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冬が いよいよ本格化し、家に こもりきりになって数日経った日のこと。ニイシャが 静かに問う言葉に、シャイルは 尾の手入れをしていた手を止めた。
ここにいていいのかな、という声が やけに寂しそうに響く。ニイシャがシャイルの家に住んでから、初めて耳にする 気弱な声だった。
ここ数日も何事もなく生活していて、ニイシャが そのようなことを言う心当たりが、シャイルには全く無かった。ひとつ、思いあたるとすれば ニイシャが焦がれているという、里に残っている雄か。そう尋ねてみれば、全く違う言葉が返ってきた。
ニイシャは 己の家族を思い出したと言う。そしてシャイルを兄のように思っているというニイシャの目は、ここではない場所を見ているよう。恐らく、ニイシャは シャイルと自分の兄を重ねているのだろう。その予想は 先程の台詞に続いた ニイシャの言葉で直ぐに正解だったと分かった。
そして、ニイシャは 自分の兄と シャイルを重ねて見たことで、そこで初めてシャイルも つがいを探すのでは、という事態に気付いたのだろう。
気付くのが遅い。そう思うのは シャイルだけでは無いはず。この雌は本当に成人しているのだろうか、とシャイルは どこか呆れてしまう。
そんな心配は しても無駄だというのに。
シャイルは 一生一人で生きるつもりだ。ここに例外としてニイシャがいるが、シャイルはニイシャを雌だと思っていない。
いや、しかし そう言い切ってしまうと かなり語弊があるか。可愛らしい、妹のようにと言う意味であれば、ニイシャを雌だとは思っている。だが、ニイシャを 本当の意味で雌だとは見れない。それは、ニイシャが 雌として魅力が足りないという訳ではない。単純に、シャイルに問題があるのだ。
出会った時と変わらない、無垢な瞳で見つめてくるニイシャを前にしては、下手な誤魔化しは出来なかった。
自身の見目に惹かれて近づく雄や雌。あの雄の色を含んだ目が嫌だった。シャイルを組み敷き、雌のように扱いたいと言っている。
そして、シャイルを疎む雌の目。あれは 雄でありながら雄の目を惹くシャイルを忌々しく思い、嘲る目をしている。
あの様々な感情を含んだ目に見られると、シャイルはシャイルとしての自分を見失いそうになる。自分は 自分なのに、どう在るべきなのかが分からない。父の様に雄々しく在れたら。いっそ、母の様に生まれ落ちた その時から雌であったなら こんなにも苦しまなくて良かったのではないか。
雄でもない。雌でもない。ならば、自分は何なのだ。
暗闇に 思考が支配されそうになる。いつもそうだ。「己」が「何か」を考えた時、いつもシャイルは 己を探し求めて、最終的に 己が分からずに見失う。この答が見つかるまでは、つがいなど見つけられる訳がない。
また意識が暗闇に沈んでいく。この頃はニイシャが そばにいて シャイルを照らし続けてくれたから、この闇に落ちていく感覚は久しぶりだった。駄目だ、ニイシャがいるのに…と 闇に抗おうとするシャイルを現実に引き戻したのは、小さな手だった。
頭を撫でられている。その幼子を慰めるような手つきで優しく撫でる手が、ひどく あたたかく感じた。
はっと 延ばされた手の その先を見れば、柔らかな笑みを浮かべるニイシャと 視線が合った。
「あなたは、シャイルでしょう?」
ニイシャの言葉に、シャイルは どくり、と心臓が脈を打ったのを感じた。
「シャイルはシャイルだから…それでいいの」
その言葉を聞いた時、シャイルは 暗闇に飲み込まれかけて冷たくなった手足に、ゆっくりと暖かさが戻ってきたような気がした。
どうして この子は シャイルが欲しい言葉を 言い当ててしまうのだろう。自分が何か分からない。そんなシャイルを、「それでいい」と言ってくれる。そんな人は初めてだった。ニイシャは、シャイルをシャイルとして受け入れてくれているのだ。
なんとも言えない嬉しさや気恥ずかしさが一気に襲ってきて、シャイルは 照れ隠しに ごちゃごちゃと説教をした後、ニイシャに自身の尻尾の手入れを命じた。ニイシャに わざと背を向けて座ったのは、今のシャイルの顔を見せたくなかったからだ。「兄」が涙を浮かべて笑っている、そんな気持ちの悪い顔を可愛い「妹」に見せる訳にはいかなかった。
それから また何日かした後、ニイシャがシャイルに 相談がある、と緊張した面持ちで話しかけてきた。このように改まって、一体どんな話が始まるのかと身構えていると。
ニイシャは ぽつりぽつりと 自らの里の しきたりや 狼族としての在り方を語りだした。何故 このような話を?と疑問に思っていると、ニイシャは 急に うつ向いて、涙をこぼした。そして、消え入りそうな声で「私は おかしいのかもしれない」と呟いた。
詳しく話を聞いてみると、ニイシャは 未だに あの雄が忘れられずにいるという。だから、他の雄と つがいになる気はない。一生を一人で生きるつもりでいると。だが、それは 狼としての自分を否定することになる。理を ねじ曲げ、つがいを得ずに生きる愚かな者となる自分は、家族にとっても恥ずべき存在になってしまうだろう。それが怖い。悲しい。それでも、彼ではない他の雄を愛することなど、決して出来はしない。
涙ながらに嗚咽も交えて語るニイシャに、シャイルは どう声をかけてあげれば良いのか分からなかった。ただ、ニイシャに巣くう闇を晴らしてあげたい。そう思うばかりで、普段は よく回る口が、この肝心な時に傷付いた ニイシャを慰める上手い言葉が 一つも出てこないことに 失望していた。
だから、シャイルは 自分が そうしてもらったように、ニイシャの頭を 出来るだけ優しく撫でてあげた。ニイシャはニイシャだ、と 自分を救ってくれた言葉も添えて。
やがて泣き疲れた ニイシャが 寝息をたてる その時まで、シャイルは 頭を撫で続けていた。そうして、寝てしまったニイシャをベッドに寝かせ、寝具を掛けてやると、ニイシャが 柔らかく笑ったのだ。その笑顔は晴れやかで、シャイルは 自身の肩の力が抜けた気がした。ニイシャは、何か答えを見つけたのかもしれない。
雄のことにしても、家族や しきたり、その他にも どんなことでも、相談してくれたらいい。この兄は、口は悪いかもしれないが、本当の兄のようにニイシャを思っているのだから。
シャイルに 全てを ぶちまけたあの日から、ニイシャは どこか吹っ切れた様に前向きになっていった。
控えめな性格は生来のものなのか、そこは変わらないが、後ろ向きな考えは止めたようだ。以前よりも、「私なんか」という自分を卑下する言葉を使わなくなった。
笑顔が徐々に増えて、愛らしさが増しているようだった。その笑顔を見る度に、シャイルは 複雑な気持ちが沸き上がってきた。
ニイシャは自身が焦がれる雄を想いながら、つがいをつくらずに生きていくと言った。実際、そう決心したからこそ 迷いが消え、目に見えて明るくなったのだろう。
しかし、シャイルは それで良いのだろうか。と 何処か腑に落ちない思いを抱えていた。里での雄とニイシャのやりとりや話を聞いた時に、何かが引っ掛かった。どこかおかしい、と感じるのだけれど、その雄に想いを馳せながら 頬を染めて恋慕を語るニイシャに 問うのは出来なかった。
だから、ニイシャに一度里に戻ってみては?と提案するつもりであった。狼族の しきたりでは つがいを得てから里に帰るのだと言っていたが、里に足を踏み入れずとも、近くまで行って その雄を 取っ捕まえて話し合うべきだ。件の雄はこの夏に里を出る様だから、まだ間に合うだろう。もし一人が不安であるなら、シャイルも共に ついていこう。そう思っていた。
朝から ふらりと一人で出掛けたニイシャの帰りを待ち、シャイルは この“提案”を ニイシャに 話してみることにした。
しかし、昼を過ぎてもニイシャは帰ってこなかった。近くの野原に行くと言っていたのに、こんなに遅くなる筈がない。シャイルは 胸騒ぎがして、手早く外套を羽織り、家から飛び出した。
野原に着いたが、ニイシャの姿は無い。ここは 広く開けた場所で、身を隠す様な障害物もない。見渡す限りに 同じ景色で、人影は全くない。
「どこに…行ったの…」
ふと、山に出没するという大猿を思い出した。まさか、猿に追われて 何処かへ逃げたのだろうか?いや、まさか。あれは 平野までは降りてこない筈だ。 だが、それなら何故ニイシャは 姿が見えない?あの子は何処に行ってしまったのか。
不安と焦燥が募るなかで、あてもなく歩き出してみると、乾いた地面に うっすらと残る小さな足跡に気付く。
ニイシャの足跡だろうか。違うという可能性もあったが、もはや何にでも良いからすがりたいという心境であったシャイルは、足跡を追って駆け出した。
足跡は 山へ向かって続いている。嫌な予感がした。あの子は臆病な子だから、決して一人で 未開の山へ入ったりはしないと思っていた。しかし、ニイシャはシャイルと出会う前は、一人で旅をしていたのだ。何処へだって一人で行けるのだ。知らぬ間に、ニイシャを小さな子どもの様に思っていた自分に気付く。
後悔しても遅いと分かっていても、シャイルは自分を責めずにはいられなかった。
ニイシャの姿を求めて山に入り 草木を掻き分けていると、何処からか獣の叫びが聞こえた。まさか、いや、そんな、等と 呟きながら、シャイルは必死で その声のもとへ駆け出す。声が したであろう場所に近づく度に、徐々に強くなる血の臭いに胸がざわつく。無事でいてよ…と呟く声も 白い吐息に紛れて消えていった。
そして、小高い丘を駆け上がると、そこには大猿の死骸があった。夥しい量の血と その血生臭さに眉をひそめ、外套の裾で鼻を隠す。
どうやら血の臭いと叫び声は この猿のものらしい。この猿は何だ?ニイシャは?と辺りを見回すと、猿から離れた所に ニイシャがいた。だが、一人じゃない。誰かがニイシャを抱き締めている。不埒な若い雄に襲われたのか?!と一瞬 髪を逆立てたが、ちらりと見えたニイシャの顔を見て、シャイルは敵意を失った。
ニイシャは、シャイルが見たこともない様な 幸せに満ちた表情をしていた。ニイシャが あんな顔をする相手といえば、ニイシャが焦がれている 雄に違いないだろう。それなら、ニイシャを任せても大丈夫だろう。恐らく、あの猿とニイシャの涙から推察するに 大猿に食われかけたニイシャを あの雄が助けたということだろう。そして、二人は久しぶりの再開をし 更に何かしらの誤解も溶け、心が通じ合ったのだろう。
そんな二人を、シャイルが割って入って幸せな雰囲気を壊すのは 忍びない。今は そうっとしておいてやろう。
そう思い、シャイルは 偶然目に入った大きな木に素早く身を隠し、背中を預けて腰を下ろした。その際に、尻で木の枝を踏んづけて折ってしまった。しまった、と思えども、こんなに僅かな音なら気付かれまい。と 気にせずに 服に付いた木の葉や土埃を叩き、乱れた髪の手入れをしていると、突如として 背中を預けていた木に衝撃が走った。
「わっ」
咄嗟に 頭を庇ったものの、足下に ころりと転がった小石を目にすると 怒りが込み上げてきた。せっかく気を遣ってやったのに、この仕打ちはあんまりじゃないか?
怒りのままに木から顔を出し、
「信じられないっ…!」
と敵意を剥き出しにして シャイルを攻撃したであろう雄を睨み付け、
「危ないじゃないさ!いきなり攻撃仕掛けてくるなんて どういう神経してるの?」
と怒鳴り付けた。更に小石を拾おうとする雄を 困った顔をして必死に なだめるニイシャ。ニイシャに しがみつかれて顔を赤くして硬直する雄。その全てが気に入らなくて、シャイルは しばらく雄に文句を言い続けたのだった。