ポリテイアの娘
今日もひとりだった。
お昼は大好きなグラウクスちゃんのお弁当箱に冷めてもおいしいから揚げ、アスパラガスのベーコン巻き、春雨の中華風サラダ、ハッシュドポテトをつめた。
おいしかったけど、ひとりじゃなかったらもっとおいしいのかな。
午後は雨。
お母さんに買ってもらったのピンクの傘を広げて歩き出すと、雨雲みたいに灰色で重い、ゆううつな気分も晴れた気がした。
いつものカペロス商店街を抜けて児童公園を右に曲がる。
陸橋の下を潜ってしばらく歩けば、お婆ちゃんが管理人をしている5階建てのマンションが見えてくる。
いつもの見慣れた帰り道。
でも、今日はちょっとちがっていた。
なにかが陸橋の下に落ちている。
それは人、それも小さな女の子だった。
外国の女の子なのか、けいれんしているまぶたからのぞく瞳の色は赤く、お人形みたいな顔だちのその子は全身びしょ濡れだった。
気がつくとわたしはその子を抱きかかえていた。
……ちょっと重い。
五歳くらいにみえるけれど、そうみえるだけでほんとうはもっと年上かもしれない。
「ただいま」
南に面した最上階の角部屋がわたしの住む家。
返事はない。いつもどおり。
バスルームで女の子の髪を拭くと、ビスクドールの衣装みたいな黒いドレスを脱がした。
私が幼稚園のころに着ていた洋服はぴったりだった。
ふだんは入ることすらない和室に布団をしいて、その子を寝かせる。
女の子のドレスには洗濯表示のタグが見当たらず、しょうがないので色柄物用の洗剤で手洗いした。
ポケットの中に入っていたまん丸い万歩計みたいなちょっとおしゃれな機械と黒いピルケースみたいな小箱、そして小さな皮袋は女の子の枕元に置いた。
次は夕飯の準備。
今日はふたり分。なんだかうれしい。
なにを作ろうかまよったけれど、外国の子みたいなので、無難にスパゲッティにした。
でき上がったペペロンチーノをふたつ、リビングのテーブルに置くと、気配を感じた。
わたしがむかし着ていたカットソーとスパッツ姿の女の子はじっときれいな瞳をこちらに向けていた。
……あれ、瞳の色が青くなっている。こんなに小さいのにカラーコンタクトでもしてるのかな。さすが外国の子だけあって器用みたいだ。
なにかいいたげな口元から、ひょっとしてポケットに入っていたモノのことを訊きたいのかもしれない。
うしろの和室、枕元を指差すと、女の子はわっと機械をつかんだ。
電源を入れたのか画面を食い入るように見つめ、指で操作をはじめる。
電子音のような、でもやっぱりちがうような、低く不思議な音だけが漂う室内はちょっぴり息苦しかった。
操作を終えたのか、こわばった表情のまま少女がこちらを向く。
「ココハ、ニホン、デスカ」
やっぱり異国の子だった。
「ハイ、ソウデスヨ」
つられてこっちもカタコトになってしまう。
ふたたび画面とにらめっこ。
「ココハ、アルテナイタウン、デスカ」
頷く。
アルテナイ市。それがわたしの住む町。
少女は少し考えるみたいにわたしをみつめ、また画面へ戻る。ペペロンチーノが冷めちゃうからはやく食べたほうがいいんだけど。
「ワタシハ、コルヴォ、トイイマス」
ここでようやく自己紹介。
「ワタシハ、ヒメヤマ・アオイ、トイイマス」
コルヴォちゃんはアオイサン、アオイサンと何度も小声でくり返していた。
「食事にしませんか」
思わずふつうにしゃべってしまったけれど、コルヴォちゃんは理解したのか、ハイと小さく頷いた。
シンプルだからごまかしのきかないペペロンチーノを作るときは、いつもベーコンに助けてもらっている。お母さんに茹で汁を入れるとよく馴染んでおいしくなると教えられてからは失敗も少なくなった。
着席したコルヴォちゃんはスパゲッティと箸に何度も視線を送り、また万歩計みたいな機械とにらめっこをはじめる。
わたしは子供ころからスパゲッティは箸で食べていたけど、さすがに異国の子にはフォークかなとキッチンに行きかけたとき、「イタダキマス」と声がした。
コルヴォちゃんは手を合わせ、どこで覚えたのか、器用な箸の持ち方でペペロンチーノを口に運ぶ。
オイシイデス。
その笑顔にすごくあたたかい気持ちになる。
コルヴォちゃんに見とれて、食べるのを忘れてしまう。
ひさしぶりのひとりじゃない食事はとてもたのしく、おいしかった。
お風呂上り。
わたしがむかし着ていたパジャマ姿のコルヴォちゃんは、なにかをいいたげにじっとこちらを見ていた。すごくせっぱ詰まった感じ。
お風呂に入っているときからそうだった。
髪を洗っているときも、背中をごしごししているときも、湯船の中でもずっと。
何度も、アノ、と口にしては言葉を飲み込んで、その度に小さな小さな顔をのぞき込む。
けっきょく、それ以上の言葉はカタチにはならなかった。
そろそろ寝ようかというとき。
コルヴォちゃんはふいに顔を上げると、
「オトウサントオカアサンハドコデスカ」
と訊いてきた。
「お父さんはいないの。お母さんは仕事で今は遠いところ」
サイドボードの上にある写真を見つめながら、まるでひとごとみたくいう。
お母さんといっしょに撮った入学式のときの写真。今のところ、いちばん最後に会った日。次はいつ、帰って来るんだろう。
コルヴォちゃんは写真を食い入るみたいに見ていた。
「でもね、お婆ちゃんもいるし、マンションの人たちもやさしいからさみしくないよ」
振り返ったコルヴォちゃんはこっちが気の毒になるくらいかなしげな目をしていた。
「もう、おやすみしよう?」
そう声をかけたけれど、しばらくコルヴォちゃんは写真の前から動かなかった。
*
朝。
学校へ行く道すがら、コルヴォちゃんのことがアタマから離れなかった。
起きたら、テーブルの上に便せんがあった。
おはようございます。
ありがとうございました。
おいしかったです。
ごめんなさい。
いってらっしゃい。
さようなら。
きっと必死に考えたのだ。
きれいに並んだその言葉一つひとつを見ているうちに追いかけたい衝動に駆られた。
だけど、学校は休めない。お母さんやお婆ちゃんに心配はかけたくない。
そしてわたしはいつものようにこうして登校している。
おはようございます。
ありがとうございました。
おいしかったです。
ごめんなさい。
いってらっしゃい。
さようなら。
必死にしたためていたそのうしろ姿を思う。
わたしの料理をおいしいといってくれた笑顔を思う。
部屋着とパジャマは洗ってくれたのかきちんと干してあった。
涙がでた。
気がつくとわたしは商店街の方へ戻っていた。
はじめて学校を無断で休むという罪悪感は息が切れ、太ももが悲鳴を上げるころには消えてしまっていた。
ぎゅっ。
手の中の皮袋をにぎりしめる。
あわてて出ていったときに落としたのかな、玄関に転がっていた。
児童公園が見えてきた。
根拠もなく、こういうところにいそうな気がしたけれど……いなかった。
「もしもし、そこのお嬢さん」
不思議な声がした。
男の人でも女の人でもなく、子供でも大人でもない声。
そこにいたのは水着姿の人。
黒い……あれはビキニだ。サイドが紐の、ちょっとエッチな感じ。
足元は三階に住んでいるOLのエビスさんも履いていたグラディエーターっていうかっこいいサンダル。
四月とはいえ、朝晩はまだ冷える季節に寒くないのかな。
すごくすごく髪の毛が長いその人は、わたしよりお姉さんにみえた。
だけど、大人の女性と呼ぶにはまだ早い感じ。
それはアタマにちょこんと乗っかっている、小さな王冠みたいな、キラキラ輝くアクセサリーのせいもきっとあると思う。
それと手にしたカラスの置き物。
でも、その格好は懐かしさや親しみすら覚えるものだった。
あれはわたしが大好きなグラウクスちゃんが出てくるアニメ。
主人公たちからすれば敵の秘密結社に登場するケアテイカーというまとめ役の声がするフクロウの置き物を持ったビキニの女性がグラウクスちゃん(仮称)。
けっきょくグラウクスちゃん(仮称)の正体は声の主を含めて最後まで分からずじまいだったけれど、そういう謎の多いところにわたしはすごく夢中になった。
手にカラスの置き物を持った水着の人が失礼、といった。
……ううん、いったのはカラス。
「驚かせてしまったようだね。申し訳ない。我が輩はコロネちゃん(仮称)。ヘピオロスのパイダゴーゴスをしている者だ。コロネちゃん(仮称)は文字通り、仮称でね。《コロネちゃんカッコ仮称》ときっちり呼んでくれたまえ。《カッコ閉じる》はいらないよ。これはささやかなサービスとでも思ってくれていい。ああ、仮称というだけあって未だ正式名称は決まっていないのだよ。なんならばお嬢さんが名づけ親になってくれてもいいだが」
早口の上に、聞きなれない単語が飛び交っていたので、ちょっと混乱。
ただでさえ、公園にビニキの人がいるっていうだけですごいのに。
でも、ちょっとうれしい。
鳥の置き物といい、(仮称)使いといい、長い髪の毛に王冠を乗せたビキニの女性といい、フクロウとカラス、白ビキニと黒ビキニの違いこそあれ、コロネちゃん(仮称)さんはグラウクスちゃん(仮称)そのものだ。
ひょっとしてコロネちゃん(仮称)さんもファンだったのかな。
つまり、コスプレとか。
グラウクスちゃん(仮称)の置き物から聞こえる声がケアテイカーだったようにコロネちゃん(仮称)の置き物から聞こえる声にそういう設定がちゃんとあるのかな。へぴおろすとかぱいだごーごすとかいっていたけれど、それかな。
「ところで」
いろいろと考え込んでいると、コロネちゃん(仮称)さんの持つカラスさんからふたたび声が聞こえてきた。
「この辺で小さな娘を見かけませんでしたかな。テリダイ製のたいへん仕立てのいい黒いドレスを着た娘さんでね。PPSという奇妙なものや……」
カラスさんの声がふいに途絶えた。
「おや」
すごくうれしそうな声だった。そう、まるで探していたものを発見したときみたいな、そんな声。
「お嬢さん、その皮袋はなにかな」
「これ、ですか?」
手にしていた皮袋をよく見えるようにかざしてみせる。
「これはコルヴォちゃんっていう子が持っていたものです」
そう、コルヴォちゃん。あの子を捜さなきゃ。
「あの、その子、黒いドレスを着ているんですけど、見かけ、」
といいかけて、さっきカラスさんがいっていたことを思い出す。
「どうやら」
コロネちゃん(仮称)さんが一歩前に歩み出る。
「我々は同じ人物を捜していたようですな、お嬢さん」
さらに一歩、コロネちゃん(仮称)がこちらに歩み寄ってきた。
「ダメデス、アオイサン! ハナレテ!」
突然のおさない声はコルヴォちゃんだった。
再会できたよろこびもつかの間、わたしはコルヴォちゃんの小さな手に引かれていた。
「逃げることはないでしょう」
笑いをこらえるみたいな、すごくおかしそうな声に振り返ると、もうコロネちゃん(仮称)はいなかった。
………あれ?
不思議に思う間もなく、公園を出ようかというとき、スチールの車止めの手前から光りの輪が現れた。
輪に沿って丸い光りが吹き上がると、輪の内部からなにかが出てきた。
それは小さな王冠だった。
どういうトリックなのか、コロネちゃん(仮称)はくるくると回りながら姿を現すと、コルヴォちゃんに微笑みかけた。
「やっと出会えましたな、ポリテイアの新人ピュティアさん」