蒼いバラ
天国にはなにもない。
暖かくもなければ、寒くもない。
それがわたくしの第一印象。
ううん、そもそもここは天国なの?
真っ青な世界にひとり取り残されているのに、意外と冷静な自分に驚く。
あっ、とひと声出してみた。
遠くまで届いているような、すぐ手前で溶けるような不思議な奥行き感。
「………………?」
だ、誰?
気配に背筋が凍る思いがした。
すぐのような遥か彼方のような、妙な感覚。
目を凝らして、注意深く何度も見渡してみる。
いない。
いないのに気配はある。
「どなたかいらっしゃるのですか?」
………………。
うまく表現できないのだけれど、なにかがそこにある感じ。
うしろを向けばうしろに、左に向けば左に、右を向けば右に、常にまとわりついている、そんな表現がぴったりとはまる。
「もしもし?」
………………。
聴覚がなにかを捉えた。
………………。
喜怒哀楽、どれにも属さない色、カタチ。
「あ……ッ」
手の中でずっと温もりを保っていた石が一気に熱を上げ、集中していた意識を散らす。
まるで何かに反応するみたいに、喜んですら思える。
蒼い石は生命を宿しているみたいだった。
『我が名はネステティス。二千四百年の咎を背負いしうたかたのバルバロス。グリザリデに誘われし異郷の御子よ、我に何用じゃ』
突然の声にカラダが硬直する。
低いのに、すうっと沁みこむような、全身に、細胞の隅々まで行き渡る芯の通った声。
「わ、わたくしはシンジュ・クレアといいます。ネステティスさん、ここはどういう場所なのでしょう」
『巫女からなにも聞いておらぬのか。此の地はグリザリデ。アルケーに選ばれし者だけが誘われるメタコスミアー』
……メタ、コスミアー?
聞きなれない単語の意味を自分なりに解釈しようと努めていると、はっきりと認識できないにのにあると分かる不可解極まりない、目の前にある存在が笑った気がした。
ええ、それは笑ったの。
『聖なるものと崇められ、破壊すれば罰せられ、哲人たちの語らいの場にもなり、一方で狂気をもたらす薬と揶揄されたものがある。答えてみよ』
脈絡のない問いかけにうまくアタマがついていけない。
『聖なるものと崇められ、破壊すれば罰せられ、哲人たちの語らいの場にもなり、一方で狂気をもたらす薬と揶揄されたものがある。答えてみよ』
ネステティスさんはくり返した。声音も、そして内容もきっちり同じ。
「正解すると、何かがあるのですか」
『あるかもしれぬし、ないかもしれぬ』
「外れたら、何かが起こるのですか」
『ないかもしれぬし、あるかもしれぬ』
答え自体は容易いものだった。小学生にだって分かるはず。
ただ、尋常ではない経緯がわたくしを慎重にさせているのは間違いない。
『どうした、答えてみよ。うつくしき異郷の御子』
……この存在はお世辞までいえるらしい。そしてクイズの出題。
話の分かる人……人なのか分からないけれど、ともかく理不尽なものではないのかもしれない。
わたくしははっきりと宣言するように口を開いた。
「オリーブですわ」
蒼い石が燃え盛ったように手の中で暴れた気がした。きっとこの反応こそが答えの証。
「ご褒美はいただけるのですか」
『グリザリデにやって来たということはなにごとか強い想いを抱いたのであろう』
わたくしはここまで起こったことを順序立てて話した。
『友人ではないが友人になる予定の娘を助けたい、というのか。なんとも奇態な話じゃ』
妙なのは自覚している。
「それで、どうすればいいのですか」
ただ、わたくし自身、あの状況には未だ懐疑的ではあった。
あの小さな子はヒメヤマさんを救い出して、取り戻してと懇願していたけれど、あの暴力に取り憑かれたような狂戦士がそうだとは思えない。
『その方が見たという女戦士は救いたいという娘ではない。おそらくはディアロゴスの失敗、いや、別の理由か分からぬが、カラダを乗っ取られたのであろう』
失敗とか乗っ取られたとか不穏な単語が飛び交う。
「あ、あの、どうしたら」
また、目の前の、感知できるだけではっきりとはしない存在たるネステティスさんは笑ったような息づかいをみせた。
『その方は、救いたいという娘が好きなのだな』
「………………!」
『答えずともよい。ここでは本心を押し隠すことなど不可能。救いたいのならただ一つ』
ネステティスさんの姦計に満ちた作戦を顔から火が出る思いで聞き終えたあと、わたくしは気になってきたことを訊いてみた。
「さっきの答え、外れていたらどうなっていたのですか」
ネステティスさんの返答は明快だった。息づかいから、たぶん、くちびるを歪めていたと思う。
『分からぬ。外れた者などひとりもいなかったのでな』
ネステティスさんと、気のせいかもしれないけれど、心が通いあったと思えた次の瞬間、わたくしの意識は飛んだ。
*
そこは薄暗くて冷たい場所。
硬い床は石畳のようでなぜかは分からないけれど、わたくしは檻の中にいるみたいだ。
目の前にいるちいさな少女が淡々となにかを床面に書きつづけている。
よく見ると、左隣にも檻があった。
中にいるのは女性のようだ。
硬質な筆記の音が止まる。
その年ごろには似つかわしくない鋭利な瞳がこちらを捉えていた。
笑顔など見せたことはないのではないかと疑いたくなるくらいの無表情さは執務に忠実なお父様の会社の役員の方々を連想させる。
なにかがその口元からこぼれた瞬間、また、意識が飛散した。
Ψ
そこは、やはり真っ青な世界。
だけど、さっきまでいたところとはちがう。うまく説明できないけれど、ちがうの。
お兄様ならきっと信じてくれる。
あの世の別のステージにでも送られたのだろうか。
手を伸ばすと伸び切る前になにかにぶつかった。
うすくて簡単に壊れそう。
きっとこれが境界線。
壊せばなにかが変わる気がした。望んだものが還ってくる気がした。
ふっと息を吐くと、なにかを変えるために、望むものをこの手に取り戻すためにわたくしは両腕を、両掌を思いきり伸ばした。――自分を取り囲んだ壁を破壊するイメージで。
パァ―――――――ッン。
乾いた音が飛散すると同時に懐かしささえ感じさせる風が全身を包む。
青い空、白い雲。そしてアルテナイ山に広がる緑が眼下に広がっていた。
新しい世界と懐かしい世界が混ざり合う感覚。
そしてわたくしはなぜか、こんなことを叫んでいた。
自分でも分からないけれど、そんなことを叫んでいたの。
お兄様が聞いたら、なんて思うのかしら。
「我が名はアークア。沸き起こる泉より産まれし最も美しきアルケーを秘たる古人。我が名はアークア。ファレーナ・アークア」
すーっ、とカラダが落下していく。重力の理に従って、速くもなく、遅くもなく、快適な速度で落ちていく。
どうして浮いていたのか、どうしてあのような高さから落ちていくのに何の恐怖心も抱かなかったのか不思議に思う間もなく、わたくしは芝生を踏みしめていた。
カラダを包んでいるのはさっきまで着ていたはずの制服ではなかった。
ビスチェみたいな銀色の甲冑に蒼いミニスカート。足元は腿まであるサイハイソックス並みに長い白い編み上げのブーツ。
まるでフィクションに出てくる女性剣士みたいな格好。これにも疑問は抱かなかった。
わたくしが今、すべきことはただ一つ。ヒメヤマさんの救出。
踏みしめている芝生を蹴り上げて、あの石像に向かって飛びかかっていく。
カラダが軽い。どこまでも行けそう。
あの真っ青な世界にどれくらいいたのか、未だに女戦士は石像を殴りつけていた。他のことなど興味なさげに死んだような目で愚直に拳をふるいつづけている。
タックルみたいにその大きなカラダに抱きついて、石像から戦士を引き剥がした。
躊躇している暇はない。
ネステティスさんが口にした姦計を実行に移す。
女戦士のうすくてつめたそうなくちびるを封じるように、くちびるを重ねた。
……ああ、わたくしのはじめてがこんなカタチで遂行されるだなんて。
すごく強いチカラで跳ね返されたり、吹き飛ばされたり、予想された拒絶はなかった。
気味が悪いくらいにされるがままの女戦士から伝わってくる体温は今まで経験したことのない情感を駆りたてる。
「いろいろと飽きさせませんねえ、そちらのキャストは」
水着の人、いえ、カラスの声が聞こえた。感心しているように聞こえるけれど、置き物からもれ聞こえてくる声から真意は量りようもない。
「新たなる戦士はアークア。ならば」
横目で確認すると、水着の人は胸の谷間からアンプルみたいなモノを取り出して、それを思いきり、足元に叩きつけていた。
「シュンポシオン! いざ、宴のとき。エリスの総領よ、己が顔を取り戻さん!」
ちいさなガラスの割れる音とともに揺れる大地。さっき、石像が出てきたときと同じ。
そして出てきたのは、やはり石像。体型は似た感じだけれど、背丈はさっきのモノよりも低め、だけど二メートルはありそう。
倒れていたさっきの石像が起き上がった。つまりは敵が二体。いわゆるピンチ状態。
だけれど今はヒメヤマさん救出の方が先。
……かさっ。
カラダを支えていたモノが消えた。
芝生とセカンドキス。最低。
ヒメヤマさんは?
辺りを見渡したけれど、望みは実現してはいなかった。
どこなの、ヒメヤマさん。
くちびるの純潔を捧げた女戦士なぜ消えたのかということよりも、姿が見当たらないヒメヤマさんの方が最優先事項。
「ヒメヤマさん、ヒメヤマさァ――――――ん!」
「危なイ」
わき腹に衝撃が走った。
派手に吹き飛ばされたわりにまるで痛くはない。
「大丈夫ですカ?」
駆け寄ってきたのはあのちいさな子。蹴られる前に聞こえた声はこの子だろう。
「アークアとメタモルフォーシスできたんですネ」
ホッとしたような声とは対照的に表情は落ち込んでいる。
「ヒメヤマさんは? ヒメヤマさんはどこに行ったの?」
後方から地響きがすごい勢いで迫ってきた。
現状は思っていた以上にせっぱ詰まっているみたいだった。
ちいさな子を抱えると、思い切り後方へジャンプした。日常ではありえない超人的な跳躍は気持ちいいくらいにわたくしを人工山の裏手斜面まで運ぶ。
「それに触れながら、武器になりそうなモノを思い浮かべてくださイ」
なるほど、胸元に蒼いブローチがあった。蝶、いえ、これは蝶というよりも……。
頭上でなにかが開く気配を感じる。
果たして見なれた空ではない空間が口を開いていた。
「手を入れてくださイ」
空間でなにかが指に当たる。
つかんで出てきたのは弓。白くてハンドルに瀟洒な飾り、植物の蔓が巻きついたかのような彫刻が施された大きいけれど、すごく軽くてすてきな洋弓。
蒼い矢も二本、付いてきた。至れり尽くせり。
弓の経験は皆無。だけれど、やるしかない。
右手でハンドルをにぎり、左手に持った弓を弦に添える。矢の端にある溝に弦を引っ掛けるのかな。
弦をぐぐっと後方へ引くと蒼い矢の先端を標的に向ける。
きりきりと限界まで引き、左手を離すとひゅん、と気持ちのいい風切り音がした。
わたくしの想いを乗せた蒼い矢はそのまま石像を、
カツ……ンッ。
射抜かなかった。
「……どうして」
混乱するアタマで今度はもう一体の方へ二本目を放つ。
カツ……ンッ。
結果は同じ。
属性、と聞こえた。
「あれはおそらく水に弱い火の属性以外の石像でス。一体は以前と同じ土属性なので、残るは風と水のどちらかということになりまス」
ちいさい子の説明によると、四大元素に基づいているようで、水属性のわたくしに勝てるのは火なのだという。もっとも経験次第では相性の悪い相手でも勝てる見込みはあるそうだけれど。
大きいのと小さいの。石像はどんどんこちらに迫ってくる。
今のわたくしのチカラでは新たに矢を取り出しても意味がない。
絶望的な状況の中、ふとある考えが浮かんだ。
……そういえば。
脳裏に先ほどのネステティスさんの謎かけが甦る。
たしかあの法律を制定した人のエピソードに気になるものがあった。
そして地面からなにかが出てくるという神話。
イメージを具現化できるのなら、うまくいくかもしれない。
一種の賭けだけれど、やらないよりはずっといい。
「やらずに後悔するよりは、やって後悔した方がいいよ」
お兄様はそう仰っていた。
蒼いブローチに手を添えて、強く、強く願う。
出てきた二本の蒼い矢は気のせいか、先ほどのモノよりも逞しくみえた。
添えて、引く。
妙な確信があった。
倒すのではなく、効果与えるイメージで弓を限界いっぱいに引く。
まるでそれを裏づけるみたいに、弦から矢が離れた瞬間、真っ白いハンドルに次々と蒼いバラが咲き誇った。
本当にきれいだった。
歓喜のバラは歌うみたいにわたくしの心を鼓舞し、願いを込めた蒼い矢は目標を貫いた。
もしお兄様が見てくれたのなら、褒めてくれるのかしら。