「あなたには聞こえないでしょう、この牧笛の音が」~婚約破棄された田舎令嬢は、精霊が集う辺境牧場でスローライフを始めますわ~
「セラフィーナ、貴様との婚約を破棄する。田舎の羊飼い令嬢など、王家に相応しくない!」
王都の夜会。シャンデリアの光の下、第二王子ランドルフの声が広間に響き渡った。
数百の視線が、私に突き刺さる。
(はいはい、出ました。金曜の夜に投げつけられる無茶振りみたいな婚約破棄ですわね)
心の中でため息をつく。表情は微塵も動かさない。
ランドルフの隣には、栗毛の美しい娘――聖女候補ミレーユが、儚げに目を伏せて立っていた。
「セラフィーナ様は、いつも『遠くの牧笛が聞こえる』などと……幻聴で錯乱しておられるのです。それに、聖女の資格を騙るなど、あまりに罪深いことですわ」
さめざめと涙を拭う仕草。
(うわぁ、上手ですわね。前世の同期にもいましたわ、こういう泣き落としで責任転嫁する子)
会場がざわめく。「やはり妄想令嬢か」「田舎者が身の程知らずに」――嘲りの囁きが、さざ波のように広がる。
でも。
この中の誰一人、知らないのだ。
その『牧笛の音』が、本当に聞こえていることを。
そしてそれが――この国の運命を握っていることを。
私は静かにドレスの裾を摘まみ、深く、優雅に一礼した。
「かしこまりました。では、失礼いたしますわ」
それだけ。
喚くこともなく、涙を流すこともなく。
(前世で理不尽なパワハラに耐え抜いた社畜の私が、たかが王子の癇癪で動揺すると思って?)
くるりと背を向け、真っ直ぐに歩き出す。
断罪の言葉を投げつけた側のはずなのに、静まり返った会場が、逆にざわつき始めた。
「な、なぜ何も言い返さない……?」
ランドルフの戸惑った声が、背中に届く。
(言い返す? 退職が決まった会社に、わざわざ改善案を出す社員がどこにいます?)
扉が閉まる音。
私の、王都での最後の夜が終わった。
◆◇◆
馬車の中、専属侍女のエマが握りしめた拳を震わせていた。
「お嬢様……! あんな、あんな言いがかり……! 悔しくないのですか!?」
そばかすの残る頬に、涙が伝う。
「エマ」
私は窓の外、遠ざかる王都の灯りを見つめた。
「悔しい、というより……ようやく解放された気分ですわ」
「解放……?」
「ええ。王家のために、聞こえもしない者たちのために、我慢してきた日々が終わったの。退職届が受理されたようなものですわ」
エマがきょとんとする。
(そう、これは追放じゃない。円満退社ですわ。むしろ向こうから引き止めもせず送り出してくれたのですから、感謝すべきかしら?)
実家、ヴェーゼル辺境伯領。
出迎えた父グスタフは、婚約破棄の報にすでに激昂していた。
「あの若造ぁ……! 我が娘を、よくも公衆の面前で……!」
白髪交じりの髭を震わせ、屈強な拳で壁を叩く。
「お父様」
私は父の前に立った。
「私、決めましたの。もう王都のために我慢するのはやめますわ。私は――私の聞こえる音に従って生きます」
父が、はっと動きを止めた。
「セラフィーナ……お前、あの牧笛が……」
「ええ。今も聞こえておりますわ。ずっと、私を呼んでいる」
幼い頃から、周囲に『妄想』と嘲笑され続けた音。
でも父だけは――本当は、ずっと信じたがっていた。それを私は知っている。
「あの廃牧場を、私にくださいませ。北の森の外れの」
「あんな荒れ地を……何に使う」
「牧場経営ですわ」
私は微笑んだ。
(前世の畜産知識、経営スキル、書類仕事で鍛えた品質管理。ようやく使いどころが来ましたわね)
「田舎娘と蔑まれたこの地で、証明してみせます。私の聞こえる音が、本物だということを」
父は長い沈黙のあと、深く頷いた。
「……好きにしろ。ヴェーゼルの娘だ。誇りを持ってやれ」
エマが涙を拭い、力強く言った。
「お供します、お嬢様! 私、お嬢様の聞こえる音は本物だって、ずっと信じておりましたから!」
ありがとう、と胸が温かくなる。
そして翌朝。
私は牧笛の音を辿って、北の森へと足を踏み入れた。
その音が、これまでになく――近い。
◆◇◆
森の奥。木漏れ日の差す泉のほとり。
牧笛の音が、すぐ目の前で鳴っていた。
「お前は……」
低く、重々しい声。
泉の傍らに、彼はいた。
漆黒の巻き毛に、金色に輝く縦長の瞳。日に焼けた肌。そして――山羊の湾曲した角と、しなやかな山羊の脚。
半神半獣の美青年が、千年を生きた大精霊の風格をまとって、私を見据えていた。
「お前は……儂の音が聞こえるのだな。ずっと、ずっと待っていた」
(うわ、本物の精霊……牧神パーンの末裔。やっぱり幻聴じゃなかったんですのね)
「はじめまして。セラフィーナ・ヴェーゼルと申しますわ。あなたの笛の音、幼い頃からずっと聞こえておりました」
その瞬間。
威厳ある大精霊の瞳が、みるみる潤んだ。
「……ほ、本当か。聞こえて、おったのか」
「え、ええ」
「千年だ……! 千年もの間、誰も、誰一人、儂の笛を聞いてくれる者はおらなんだ……! ずっと、ずっと独りで……!」
ぼろぼろと涙をこぼし始める大精霊。
(え、ちょっと、さっきまでの威厳はどこへ!?)
「お前は聞こえるのだな! なあ、行かぬよな!? もう独りは嫌なのだ!」
山羊の脚をぱたぱたさせ、縋りつかんばかりの勢いで距離を詰めてくる。
(規格外の大精霊のはずが……とんでもない寂しがり屋ですわね、この方)
「落ち着いてくださいませ、パーン様。行きませんから」
「まことか! 約束だぞ!」
角の付け根まで赤くして、ぐいぐい迫ってくる神様。
私は思わず苦笑した。
「ところでパーン様。あなたと契約を結べば、この地は栄えると聞いたことがございますわ。豊穣の祝福と、魔物避けの結界を操れると」
「うむ! 儂にかかれば、この一帯を楽園に変えることなど造作もないぞ! ……で、では、契約するか? 儂と、ずっと一緒に……?」
上目遣いで問うてくる大精霊。
(この力を持て余して千年孤独……勿体ないにも程がありますわ。よろしい、共同経営者として迎えて差し上げましょう)
「ええ。契約いたしましょう、パーン様。共に、この地を豊かにいたしますわ」
パーンの顔が、ぱぁっと輝いた。
笛の音が、歓喜に震えるように高らかに鳴り響く。
それは、千年の孤独が終わった音だった。
そして――辺境の運命が、静かに動き出した音でもあった。
◆◇◆
精霊契約を結んだ、その日から。
荒れ果てた廃牧場は、みるみる姿を変えていった。
枯れていた牧草地が一夜にして青々と茂り、魔物避けの結界が土地を守る。
「お嬢様! 羊たちの毛が……! なんて美しい……!」
エマが感嘆の声を上げる。
精霊の祝福を受けた羊毛は、月光を織り込んだように輝き、極上の手触りを持っていた。
「素材が良くても、それを活かす管理がなければ意味がありませんわ」
私は前世の知識をフル稼働させた。
ローテーション放牧で牧草地を守り、乳製品の加工工程を徹底管理。
温度、湿度、発酵時間――すべてを数値化し、書類にまとめて品質を安定させる。
(社畜時代のエクセル管理が、まさか異世界のチーズ作りで役立つとは思いませんでしたわ)
数週間で、ヴェーゼル産の乳製品は評判を呼んだ。
魔物の脅威がなく、精霊の祝福を受けた極上の品々。
冒険者ギルドと商業ギルドから、引き合いが殺到した。
「セラフィーナ様! 王都の三倍の値でも構わないと、南方の商会が!」
「落ち着いて。契約書はこちらの条件を通してから。納期と品質保証の条項を必ず入れてくださいませ」
(足元を見られたら終わりですわ。交渉は最初が肝心)
辺境の廃牧場は、瞬く間に一大産業の拠点へと発展していった。
そして、その中心には――
「セラフィーナ! 見よ、儂が新しい牧草地に祝福をかけたぞ! 褒めてくれ!」
山羊の脚で駆け寄ってくるパーン。
「ええ、さすがですわパーン様。……あら、パーン様。それは私の分の焼き菓子ですわ」
テーブルの上、私の紅茶に添えた焼き菓子を、パーンがもぐもぐと頬張っていた。
「う……! だ、だってセラフィーナの淹れる茶と菓子は、この世で一番美味いのだ……! もう一枚くれ!」
角の付け根を赤くして、おかわりをねだる千年の大精霊。
(規格外の力で国土を守る神様が、焼き菓子で餌付けできるとは……)
「お嬢様、また心の中で何か毒を吐いていらっしゃいますね?」
エマがくすりと笑う。
「あら、バレましたか」
笑いが弾ける、温かな食卓。
誰にも報われなかった前世の魂が、ここで初めて――『必要とされる居場所』を見つけていた。
一方その頃、王都では。
静かに、しかし確実に――崩壊が始まっていた。
◆◇◆
半年後。エルデンフェルト王都。
異変は、セラフィーナが去った直後から始まっていた。
豊穣結界の、消滅。
代々『牧笛が聞こえる者』が精霊と契約して維持してきた、王国の生命線。
それを支えていたのが誰だったのか、王家は――知らなかった。
「作物が……作物が枯れていく!」
「国境に魔物が! 結界がない! 押し寄せてくるぞ!」
黄金の穂を実らせていた王都近郊の農地は、見る影もなく荒れ果てた。
魔物が国境を越え、街道を脅かす。
民の悲鳴が、王城にまで届いた。
そして、聖女候補ミレーユ。
「ミレーユ様、早く結界を! あなたが聖女なのでしょう!?」
「そ、それは……」
彼女は、青ざめていた。
牧笛の音など、一度も聞こえたことがない。
精霊と契約する資格など、はじめから持っていない。
「まさか……聞こえないのか? 牧笛が!?」
「ち、違うわ……! 私は聖女よ……! 本物の……!」
「偽物だ! 偽聖女だったのか!」
儚げな仮面が、剥がれ落ちる。
ミレーユは詐称の罪で聖女候補の座を剥奪され、王都を追われた。
そして――第二王子ランドルフ。
「なぜだ……なぜこんなことに! あの田舎娘が去っただけで……!」
玉座の間で、彼は責任を問われていた。
「殿下。結界喪失の責は、あなたが軽々しく婚約を破棄したことに……」
「田舎の羊飼い令嬢など、王家に相応しくないと……! あれは正しい判断だったはずだ!」
(田舎の羊飼い令嬢――その羊飼いこそが、王国を守っていたことに、最後まで気づかなかった男)
廃嫡の声が、貴族たちの間から上がり始める。
かつて栄華を極めた王都は、飢えと恐怖に沈んでいった。
◆◇◆
同じ頃、ヴェーゼル辺境。
丘の上から見下ろす牧場は、まるで楽園だった。
輝く羊毛の羊が草を食み、精霊たちが花畑を舞う。
乳製品を求める商人の馬車が列をなし、活気に満ちた産業都市が広がっている。
「お嬢様! 王都から使者が! それも――国王陛下、直々のお越しだそうです!」
エマが息を切らして駆けてくる。
私は紅茶を一口含み、静かに微笑んだ。
「あら。ようやくいらしたのね」
(さて。半年前の『退職』の、精算のお時間ですわ)
引き出しから、あらかじめ用意しておいた数枚の書類を取り出す。
前世の社畜スキル、全開の一式。
「エマ。応接の準備を。それと――紅茶は、一番安い茶葉でお願いしますわ」
「か、かしこまりました……!」
窓の外で、パーンが不思議そうに首を傾げていた。
◆◇◆
「頼む、セラフィーナ嬢……! 王都に戻り、結界を、どうか……!」
エルデンフェルト国王が、辺境伯家の応接室で頭を下げていた。
一国の王が、かつて『田舎貴族』と侮った家の娘に、深々と。
父グスタフが、私の後ろに堂々と立つ。もはや卑屈さは微塵もない。
「陛下。まずは頭をお上げくださいませ」
私は淡々と告げた。
「ですが、その前に――こちらをご確認いただけますか」
テーブルに、一枚の書類を静かに滑らせる。
「これは……?」
「『契約解除通知書』ですわ。半年前、王家は正式な手続きをもって、私との婚約を――ひいては聖女としての務めを、公衆の面前で破棄なさいました」
もう一枚。
「そしてこちらが、『損害賠償計算書』。私が去ったことで王都が被った損害と、これまで無償で維持してきた結界の役務対価を算出したものですわ」
国王の顔が、みるみる青ざめる。
「これほどの……額を……」
「ええ。私、書類仕事は得意ですの」
(前世で鍛え上げた見積書作成スキル、まさか異世界で王家相手に使う日が来るとは)
「王家は正式な手続きをもって私を追放なさいました。ならば私も――正式な手続きをもって、お断りいたしますわ」
静かな声。
怒鳴りもしない。責めもしない。
ただ、論理と手続きで、退路を断つ。
「そ、そんな……では、我が国は……」
「それに――」
私は窓の外へ視線を向けた。
精霊たちが集い、羊が輝き、笑い声の絶えない楽園のような牧場。
「もう私には、遠くの牧笛の音を追いかける必要がございませんの」
その時、扉が開き、パーンが入ってきた。
「セラフィーナ、客か? ……ふむ、これはこれは、王とやらか」
山羊の角を持つ大精霊が、当然のように私の隣に立つ。
「この手に――その音色を奏でる方が、いらっしゃいますから」
国王が、息を呑んだ。
「まさか、その御方は……牧神パーンの……!」
「いかにも」
パーンが、久方ぶりに大精霊としての威厳を纏って告げた。
「儂の守護は、もはや王都にはない。この娘のいる、この地にある。真の聖地は――今、ここだ」
王国全土を覆っていた豊穣の守護が、この辺境一帯に移ったこと。
それが、動かぬ事実として明かされた瞬間だった。
国王は、力なく椅子に沈み込んだ。
「では、我が国は……辺境に、食料と結界を、頼るしか……」
「対等な交渉相手として、でしたら」
私は微笑んだ。品よく、しかし一歩も引かず。
「喜んでお話をお受けいたしますわ。――もちろん、正式な契約書を交わした上で、ね」
(かつて見下していた辺境に、頭を下げて食料を乞う王都。いい気味……ではなく、これが正当な評価というものですわ)
父グスタフの瞳が、静かに潤んでいた。
「……セラフィーナ。よくぞ、ここまで。ヴェーゼルの誇りを、お前が取り戻してくれた」
田舎貴族と侮られ続けたヴェーゼル辺境伯家が、ついに――正当な誇りを取り戻した瞬間だった。
◆◇◆
その後のことを、少しだけ。
第二王子ランドルフは、廃嫡された。
結界喪失の責を問われ、王位継承権を剥奪。
皮肉にも、彼が送られたのは地方の農地開拓の労役。
かつて『田舎の羊飼い』と嘲った、まさにその土仕事に。
(土に触れて、初めて分かることもございましょう。作物一つ育てる大変さが)
偽聖女ミレーユは、詐称の罪で全ての立場を失い、王都から姿を消した。
沈黙して一礼だけを残し去った令嬢こそが、本物の聖女だった――その事実だけが、貴族社会に語り継がれた。
王都は今も、ヴェーゼル辺境に食料と結界維持を頼っている。
もちろん、すべて正式な契約書のもとに。対等な、時にこちらが優位な交渉相手として。
◆◇◆
そして、辺境の牧場。
夕暮れの丘で、私はパーンと並んで座っていた。
手には、いつもの紅茶と焼き菓子。
「セラフィーナ。この菓子、また一枚くれ」
「もう三枚召し上がったでしょう、パーン様」
「む……で、では二枚で我慢する」
「一枚ですわ」
「うぅ……」
角の付け根を赤くして、しゅんとする大精霊。
私は思わず笑ってしまい、焼き菓子をもう一枚、彼の手に乗せた。
「特別ですわよ」
ぱぁっと輝くその顔を見ていると、胸の奥が温かくなる。
(前世では、誰にも必要とされなかった。ただ働いて、擦り減って、終わった。……でも今は違う)
聞いてくれる人がいる。必要としてくれる人がいる。守りたい居場所がある。
それが、こんなにも満たされることだなんて。
その時。
ふと、パーンが遠くの丘へ顔を向けた。
「……む」
「どうかなさいまして?」
「聞こえるか、セラフィーナ。あの、遠くの丘で鳴る笛の音が」
耳を澄ます。
かすかに――本当にかすかに、聞き覚えのある旋律が、風に乗って届いた。
「あれは……別の牧笛?」
「うむ。儂の眷属だ。別の土地で――誰かを呼んでおる。お前と同じ、『聞こえる者』を、な」
パーンが目を細めた。
「どこかにまた、誰にも信じてもらえず、独りで音を聞いておる者がおるのだろう」
私は、遠くの丘を見つめた。
かつての私のように、妄想と嘲笑されながら、ただ一人その音を聞いている誰か。
「その方も、いつか気づくといいですわね。その音が――本物だということに」
風が、牧草を撫でて渡っていく。
輝く羊たちの向こう、精霊の舞う楽園で。
遠くの笛の音は、まだ静かに鳴り続けていた。
次なる『聞こえる者』の物語を、そっと予感させながら。
――了




