第14話 黄金に輝くポタージュ
静まり返った夜の要塞都市。
日の光が届かない深夜の石造りの廊下は、まるで氷室のように冷たく、吐く息が白く染まるほどに冷え込んでいた。
そんな凍えるような廊下を、俺、南条悠はゆっくりとした足取りで歩いていた。
手にした木製のトレイの上では、深めのスープ皿からホカホカと温かい湯気が立ち上っている。
その器だけが、この冷え切った空間の中で唯一の熱源のように感じられた。
「ひょ~! マスター、こんな夜更けに小隊長殿の部屋に夜食のデリバリーっすか! なんだかドキドキするっすね!」
俺が締めている白いエプロンのポケットの中で、相棒のペティが柄の青い魔石をパチパチと明滅させながら、嬉しそうに声を上げた。
「声が大きいぞ、ペティ。他の隊員たちはもう寝静まっている時間だ」
俺は小声でたしなめながら、トレイの上のスープがこぼれないように慎重に歩みを進めた。
「だってしょうがないっすよ! あの猛毒のマンドラゴラが、俺の『食材直感』のナビゲートのおかげで、こんなに甘くて美味そうな極上スープに化けたんすから!」
ペティの言う通りだ。
俺たちが手塩にかけて毒を抜き、じっくりと煮込んだ『黄金のマンドラゴラ・ポタージュ』からは、猛毒植物だった頃の不気味な青臭さは微塵も感じられない。
上質な栗やサツマイモを蒸かしたようなホクホクとした香りに、たっぷりと溶かし込んだミルクと極上バターの芳醇なコクが混ざり合い、歩くたびに甘美な匂いがふわりと廊下に漂っていた。
「ああ、お前の直感には本当に助けられたよ。これなら、深夜まで書類仕事に追われているあの人の胃袋も、優しく温められるはずだ」
やがて、俺たちは第5特務遊撃小隊の執務室の前に立ち止まった。
分厚いオーク材の木の扉の隙間からは、まだ淡いランプの光が漏れ出ている。
中にいる人物が、どれほど過酷な責務を背負い、眠る間も惜しんで働いているかが痛いほどに伝わってきた。
コンコン、と控えめにノックをした。
「……誰だ。こんな夜更けに」
扉の向こうから、疲労の色が色濃く滲む、かすれた声が聞こえてくる。
「ユウです。夜食をお持ちしました」
「ユ、ユウ殿だと……? 入ってくれ」
ガチャリと冷たい金属のノブを回して中に入ると、ランプの灯りに照らされた机に向かい、山積みになった軍の報告書と格闘しているエレノアの姿があった。
美しい白銀のストレートロングヘアは少し乱れ、サファイアブルーの澄んだ瞳には、隠しきれないほどの深いクマがうっすらと浮かんでいる。
重厚な装飾甲冑は脱いでいるものの、簡素なシャツ一枚の肩は、寒さと疲労で微かに震えていた。
「遅くまでお疲れ様です、エレノアさん。少し休憩しませんか」
「すまないな、ユウ殿。明日の軍議の準備が立て込んでいて……」
エレノアが万年筆を机に置いた、その瞬間だった。
トレイから立ち上るバターとマンドラゴラの甘く芳醇な香りが、執務室のインクと羊皮紙の匂いを、一瞬にして極上の食卓へと塗り替えた。
「っ……!?」
エレノアは小さく息を呑み、サファイアブルーの瞳を丸くして俺の手元を見つめた。
その鼻腔が、抗えない芳香を捉えて微かにピクピクと動く。
ぐぅぅぅぅぅ……っ。
静寂に包まれた部屋の中に、彼女の華奢なお腹から放たれた空腹のサインが、情けないほど大きく鳴り響いた。
「あ……うぅ……っ」
白銀の髪の隙間から覗く耳の先端までを一瞬にして真っ赤に染め上げ、エレノアは慌てて両手でお腹を固く押さえた。
「ひょ~! 小隊長さん、すっげぇいい音っすね! 限界までお腹が空いてる証拠っすよ!」
「だ、黙れ喋る短剣! こ、これはその……部屋の隙間風が古びた窓枠を揺らして鳴った音で……!」
必死に顔を背けて言い訳を並べ立てるエレノアだったが、その視線はすでに、俺の手元にあるスープ皿から一ミリたりとも動かなくなっている。
俺は苦笑しながら、トレイを彼女の机の空いたスペースにそっと置いた。
「冷え切った体を芯から温める、『黄金のポタージュ』です。深夜の胃に負担をかけないよう、極限まで滑らかになるよう丁寧に裏ごししてあります」
「こ、この黄金色に輝くスープは、一体何の野菜を使っているのだ? これほどまでに甘く、心をかき乱すような香りは嗅いだことがない」
エレノアは椅子から身を乗り出し、スープの表面に浮かぶ香ばしい手作りクルトンと、鮮やかな緑の乾燥パセリを見つめながら尋ねた。
「マンドラゴラですよ。大樹海で採れたものを、ペティのナビゲートで完璧に毒抜きをして煮込みました」
「マ、マンドラゴラだと……!? あの致死量の毒を持つという、不気味で恐ろしい魔植物か!?」
エレノアは驚愕に目を見開いたが、目前から漂ってくる暴力的なまでの甘い香りと湯気の前に、もはや恐怖や警戒心は完全に吹き飛んでいるようだった。
「さあ、冷めないうちにどうぞ。スプーンをお持ちしますね」
俺が滑らかな木製のスプーンを手渡すと、エレノアは微かに震える指先でそれを受け取った。
「い、いただきます……」
彼女は小さな桜色の唇を開き、黄金色のポタージュをスプーンでたっぷりとすくい上げ、そっと口へと運んだ。
コクン。
その瞬間だった。
「ぬ、ぬぅ……っ!?」
エレノアの動きが、ピタリと完全に停止した。
サファイアブルーの瞳が、これ以上ないほどに限界まで見開かれている。
(な、なんだこの極上の舌触りは……!?)
エレノアの口の中で、極限まで滑らかに裏ごしされたマンドラゴラのピュレが、歯を立てるまでもなく心地よくとろけていく。
それに続いて、上質な栗のように濃厚でホクホクとした優しい甘みが、爆発的な勢いで舌の上の細胞を駆け巡ったのだ。
毒の気配や、土の青臭さは微塵も感じられない。
たっぷりと加えられた新鮮なミルクのまろやかさと、極上バターの芳醇で重厚なコクが、疲弊しきった体と脳の隅々にまでじんわりと染み渡っていく。
「……はぁっ……んんっ……!」
エレノアは熱さとあまりの美味しさに目を白黒させながらも、スプーンを動かす手を止めることができなかった。
冷え切っていた胃の腑に熱いスープが流れ込むたび、コクン、コクンと、心地よい音を立てて喉が鳴る。
(温かい……それに、信じられないほど甘くて、優しい味がする……! 凍りついていた体が、内側から溶けていくようだ……!)
張り詰めていた肩の力がすとんと落ち、白く乾燥していた頬が、スープの熱と圧倒的な幸福感でみるみると桜色に染まっていく。
「ひょ~! 小隊長殿、完全にフリーズからのモグモグタイム突入っすね! 顔がとろけそうっすよ!」
ペティが面白そうに冷やかすが、エレノアはもう反論する余裕すらなかった。
ただ無心に、差し出された温かい救いを胃の腑へと流し込み続ける。
やがて、スープ皿が最後の一滴まで綺麗に空になると、彼女はほうっと甘い吐息を漏らし、カチャリとスプーンを置いた。
「ごちそうさまでした……。こんなにも温かくて、甘いスープは人生で初めてだ。体の芯まで、ぽかぽかと陽だまりにいるように暖かい」
空になった皿を見つめる彼女の表情は、いつもの冷徹な鬼の小隊長ではなく、年相応の愛らしく、無防備な少女そのものだった。
「お気に召したようで何よりです。書類仕事も大切ですが、無理は禁物ですよ」
俺が空の食器をトレイに片付けながら言うと、エレノアはうつむき加減で、剣ダコだらけの自分の小さな両手をじっと見つめた。
「……私は、戦うことでしか自分の価値を示せないと思い込んでいた。誰かに頼られ、立派な成果を出さなければ、あっさりと捨てられてしまうのだと……」
彼女の小さな声が、夜の執務室に静かに響く。
それは、彼女が実家である公爵家を追放されてからずっと胸の奥に抱え込んできた、孤独で冷たい恐怖の吐露だった。
「だから、いつも気を張って、弱みを見せないように生きてきた。不気味だと言われようと、鬼と呼ばれようと、そうするしかなかったんだ」
エレノアのサファイアブルーの瞳が、僅かに潤みを帯びて揺れている。
俺はトレイを置き、真っ直ぐに彼女の目を見つめ返した。
「そんなことはありませんよ」
俺の低く静かな声に、エレノアがハッと顔を上げる。
「成果なんて出さなくても、誰よりも強い騎士でいなくてもいいんです」
俺は、数え切れないほどの火傷と包丁ダコが刻まれた無骨な自分の手で、机の上に置かれていた彼女の冷たい手を、そっと優しく包み込んだ。
「あなたがあなたであるだけで、ここにはちゃんと居場所がある」
俺の言葉が響いた瞬間、エレノアの瞳から、長く張り詰めていた太い糸がプツリと切れたように、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「あ……っ……うぅ……っ」
「不気味なものなんて、この世にはない。今日のマンドラゴラだって、正しい手を加えれば、こんなに優しくて甘いスープになるんですから」
俺が微笑むと、エレノアは両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくり始めた。
「うわぁぁぁん……っ! ユ、ユウ殿ぉ……っ!」
ずっと一人で耐え忍んできた孤独とトラウマの呪縛が、黄金のポタージュの温もりと俺の言葉によって、ついに優しく溶け出したのだ。
俺は泣きじゃくる彼女の華奢な背中を、ただ静かに、優しく撫で続けた。
執務室の冷たい空気は、いつの間にか、甘く芳醇なバターの香りと、確かな居場所の温もりに満たされていた。
【次回予告】
涙を流して心を開いたエレノア。
だが、徹夜明けの彼女の前に、今度は意外な甘い誘惑が立ち塞がる!?
次回第15話「深夜厨房の甘い覚醒」。お楽しみに!
最後までお読みいただきありがとうございました!
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