めるだけで、ニイシャは数分を過ごした。
この文には、サナンへの熱き思いが認められていることだろう。…何をしている。早くサナンに文を渡すのだ。そう思うのだけれど、父も母も、サナンの姿でさえ無い この部屋には、ニイシャ 一人きり。この手にする文を暖炉に 放ってしまえば、誰にも気づかれずに 消し炭と成って初めから無かったことにしてしまえる。
この手を伸ばせば、すぐに揺らめく火に届く。文など、一瞬で火が付き、すぐに消し炭になるだろう。ニイシャは 赤く燃える火を見つめ、わずかに文を火の元へ差し向けた。
その時、ぱちりと わずかに 上がった火の粉が文に降りかかる前に、さっと文を胸元に引き寄せた。
ニイシャには、文を燃やすことは 出来なかった。想い人の心が詰まった文を害するなど、到底出来なかったのだ。
ゆらゆらと揺らめき、赤く燃える火を見つめながら、ニイシャは己を恥じた。一時でも嫉妬に身を委ね、ヒゼンの恋心を踏みにじろうとした自分が許せなかった。強く噛み締めた唇が切れる。
「痛い…」
己の牙で肉が裂け、薄く血が滲む唇よりも。未だに諦めきれぬ恋心を灯し、癒えぬ傷を負い続ける心の方が、ニイシャを ひどく苛んだ。
ついに、雪が溶け 春が来た。桜の月の十の日がニイシャの成人の日だった。朝早くに目が覚めたニイシャが居間に行くと、父も母も既に起きていた。サナンはニイシャの用意した鞄の他に、小さな鞄に はち切れんばかりに 干し肉や木の実を ぎちぎちに詰め込んでいた。
そして、ニイシャに気付くと皆が笑顔で迎えてくれた。思えば、兄の時も そうであった。ニイシャも兄よりも早くに目が覚め、どうにも そわそわとして落ち着かなかったものだ。
ニイシャが、サナンが用意した服を着ているのに気付くと、サナンは照れたようにはにかみ、次いで寂しそうに目を細めた。ニイシャは優しくサナンの手を取ると、そのニイシャよりも少し大きな掌に五つの髪留めを握らせた。
「これ…」
「私が糸から紡いで、染めたの。一つ一つに、思いを込めて編んだから ちょっと激しく動いたくらいじゃ解れないと思う。素人だから、不恰好で色見も悪いけど…」
鮮やかに染まるはずだった糸は、薄く淡く色づき、華やかなサナンの容姿には見劣りしてしまうかもしれない。贈るかどうか迷う出来だったけれど、サナンの弾けるような笑顔を見て、贈ってよかった、とニイシャは胸を撫で下ろした。
皆が家から一歩も出ずに、ニイシャが動く度に 付いて回り、ニイシャは初めて腹を抱えて笑った。
そうしている間にも太陽が真上に上がり、沈んでいく。やがて すっかり辺りは暗くなり、ついに夜が訪れてしまった。
ニイシャは 家族に別れを告げる。また必ず会おうね。きっと。きっとだからね、と涙ながらに語るサナンに 柔らかな笑みを送り、ニイシャは里を出た。
ニイシャを見送る家族の視線を背中に感じたが、ニイシャは振り返らなかった。里で 口々に不美人と言われて中傷されてきた自分は、ほぼ間違いなく人狼族の つがいを得られないだろう。そうなれば、もう里に戻ることは叶わない。里を出るサナンには どこかで会えるかも しれない。しかし両親とは ここで別れることになるだろう。最後に 強く抱きしめてもらった。だからもう、これで別れになろうとも悔いはない。寂しさで胸が きりきりと締め付けられていても、不出来な自分が悪いのだ。ニイシャは そんな諦めに近い感情を抱いていた。
振り返ってしまえば、里心を忘れられなくなる気がした。振り返ってはならないのだ。自分は もう、一人で生きていかなくてはならない。
里と森との境界を越えた時、ニイシャは ふと 若く美しい雄を思い出していた。
いっそ、恋心も忘れられたらと思うのに。あの射抜くような眼差しが頭を離れない。しかしニイシャは、里を出て ヒゼンとも会うことはないと思うと、不思議と それを安堵する気持ちがあった。
もう、ヒゼンを想い辛く苦しい思いをしなくてすむ。サナンに自分の醜い感情ををひた隠しにしなくてもいい。
「…さよなら、みんな」
また、いつか会えたら。
ニイシャの囁きは、闇に溶けて消えた。
春の実りを集め、小さな獣を食べて生きるうちに、早くも季節は変わろうとしていた。
誰もが 里を出れば長くは生きられまいと ふんだニイシャだったが、無事に一人で季節を越した。
春の実りを集めて歩くニイシャは、知らずと 南に足が向き、気づけば里から 遠く離れた地まで来ていた。多くの人狼族は 住み処を決めると そこを拠点に狩りをして暮らすが、ニイシャは住み処をつくらず ひたすらに歩き続けた。体が小さい割りに丈夫な つくりのニイシャは、雨風が凌げる 木陰や あなぐらが あればよかった。
ひたすらに歩く道中、様々な獣人と 出くわした。猫や犬、鳥や獅子の獣人。ニイシャの二倍程の大きさの熊の獣人もいた。彼らは ニイシャを見るなり 優しい笑みを見せ、菓子や食べ物を分けてくれた。里に住んでいた頃から、体の小さなニイシャは、ニイシャの噂を知っていても 変わりなく接してくれる数少ない人たちに、幼子のような扱いを されてきた。どうやら、他の種族の目にもニイシャは 子どもに見えるらしい。彼らには 子どもが一人で親元を離れ、見知らぬ土地で さまよい歩いているように見えるのだろう。
たまに食べ物をくれた若い雄の獣人が 晩餐をご馳走しよう、と住み処へ誘ってくれた事があったが、獣人の ぎらぎらとした目に言い知れぬ不安を感じ、ニイシャは 笑みを浮かべて やんわりと誘いを断った。
何度か そんな事があり、ニイシャは 若い雄を避けるようになった。自分を誘う雄ばかりではないと分かってはいても、いざ誘われた時に断る面倒を思うと、あまり関わり合いになりたくなかった。
そうして、歩き続けているうちに美しい花が咲いては枯れ、葉は青々とした緑から鮮やかな赤や黄色、茶に色づき始めた。一人きりで 見る季節は、里にいた頃よりも 色褪せて つまらなく見えた。
ふらふらと歩き続けたニイシャだったが、冬が来る前には 住み処をつくろうと思っていた。丈夫なニイシャでも、冬は 住み処にこもらなければ 寒さで凍えて死んでしまう。
木の むろや あなぐらを探すが、既に先客がいるようで なかなか思うように見つからない。日に日に寒さが忍より、ニイシャは少し焦り始めた。
獣人が 多く集まり、活気のある町に行けば 「家」が見つかるかもしれない。しかし 家を借りるには所持金が乏しい。里で貯めた金は あるが、ひと冬いっぱい借りるに足りるか、微妙なところだ。
母が言うには、町に行けば住み込みの 仕事というのが あるらしい。狩りや機織り以外の仕事に縁が なかったニイシャは、町に どんな仕事が あるのか見当もつかない。
母は町に行けば、狩りをせずとも生きていけると言った。むしろ、そう望んでいる節があった。狩りが不得手なニイシャが寝食に困らずに暮らすには、町の方が安全だと考えたのだろう。
しかし、ニイシャは 町の華やかな雰囲気が 苦手だった。人狼族しかいない里で生まれ育ったニイシャは、他の種族の文化や風習に疎い。同じ人狼にさえ役立たずと 陰口を叩かれる自分など、他の種族に交じって 上手く暮らせるはずがないと思っていた。
だが、いのちの危機が迫ればそうも言っていられない。町に行くか、また あてもなく住み処を探し回るか。どちらが 安全に冬を越せるか頭を悩ませるニイシャが、腰まである茂みを掻き分けた時。
からん、からん
と 木を打ち鳴らす音が響いた。
初めての事態に、ニイシャは とっさに その場を離れようと駆け出す。すると、踏み出した足が 糸のような細い何かを引きちぎった感触がした。
次いで、頭上から何かがニイシャに覆い被さり、衝撃でうつぶせに地に伏したニイシャは 驚いて、己に覆い被さる 何かから逃れようと 懸命にもがく。
しかし、よく見てみれば手足に絡んだそれは 細かい目の網だった。
「な、なに…?」
地面に転がったまま、顔にかかった網を掴みながら、ニイシャは呆然と呟いた。
「かかった!」
こちらに駆けてくる靴音が聞こえて、そちらに目を向けると。
凝った装飾のついた鮮やかな色の服を着た 雌の猫の獣人が ニイシャに歩み寄って来ていた。
雪のように白い肌。短いが光を反射して輝く銀の髪に青い瞳。ぴんと張った髪と同じく銀色の三角の耳は 毛並みも良く艶がある。やや目尻の釣り上がった気の強そうな美しい女性は、網に捕らわれたニイシャに 気が付くと、
「あらら、美味しそうなのがかかった」
と、ぺろりと桜色の唇を舐めた。