三
気にくわない。隣同士の椅子に腰掛けながら、仲良く茶を飲む二人を見ていると 苛立ちが 込み上げる。二人は 長い すれ違いから解放され、やっと思いが通じ合ったようだ。
ニイシャの つ が い になった狼族の雄のヒゼンは、それはそれは美しく、凛々しくもあり品のある雄だった。シャイルの評価としては、見目だけなら シャイルに劣らない、美しい雄だ。しかし、ニイシャを見つめる慈愛に満ちた熱い眼差しと、シャイルに向ける 憎しみと嫉妬が こもった禍々しい眼差しの温度差を どうにかして欲しい。自分のいない間に 仲良くなった雄が憎らしいと思う心は理解できるが、それも すぐにニイシャを追いかけて捕まえなかった自身の落ち度だろう。
あからさまな嫉妬を目の前にしても、今のニイシャは 脳内がお花畑になってしまっているようで シャイルを殺しそうなヒゼンの視線には気づいていない。
ニイシャは何もない虚空を見つめては頬を染めて にやつき、はっ と正気に戻ってはシャイルを ちらりとうかがうという動作を繰り返している。自分の顔が だらしないことになっている自覚があるからであろう。
しかし、そのシャイルをうかがう ニイシャの姿が気に入らないヒゼンは、ニイシャがシャイルを見やると、すぐに自分を見て欲しいとばかりにニイシャの手を取ったり、髪を撫でたりする。
もう良いから、自分が居ないところで勝手にやってくれ。とシャイルはテーブルに頬杖をついて白けた顔で二人を見る。長々と続く 二人の 初々しい やり取りに すっかり飽きたシャイルが ぼんやりと窓の外を眺めていると、ニイシャが声をかけてきた。
「あのね…私、彼と つ、つがいになれて、本当に嬉しいの。でも、でもね」
台詞の わりに、ニイシャは緊張した面持ちでシャイルを真っ直ぐに見ながら言葉を紡ぐ。焦らずとも、ちゃんと話を聞いてあげるよ。そんな意図を込めて、シャイルは ニイシャを見つめ返す。ニイシャは 安心したように ふう、と息を吐くと、
「私、里には戻りたくないの」
と、シャイルを見つめたまま言い放った。
これに驚いたのはシャイルだった。ニイシャとヒゼンの思いが通じ合ったのなら、このまま二人で里に帰るのだとばかり思っていた。晴れて狼族同士で結ばれたのだから、ニイシャは何の負い目もなく 里に帰ることができるはず。それなのに、なぜ。
目を丸くしてニイシャを見るシャイルだったが、ニイシャの隣のヒゼンは何でもないことのようにニイシャの宣言を聞いても平然としている。いや、この雄の場合は ニイシャがそばにいるなら それが里で あっても そこら辺の あなぐらであっても何も問題ではないのかもしれない。
二人が つがいになったからには、また自分は ここに一人暮らすことになるのかと少し気落ちしていたシャイルは 内心喜んだ。シャイルとて、妹のように可愛がっているニイシャを里に帰すのは寂しく、そして悲しく思っていた。ニイシャが 帰らないと言うのは、シャイルには実に喜ばしい申し出だった。 しかし、気取り屋のシャイルは その喜びを悟られないよう あえて眉間に皺を寄せた。
「帰らないって…それはまた、どうして?」
僕にしてみれば、嬉しい話なんだけどね。とは 自身のプライドが邪魔をして言えなかった。本当に自分は素直ではない。
「私、里を出てみて気付いたのだけれど…私は、里よりも 外の方が好きみたい。なんだか…ここは、里よりも生きやすいの」
穏やかな笑みを浮かべるニイシャは、初めて会った時の様な頼りなさげで、常に下を向いていた頃とは見違えるように晴れやかな表情をしていた。
ちらりと隣のヒゼンを見れば、彼も優しげな目でニイシャを見ている。ヒゼンにしても、里の凝り固まった価値観の下に自身の つがいが貶されながら暮らすよりは、何処かで二人で仲睦まじく暮らしていたいのだろう。もっとも、この雄が つがいを貶されて黙っている姿が想像できないが。
つい、意地の悪い狼族の獣人が容赦なくヒゼンに蹴り飛ばされる妄想をしてしまった。
「うん、いいんじゃないかな。君らが そう決めたなら、僕は口を出さないよ」
シャイルの頭の中で三人目の狼族がヒゼンに蹴飛ばされる妄想をしながら、シャイルは ニイシャに 笑いかける。
ニイシャはシャイルの答えを聞くと、大きな目に安堵の色を宿した。二人が この先どうするのか、そんなことはシャイルの許可を得る必要などないのに。
まるで、このやり取りが本当の兄妹のようで、シャイルもニイシャにつられて笑みを深くする。嬉しそうに笑うニイシャの手を取ったヒゼンが、ニイシャの柔らかな髪に頬を擦り寄せる。途端に赤くなるニイシャと、それを見て幸せそうに目を細めるヒゼン。
いちゃつくなら他所でやれば良いのに。もげてしまえ。
再度苛立ちが込み上げてきたが、ニイシャも幸せそうに笑っているので、まあ、良しとしよう。ニイシャが幸せなら、シャイルは それでいいのだ。
例えどこに行こうと、この雄がついているなら 悪意のある者は ニイシャに近づいた途端に、たちまちヒゼンに駆除されてしまうだろう。
この雄は、間違いなくニイシャの最強の守り神だ。少し嫉妬心と執着心と独占欲が強すぎる気があるが、それが狼族の愛情表現なのかもしれない。そう思えば、今もニイシャに隠れて時折 シャイルを射殺さんばかりに睨み付けてくる この若い雄を、許してやろうかという気にもなる。
「ところでさ、里に帰らないとして、君ら どこに住むの?ニイシャだって、ヒゼンとか言う つがいが出来たんだから もうここには住めないでしょう?」
この先の町に良い物件があるか、探してみようか?と聞くと、ニイシャが じっとシャイルを見つめていることに気付く。シャイルは ぎくり、と体を強張らせた。この目には見覚えがある。ニイシャが 本当に困っていて、どうしようか迷っている時に このすがる様な目をするのだ。
「あの…このまま、ここに 一緒に住んでいては 駄目かな…?」
潤んだ目で自分を見るニイシャは、隣で シャイルに牙をむく守り神には気づいていないらしい。これでは、シャイルが 他の ならず者より先に いち早く駆除されてしまう。
どうしたものか、と シャイルは何杯目かも分からない、冷めきった茶に口をつけた。
ニイシャの涙ながらの懇願と、ヒゼンの嫉妬を一身に受けながら、小一時間 三人で話し合った結果、ニイシャとヒゼンの家をシャイルの家の隣に建てる。そして、二人の家が完成するまでの間 シシャイルの家のニイシャの部屋に、二人で住むという話に落ち着いた。当然の様にシャイルを毛嫌いするヒゼンは当初 難色を示したが、そこは愛するニイシャの泣き落としで脆くも陥落した。
土地はシャイルの物だから好きにして構わないし、建築にかかる費用はヒゼンが受け持つらしい。狩りで稼いだ金を相当溜め込んでいたようだ。ニイシャが 自分も出すと申し出たが、ヒゼンが頑として受け入れなかった。これは雄の財力を示すために必要なことだと力説していた。
恐らく、ニイシャに自身の格好いいところを見せたい一心からだと思われる。この雄、可愛いところもあるようだ。
家を建てるという話には驚いたが、それもシャイルの家の隣というのには、更に驚かされた。
これはシャイルの勝手な推測だが、恐らく ニイシャは シャイルを一人残して家を出たくなかったのだろう。それは あの日、シャイルが 一生、つがいをつくらずに一人で生きていくとニイシャに告げたからだと思われる。優しい この子は自分だけが幸せに生きるのが忍びないのだろう。そこがニイシャの良いところではあるが、同時に要らぬ気苦労を背負いこんでしまっていることに、本人は気づいていないらしい。ニイシャは優しすぎる。シャイルのことなど気にせずに、幸せになれば良いのに。
ニイシャの部屋を二人で住める様に整えて、シャイルも寝台に もぐり込む。しかし、一日のうちに 色んなことが有りすぎた為か、なかなか寝付けない。 ようやく うとうととしかけた頃には、朝日が窓辺を明るく照らしていた。時間など気にせずに このまま寝てしまえば良いのだが、シャイルは毎日決まった時間に起きなければ すっきりしない性分だった。仕方なく寝不足で重い目蓋を擦りながらキッチンへ行くと、ヒゼンが暖炉に火を起こしていた。そばにニイシャの姿はなく、一人きりらしい。
「あれ、君だけ?」
特に何にも考えずに発した言葉だったが、それを投げ掛けられたヒゼンの頬が若干 赤に染まるのを見て、シャイルは失言を悟った。自室が二人の部屋とは物置を挟んだ位置で あって良かった、と切実に思う。
午後になり、やっと寝台から出ることが出来た ニイシャを連れて、ヒゼンは早速 家を建てる人材を雇うために近くの町へ向かった。だるそうにするニイシャに、明日にしてはどうかと提案するも 私がお願いしたの。と笑うニイシャに何も言えず、シャイルは大人しく二人を見送った。