ひとりじゃない
コルヴォちゃんはすっかり日常に溶けこんでいた。
買い物に行ったり、お料理をしたり、お風呂に入ったり。
誰かといっしょってほんとうに楽しい。
だんだんと馴れたのか言葉もカタコトじゃなく、ほとんどごく自然な発音になっていた。
コルヴォちゃんの情報源はあのおしゃれな万歩計。PPSというらしい。
コロネちゃん(仮称)もそんなことをいっていたっけ。
正式名称はスード・フィロ、フィロ、フィロソ……ナントカストーンというらしい。
「ようするニ、偽の哲学シャのイシという意味でス」
ここが日本のアルテナイ市だということ、箸がどうものなのかということ、あの書き置きの流暢な日本語もみんなPPSのおかげらしい。
PPSといっしょに持っていた黒いピルケースの中身はカプセル哲人のひとつだという。名前はディオゲネスさん。はじめて回したギアンダで出てきた頼もしい助っ人とのこと。
頼もしいかはともかく、一応は仲間ということで、足止めくらいにはなると思っていたけれど、正直あそこまで(無能)とは、とコルヴォちゃんの幼い顔は黄昏ていた。
ちなみにあの大きなつぼ――甕でスと訂正された――はディオゲネスさんの一応、住居らしい。そして食べていたのは干し無花果。主食なんだって。
ギアンダはいわゆるカプセルトイみたいなものでアレテーといわれるポイントを集めることで一度回せるらしい。ちなみに必要ポイントは100000。
アレテーはとても重要で、ギアンダを回す以外にメタコスミアーに干渉できるようになったり、新たなメタコスミアーに行けるようになったりするという。アーリアのイシがわたしに反応したのも、アレテーのおかげだとコルヴォちゃんはいった。
「アレテーは正義、勇気、節制、知恵などの徳を積むことで貯まりまス。他にはその人の生き方や社会的地位、今までの小さな行いにも左右されるのでス。アオイさんが念じた武器や着ていた衣装もアレテーのおかげなのでス」
武器。
そう、あの日。わたしの愛剣、アーリア・ソードは一瞬にして役目を果たすことなく逝ったのだった。
「かってに消滅してくれて助かったでス」
コルヴォちゃんはそう安堵するけれど、わたしとしては消化不良、まったくもって納得いかない。
折れたアーリア・ソードに唖然とするわたしに、当然のようにコロネちゃん(仮称)と石像は迫ってきた。
立ち向かうすべのないわたしはただ、逃げるほかはなく、なぜか端のない公園内をずっと走り回っていた。はたからみれば、追いかけっこ以外の何ものでもなかったはず。
いったいどれくらい走っていたのか、永遠に続くと思われた追いかけっこはなにかがはじける音とともに終了した。あの巨大な石像が消えたらしい。
「今日はこのぐらいで勘弁して差し上げましょう」
ありがちな言葉とともにコロネちゃん(仮称)はくるくると地面の中へもぐっていった。
コルヴォちゃんによればあの皮袋に入っていたきれいな石つまり、哲学シャのイシは太古から不思議なチカラを与えてくれる、人間にとって信仰の対象であるアルケーを秘めしものとして崇められてきたのだという。なかでももっとも強いチカラを持っていたのが皮袋に入っていたアクラガスの倅と呼ばれるもので、それを真似たのがコロネちゃん(仮称)が持っていたあのアンプルに入っていた液体なのだろうということだった。風の属性であるわたしに勝っていたあの石像は土属性。そう考えると他の属性もある可能性は高いみたい。
「でも、しょせんはニセモノでス。人工的にたくさん作れてもところどころで欠陥はでてくるのでス。それはソフィストの口にもいえまス」
ソフィストの口。
コロネちゃん(仮称)がもぐっていた空間のことらしい。あれもコルヴォちゃんが使っていたメタコスミアーの真似みたい。
コルヴォちゃんによればメタコスミアーはわたしたちの住む現世とコルヴォちゃんが住んでいた異世界の中間に位置する偽空間で、用途によっていろいろな偽空間が存在するらしい。
「一軒家もあればアオイさんの住んでいるマンション、ホテルやお店もありまス。それぞれカタチがチガウようにメタコスミアーにもいろいろな種類があるのでス。アオイさんがアドゥネイスさんとお会いしたのはグリザリデ空間と呼ばれるところで、イシに選ばれた人しか行けませン。そこはイシの持つ固有の概念や歴代戦士の方々の記憶が漂っている空間で咎人の方たちと対話したり、戦士として認められたあとはメタモルフォーシスのために飛ばされることになりまス。ふだんワタシがいるところはランプサコスの丘と呼ばれていまス。ワタシはそこを通ってこちらの世界にやってきましタ。いわば巫女専用のメタコスミアーといったところですネ。グリザリデ空間とランプサコスの丘は初代の巫女の方によって作られたといいまス。他にはアオイさんが武器を取り出した空間はパノプスの泉、イシに選ばれた者だけが行けようになる哲子の部屋という癒しの空間もありまス。このふたつは十三代目の巫女の方によって作られましタ」
「て、テツコの……部屋?」
「ハイ。哲人の子が出入りするから哲子の部屋でス」
……なるほど。テツコっていうからてっきり。わたしはアタマに浮かんだオニオンヘアーを追い出した。
コロネちゃん(仮称)との戦いで使った場所もメタコスミアーの一種。
実はあれは緊急措置でコルヴォちゃんがはじめて作った偽空間らしい。
本来、新たなメタコスミアーの構築には体力、精神力いる作業で時間もかかるもの。なのに心身ともに消耗している状態で作ってしまったために気を失ったのだという。
あのときの異常な衰弱ぶりはそういうことだったんだ。
「メタコスミアーにはアトムという粒子がただよっていまス。それらは結合や分節を常にくり返していテ、場合によっては他の場所へ物質を送り込んだりもしまス。送り込むといってもふつうは微力なものなのですが、互いに反発し合うあるイシのチカラを利用することでアトムの持つ運動量を爆発に底上げできるのでス」
コルヴォちゃんは宙を見つめながらつづけた。
「空気中にただようピリアンとネイコンというイシがそうでス」
「イシ?」
テーブルに並べられた四つの石を見ると、コルヴォちゃんはイシちがいでスと笑った。
「プーレーシス。つまり意思、思いや考えのことでス。でもそれらはある作用が働かないと現出しませン」
そこまでいうとコルヴォちゃんはきらきらと輝いているアーリアの石をつまんだ。
「あのとき、ワタシにはピリアンとネイコンが見えましタ。先代から聞いていただけで見るのははじめてでしたが、ワタシにはわかりましタ。きらきらと宙に舞うピリアンとネイコンを見て、ワタシは確認しましタ。アオイさんは選ばれたんだト」
「そのピリアンとネイコンは、石が反応すると見えるようになるの?」
つられてわたしも空中に目を凝らしたけれど、いつもの見なれたリビングだった。
「ピリアンとネイコンは正統の巫女、あるいはかなり質の高いアレテーを持つモノにしか見えませんヨ」
その意思が見える条件はただ一つ、哲学シャのイシが意思を持ったとき。つまり、コルヴォちゃんに引かれて逃げてるとき、まだ熱も光りも発してはいなかったけれど、すでにアーリアは反応していたということらしい。
コルヴォちゃんが口にした「アパテー」とはさっきいっていたアトムの働きを利用したディーノスという渦動現象を起こすことで、能力者が視認可能な光景を偽空間に再構築することだという。
「つまり特定エリアのコピーでス。範囲は能力者の技量に左右されますが、ワタシは公園が精いっぱいでしタ。なにしろ、空間構築以外に複数の人物、無機物、有機物まとめて送らなくてはいけませんでしたかラ。振り分け具合がとてもむつかしかったでス」
周りに見えた商店街は書き割りみたいなもので実際の行動範囲は公園内だけ。だから端のないどこまでも無限な公園を延々と走り回っていたのか。
「あの人たちはなにをするのかわからなかったのデ、ああするしかなかったでス。アオイさんの住む街は壊させたくなかったですかラ」
そこまで考えてくれていたコルヴォちゃんに胸が締めつけられる思いがした。
そして、あの人たち。
コロネちゃん(仮称)。
てっきり同じグラウクスちゃん(仮称)のファンだと思ったのに。
「あのコロネちゃん(仮称)って何者なの?」
「ヘピオロスというひみつ結社の監督者という意味を持つパイダゴーゴスでス。ヘピオロスは推測の域を出ませんが、おそらくはむかし存在したという政治結社・ヘタイリアの残党の末裔で構成された組織ではないかと元老院の方々はおっしゃっていましタ。目的は哲学シャのイシの奪取。そのためにイシやメタコスミアーのように巫女もニセモノを用意する気なのかもしれませン。その育成を担っているのが彼女なのだと思います。ポリテイア、ワタシのいた土地ですが、そこにいるとき、突然、やって来たのでス。彼らは現女王さまや元老院の方々に対して哲学シャのイシを渡せ、さもなくばポリテイアの玉座は奪われるであろう、と揺さぶりをかけてきましタ」
哲学シャのイシはポリテイアに伝わるアルケー。よこせといわれて簡単に渡せるものじゃない。取り引きを拒否しつづけた結果、ポリテイアはヘピオロスを名乗るものたちが侵攻してきて、玉座、つまり現女王は捕らえられてしまったという。
「女王さまは捕らえられる寸前、ワタシに哲学シャのイシと御自身がお持ちのアレテーをワタシに分け与えてくださいましタ。本来アレテーは譲渡できるようなものではないのですが、ワタシはまだ巫女として未熟なので、それを使ってギアンダを回したり、PPSと交換できるようにと女王さまは気を使って下さったのだと思いまス。ランプサコスの丘でこちらの世界とコンタクトができるPPSとギアンダでディオゲネスさんを手に入れたあとは、どこをどうさまよったのか覚えてませン。とにかく、哲学シャのイシに反応する人、咎人の方と対話できる方を探すことがワタシの使命でしタ」
そしてあの日、チカラ尽きて陸橋の下に……。
あれ?
「学シャのイシに反応する人とかトガビトの方と対話できる人っていっていたけど、コルヴォちゃんの住む国にはそういう人、いないの?」
そこまでいうと、コルヴォちゃんはうつむいてしまった。
「グリザリデでハ、アドゥネイスさんとどんな話をしましたカ?」
たしか、バルバロイとかなんとか。いい間違えたおかげでアドゥネイスさんと話が弾んだ(?)んだった。
「バルバロイはポリテイアからすれば他民族に対する呼び名で、純然たるポリテイアの末裔という意味のホーリーネアスを自称する自分たちと一線を画していましタ。選民意識の最たるものでス。他の土地の者という理由だけで彼らを差別し、奴隷として売買したりやってもいない犯罪の首謀者としてつるし上げたりと相当ひどい扱いを受けてきたといいまス。ときには無実の罪で処刑されたりもしたり……。バルバロイと呼ばれ、あげくに冤罪の汚名まで着せられ咎人となった皆さんの心中は察して余りありまス。そういう歴史があるので、はるか昔から戦士になる者はとても限られていましタ。なにしろ、勇猛果敢と持てはやされる一方で、バルバロイの、咎人の手を借りた穢れた存在、マルギテスというレッテルもついて回るのですかラ」
「咎人の人のチカラを借りないと、哲学シャのイシは使えないの?」
「使えなくはないでス。というより以前はイシだけでメタモルフォーシスしていたんです。ただ、媒体である咎人の方たちのチカラを借りないと、哲学シャのイシに秘められた能力にカラダがついてこないのでス。生身の人間がイシを使うには肉体的、精神的負担が大きすぎまス。最悪、命を落としたりした人もいたそうでス。むかしからポリテイアは他民族や他の国家からの侵略が絶えないところでしタ。だからこそ哲学シャのイシとイシに選ばれる戦士の存在は絶対不可欠なのでス。そこで巫女や賢人、当時のポリテイアでは最高職であり絶対的権限を持っていたアルコンの方々を中心に話しあった結果、咎人の方たちのチカラを借りようということになったのでス。彼らの抱く情念の大きさならイシの負担に堪えられるだろう、ト」
徹底的に蔑み、差別していた他民族のチカラを借りざるを得ない苦悩。うつむいたままのコルヴォちゃんの小さなカラダはふるえていた。まるで先代たちによって下された身勝手な決断を自分に責任があるみたいに。
「そして現在のポリテイアには男性、それも年若い人がほとんどいないのでス。ただでさえ咎人の方々に対して複雑な思いがあるのに、肝心の戦士たる民が育っていないのでス。常々、いにしえよりつづく悪しき慣習に憂慮されていた現女王さまはそのような意識を変えるべく尽力されていましタ。けれど、一方ではポリテイアにとって哲学シャのイシは宝の持ち腐れだと不要論まで出ていましタ。そこにヘピオロスが現れて、これ幸いとばかりに、災いの元である哲学シャのイシなど放棄すべきだと進言する人たちまで現れる始末でしタ。現女王さまはおっしゃいましタ。必ずどこかにわたしたちのチカラになってくれる人がいる、決してあきらめないで、ポリテイアのために戦ってくれるく人を探しなさい、そしてあなたがその人たちのチカラになって差し上げなさい、ト」
突然、コルヴォちゃんは椅子から飛び跳ねるように降りて、土下座をした。
「哲学シャのイシや咎人の方のことを含めて、アオイさんにはなんの関係もないワタシたちの故郷のことで迷惑をかけたことはお詫びのしようもありませン。その上であらためてお願いしまス。ポリテイアのためにチカラになってくださイ。ゴメンナサイ、助けてくださイ」
土下座もPPSの情報なのかな。小さい身体で土下座をしている異世界の巫女さんの手を取ると、予想通り、涙にぬれていた小さくてお人形みたいな顔をじっと見つめた。
ここのところはずっと青かった瞳が赤くなっている。体調不良や不安になると、変わるのだろうか。
それならわたしの取るべき行動はただ一つ。
「コルヴォちゃん。あたしはもう、コルヴォちゃんのために頑張るって決めたんだよ。だからもう泣かないで。ね?」
コルヴォちゃんはなんどもハイ、ハイと泣き笑いの顔で頷いていた。