石臼淵の河童
『石臼淵の河童』
第一章 石臼川流記
今年の三月、私は秋月恒一の名で小説家としてデビューした。
処女作の題名は『羅生村の鬼』。
昨年、私、折口恒一と物集院秋津が遭遇した事件を題材にした怪奇小説である。
出版社によれば予想以上に売れているらしい。
書店では平積みになり、読者からの感想まで届くようになった。
私としてはありがたい話だった。
ただし。
隣の席に座る男だけはそう思っていない。
「まだ怒っているんですか」
私が尋ねる。
秋津は答えない。
窓の外を眺めたまま、静かに文庫本を閉じる。
見覚えのある表紙だった。
私の新刊である。
「怒っていません」
「その顔で言われても説得力がありませんよ」
返事はない。
代わりに膝の上の本へ栞を挟む。
そして鞄へしまった。
その動作が妙に丁寧だった。
私は苦笑する。
「そんなに気に入りませんでしたか」
しばらく沈黙。
列車の車輪だけが規則正しく響く。
やがて。
「私は」
秋津がぽつりと言った。
「資料を見ると目を輝かせたりしません」
「そう書いたのが不満なんですか」
秋津は答えない。
窓の外を見る。
その横顔が答えだった。
「あと」
「はい」
「村人に囲まれて喜ばれていた記述も訂正してください」
「事実でしょう」
秋津はゆっくりこちらを向いた。
細い目が普段より少しだけ冷たい。
それだけだった。
だが十分だった。
「ああ、本当に嫌だったんですね」
私は笑う。
秋津は再び窓の外へ顔を向けた。
以後十分ほど、一言も口を利かなかった。
しかし、今秋津には熱中していることがある。
古文書だ。
間違いなく古文書である。
「秋津」
「なんです」
「まだ駅にも着いていないのに、その顔は何です」
「顔?」
「珍しいおもちゃを見つけた子供みたいな顔です」
「失礼ですね」
秋津は不満そうに眉をひそめた。
「私はいつも通りです」
「そうですか」
「そうです」
「では、その目録を昨夜から何度見返したんです」
秋津は黙った。
図星だったらしい。
私は苦笑する。
彼の膝の上には、一冊の古びた帳面が置かれていた。
『中国地方旧家文書目録』
物集院家が代々収集してきた古文書所在録の一冊である。
寺社の縁起。
旧家の蔵書。
失われた郷土史料。
先祖たちはそれらの情報を聞き集め、地方ごとに記録として残していた。
今回の旅の発端は、その目録だった。
数週間前、広島県三次地方の郷土史研究家から物集院家へ一通の手紙が届いた。
石臼川上流の旧家に、『石臼川流記』という古文書が伝わっているらしい。
その価値を調べてほしい。
そう書かれていた。
秋津は手紙を受け取ると、物集院文庫へ籠もった。
そして『中国地方旧家文書目録』の中に、一つの記述を発見したのである。
秋津は帳面を開き、一行の文字を指先で示した。
『備後国三次郡石臼村
石臼川流記 一巻』
たったそれだけだった。
作者も不明。
成立年代も不明。
内容も不明。
しかし物集院家の目録に記されている以上、少なくとも過去には確かに存在した文書である。
それだけで秋津が動く理由としては十分だった。
「普通の本には見えませんか」
「普通ではありません」
即答だった。
「目録に記載されているのに所在が確認できない文書です」
「それほど珍しいんですか」
「珍しい。物集院文庫に保存されている目録ならなおさらです」
秋津は真面目な顔で頷く。
「しかも流記です。村の歴史や伝承が記されている可能性がある」
そして僅かに口元を緩めた。
「掘り出し物かもしれません」
「やはり楽しみなんですね」
再び聞こえないふりをする。
第二章 河童
列車の窓には春の陽光を受けた川が一瞬だけ見えた。
「あれが馬洗川でしょうか」
「たぶんそうでしょう」
「今回は事件は起きませんかね」
「起きない方が良いのですが」
そう言った直後だった。
秋津は目録の余白を指で叩いた。
「石臼村には猿猴の伝承が残っているそうです」
「猿猴?」
「この地方の河童ですよ」
その言葉を聞いた瞬間だった。
向かいの席に座っていた老婆が、ぴくりと肩を震わせたのは。
私はすこし気になった。
老婆は慌てたように視線を逸らし、窓の外を見た。
車輪の音だけが響く。
「河童なら知っていますが、猿猴というのは初めて聞きました」
秋津は目録を閉じた。
「河童というのは実に便利な言葉でしてね」
「便利?」
「日本全国に存在する水辺の怪異を、ひとまとめに呼んでいるだけです」
そう言って窓の外を指さす。
「土地が変われば姿も変わる。名前も変わる」
「例えば?」
「九州にはガラッパ。四国にはシバテン。東北にはメドチ。中国地方西部では猿猴です」
私は少し驚いた。
「全部河童なんですか」
「学者によっては別物と考えるでしょうね」
秋津は肩を竦める。
「ただ共通点はあります」
「どんな」
「川や淵に棲む」
「人を水へ引き込む」
「子供を脅かす」
「村人に恐れられる」
「つまり水難事故の説明ですね」
最後の一言だけ妙に冷静だった。
「またそうやって夢を壊す」
「壊しているのではありません」
秋津は淡々と続けた。
「川は恐ろしい場所です」
「雨が降れば流される」
「深みに落ちれば溺れる」
「しかし『川が人を殺した』では誰も納得しない」
窓の外を流れる川を見る。
「だから人は物語を作る」
「河童ですか」
「ええ」
秋津は頷いた。
「河童がいることにすれば子供は川へ近づかなくなる」
「水難も減る」
「伝承にはちゃんと理由があるんですよ」
私は笑う。
「夢のない学説ですね」
すると秋津も少しだけ口元を緩めた。
「ですが面白いでしょう?」
「しかし、それだけでは何百年も語り継がれられたりしないでしょう?」
私が尋ねると、秋津は少し考えた。
「難しい質問ですね」
「学者らしくありませんね」
「民俗学者は『分からない』と言うために勉強しているようなものです」
それはどうなのだろう。
秋津は窓の外へ流れる川を見た。
「河童の起源については諸説あります」
「例えば」
「もっとも有名なのは水神ですね」
「水神?」
「古い神が零落し、妖怪になったという考えです」
そう言って鞄から小冊子を取り出す。
「柳田國男もそのような説を紹介しています」
「なるほど」
「ただ、それだけでは説明できません」
「他にもあるんですか」
「あります」
秋津は頷いた。
「河童は川辺の人々が妖怪になったものではないかという説です」
「人?」
「ええ」
「例えば河原者」
「河原者……」
「川で働き、土木や漁を生業としていた人々です」
秋津は指先で机を軽く叩いた。
「鬼や山人と同じように」
「共同体の外側にいた人々が怪異になった」
「そう考える研究者もいます」
私は少し身を乗り出した。
「では河童は実在の人間だったと?」
「そこまで単純ではありません」
「ただ」
秋津は続ける。
「人々は理解できないものに名前を付けます」
「鬼」
「天狗」
「河童」
「そうした名前を」
「彼らは土地の者ではなく各地を移動していました」
「では余所者ですね」
「そうです」
秋津は頷く。
「異質な技能を持ち」
「川を自在に扱う」
「村人から見れば不思議な存在です」
「だから河童になった」
「可能性はあります」
「猿猴は猿みたいな姿なんでしょう?」
「広島の猿猴はそうですね」
秋津は少し笑う。
「ですが実際にはニホンカワウソが元ではないかとも言われています」
「なるほど」
「夜の川に現れる」
「泳ぎが速い」
「毛深い」
「猿のようにも見える」
「確かに似ている」
「愛媛などでは河童をオソとも呼びます」
「オソ?」
「カワウソです」
「相撲好きなのは?」
「それも面白いところです」
秋津は珍しく楽しそうだった。
「河童はよく相撲を挑むでしょう」
「ええ」
「古い記録にもあります」
「例えば『本草綱目啓蒙』や『物類称呼』には各地の河童の呼び名が見えますし、近世の怪談や随筆には相撲好きな河童が頻繁に登場します」
「なぜ相撲なんです」
「さて」
秋津は肩を竦めた。
「村の力自慢と競った記憶かもしれない」
「川で働く男たちの腕比べかもしれない」
「本当に河童が相撲好きだったのかもしれません」
「あるいは、河童が相撲好きだったことにしなければならなかった人々がいたのかもしれません」
最後だけ少し真面目に言う。
「河童という字も不思議ですね」
「実はそれも後の字です」
秋津は続ける。
「昔は川童」
「河太郎」
「河伯」
「水虎」
様々に書かれました。
「そうなんですか」
「ええ」
「私は時々思うのです」
「何をです」
「カワズという言葉がありますね」
「蛙ですか」
「ええ」
「河頭と書いて、川から頭を出す者と解釈した人間がいても不思議はありません」
「なるほど」
「もっとも私の勝手な思いつきですが」
私は笑った。
「結局、河童とは何なんです」
秋津はしばらく黙った。
やがて窓の外の川へ視線を向ける。
「分かりません」
「お手上げですか」
「いえ」
秋津は静かに言った。
「河童が何だったのかは分かりません」
「ですが」
「なぜ人が河童を必要としたのかなら調べられる」
「水難だったのか」
「水神だったのか」
「川で働く人々だったのか」
「あるいは人に語れない罪だったのか」
その細い目が遠くの流れを追う。
「私が興味があるのは、そちらですよ」
私は苦笑した。
結局のところ。
河童の話をしている時の秋津は、古文書を手に入れた時の秋津と同じ顔をしていた。
春の山々の向こう。
石臼川の上流には石臼淵と呼ばれる深い淵があるという。
猿猴が棲むと語られる場所。
そして私たちはまだ知らなかった。
一冊の古文書を追って始まったこの旅が、二百年の昔に沈められた罪を掘り起こすことになるとは。
第三章 石臼村へ道中
秋津が再び目録へ視線を落とした頃だった。
向かいの席の老婆が、小さく溜息をつく。
私は何となく気になって声を掛けた。
「先ほどは驚かせてしまいましたか」
老婆は顔を上げた。
「え?」
「猿猴の話です」
その言葉に、老婆の表情がわずかに固くなる。
「ああ……それかい」
窓の外へ目を向ける。
しばらく返事はなかった。
私は慌てて頭を下げた。
「すみません。あまり気持ちの良い話ではありませんでしたね」
「いや」
老婆は首を振った。
「先生さんが悪いんじゃない」
そして少しだけ笑う。
「昔からな。石臼村じゃ猿猴の話を軽々しくするなと言われとったんよ」
「石臼村の方なんですか」
「生まれはな」
老婆は頷いた。
「今は広島じゃが」
「失礼ですが」
「お滝じゃ」
老婆は先に名乗った。
「久保田滝いう」
「私は折口と申します、小説を書いております」
「小説家の先生さんかい」
「まだ駆け出しです」
そう答えると、お滝は少し目を細めた。
若い頃を思い出しているような顔だった。
「そんなに猿猴は恐れられていたんですか」
私が尋ねる。
お滝はすぐには答えなかった。
皺の刻まれた指先で、風呂敷の端を弄んでいる。
「恐ろしいというよりな」
「はい」
「嫌な話がついて回るんよ」
「嫌な話?」
「人の死ぬ話じゃ」
私は少し身を乗り出した。
だが、お滝はそれ以上続けない。
代わりに首を振った。
「年寄りは詳しく語りたがらん」
「なぜです」
「知らん」
そう言って苦く笑う。
「わしもそう教えられて育っただけじゃ」
列車が大きく揺れた。
窓の外では山々が近づいている。
「けれどな」
お滝がぽつりと言う。
「石臼淵には近づかん方がええ」
「猿猴が出るからですか」
「そうじゃない」
お滝はゆっくり首を振った。
「何がおるかは知らん」
「じゃが昔から、あそこへ行くと人が帰ってこん」
その言葉には、作り話を語る時の大袈裟さがなかった。
小さい頃から聞かされてきたことを、そのまま口にしているだけの響きだった。
「先生さんらは石臼村へ行くんじゃろ」
「ええ」
「なら覚えとき」
お滝は窓の外を見たまま言った。
「猿猴いうもんはな」
一度言葉を切る。
「見た者より、見とらん者の方がよう恐れる」
私は意味が分からず首を傾げた。
しかしお滝は、それ以上何も説明しなかった。
遠くで汽笛が鳴る。
列車は次の駅へ向かって速度を落とし始めていた。
やがて列車は小さな駅へ滑り込んだ。
汽笛が鳴り、車輪が軋む。
お滝はゆっくり立ち上がった。
「わしはここじゃ」
網棚から風呂敷包みを下ろす。
思ったより小柄な人だった。
「お世話になりました」
私が頭を下げる。
「ええ」
お滝は微かに笑った。
そして何かを迷うように口を閉ざす。
だが結局、何かを決めたように言った。
「先生さん」
「はい」
「石臼村へ行くんじゃろ」
「そのつもりです」
「なら、村の人間の話をよう聞きなさい」
私は首を傾げた。
「村の人間ですか」
「そうじゃ」
お滝は頷く。
「猿猴の話より、そっちの方が大事じゃけえ」
そう言うと、小さく笑った。
だがその笑みはどこか寂しげだった。
「ほいじゃ、気を付けてな」
扉が開く。
春の風が車内へ流れ込んだ。
お滝は改札へ向かう人の流れの中へ消えていく。
その背中を見送りながら私は呟いた。
「不思議な方でしたね」
返事はない。
見ると、秋津は窓際に座ったまま外を眺めていた。
「聞いていましたか」
「聞こえていました」
「どう思います」
秋津は少し考えた。
「分かりません」
そう前置きした後、
「ですが」
「ですが?」
「彼女は猿猴そのものを恐れているのではないでしょう」
私は眉をひそめた。
「では何を」
秋津は窓の外へ消えたお滝の姿を追うように目を細める。
「さて」
「それを調べに行くのでしょう」
広島駅へ着いたのは昼前だった。
石臼村へ向かう乗合自動車は明朝までないという。
鉄道は途中までしか通じておらず、その先は山道を辿るしかないらしい。
「不便ですね」
私が言うと、秋津は頷いた。
「だから伝承が残ったのでしょう」
「そういうものでしょうか」
「そういうものです」
秋津は当然のように答えた。
「交通が発達すると人も情報も流入します」
「伝承は薄れる」
「村は外の世界に近づく」
「逆に言えば孤立した土地ほど古いものが残るのです」
なるほど、そういう見方もある。
だが私は別の感想を抱いていた。
「では今日は暇ですね」
「暇ではありません」
即答だった。
「郷土史研究家の方を訪ねます」
「今からですか」
「当然でしょう」
「古文書は逃げませんよ」
「散逸する可能性があります」
「まだ見つかってもいないのに」
「だから急ぐのです」
秋津は真顔だった。
私は思わず笑った。
「秋津」
「なんです」
「広島へ来たんですよ」
「そうですね」
「少しくらい見て回りましょう」
「石臼村へ行けば十分です」
「それは石臼村です」
「広島ではありません」
私が言うと、秋津は僅かに眉をひそめた。
面倒な議論が始まったとでも思っているらしい。
一時間後。
私たちは広島城の石垣を眺めていた。
「どうしてこうなったんです」
秋津が不満そうに言う。
「旅だからです」
「古文書調査です」
「旅でもあります」
「違います」
「広島の人に聞いたら旅だと言いますよ」
「聞きません」
実に頑固だった。
しかし、その十分後には秋津は石垣の前で足を止めていた。
「どうしました」
「いや」
そう言って石積みを見上げる。
「この石は面白いですね」
「興味あるじゃないですか」
「ありますが」
「ほら」
秋津は黙った。
図星だったらしい。
その後も私たちは市内を歩いた。
川沿いの道を歩き、
古い商家を眺め、
土産物屋を冷やかし、
喫茶店で休憩する。
私はそれなりに満足だった。
一方で秋津はというと。
喫茶店で運ばれてきた珈琲にも手を付けず、ずっと目録を読んでいる。
「そこまで気になりますか」
私は呆れた。
「気になります」
「まだ見ぬ古文書が」
「ええ」
「どんな内容だと思います」
秋津は少し考えた。
「分かりません」
「またそれですか」
「分からないから面白いのです」
そう言って珍しく微かに笑う。
「流記という以上、村の歴史でしょう」
「あるいは猿猴の伝承か」
「あるいは全く関係のない田畑の記録かもしれません」
「それでも?」
「それでも見たいですね」
即答だった。
私は窓の外を見た。
春の陽射しの向こうで川が輝いている。
明日にはその上流へ向かう。
猿猴の棲むという石臼淵。
そして『石臼川流記』。
秋津は相変わらず目録から顔を上げない。
私は苦笑した。
結局のところ。
秋津にとって旅の目的は広島でも石臼村でもない。
この変わり者の民俗学者が、私の下宿先一葉館へ転がり込んできてから一年にも満たない。
それなのに私は、こうして当たり前のように彼の旅へ付き合っている。
まだ見ぬ一冊の古文書のために。
第四章 郷土史研究家
翌朝の石臼村行き乗合自動車までには、まだ時間があった。
結局、秋津は私を連れて一人の郷土史研究家のもとを訪ねることになった。
森脇敬三。
三次地方の歴史や伝承を長年研究している人物で、石臼川流記の存在を物集院家へ知らせてきた張本人である。
広島市内の住宅街にあるその家は、玄関先からして普通ではなかった。
木箱がいくつも積まれ、その隙間に古びた冊子や新聞の束が覗いている。
「いかにも先生の好きそうな家ですね」
「好きも何も、目的地です」
秋津はそう言うと遠慮なく呼び鈴を鳴らした。
ややあって現れたのは六十を過ぎたと思しき男性だった。
白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけ、丸眼鏡を掛けている。
着古した和服姿だったが、その目だけは妙に生き生きとしていた。
「おお、物集院先生ですな」
「森脇先生。お忙しいところ申し訳ありません」
「いやいや」
森脇敬三は笑った。
「こんな田舎の記録を見に来る人間は珍しい。歓迎しますよ」
そう言って私たちを奥へ招き入れた。
部屋の壁は書棚で埋め尽くされていた。
郷土誌。
村史。
地誌。
古記録。
秋津ならここで一日潰せそうだった。
「それで」
森脇は茶を勧めながら言った。
「石臼川流記がお目当てですな」
「ええ」
秋津は頷く。
「目録に存在は確認しています」
「物集院家の目録ですかな」
「そうです」
「なら間違いなく存在したのでしょう」
森脇も頷いた。
「少なくとも私の知る限りでは、高原家に伝わっているはずです」
秋津の目が少しだけ鋭くなる。
「現存しているのですね」
「そのはずです」
「閲覧されたことは」
「ありません」
森脇は苦笑した。
「それが石臼村という土地ですよ」
「閉鎖的なんですか」
私が尋ねる。
森脇は少し考えた。
「閉鎖的という言葉は便利ですがね」
「はい」
「ただ、昔から余所者を警戒する土地ではあります」
窓の外へ視線を向ける。
「山が深い」
「交通の便も悪い」
「だから独自の文化が残った」
「同時に外部への警戒心も残った」
秋津は黙って聞いていた。
「近頃はどうなんです」
「穏やかではありませんな」
森脇は茶碗を置いた。
「堰堤計画で揉めています」
私は思わず身を乗り出した。
「本当に計画があるんですね」
「正式決定ではありません」
「調査段階です」
「しかし村では大騒ぎですよ」
推進派。
反対派。
村が真っ二つになっている。
森脇はそう言った。
「推進派は近代化を望んでいます」
「反対派は土地と淵を守りたい」
「昔からある話ですが」
苦笑する。
「当事者には大問題です」
そこで秋津が口を開いた。
「それで猿猴ですか」
森脇の顔から笑みが薄れた。
「聞いていましたか」
「伝承と揉め事は相性が良いので」
森脇は感心したように頷いた。
「確かに」
そして声を落とした。
「最近、猿猴を見たという話が増えているのです」
私は思わず顔を上げた。
「見た?」
「ええ」
「石臼淵の近くで」
「夜に影を見た」
「川辺を何かが走っていた」
「猿のようなものだった」
そういう証言です、と研究家は言う。
「もちろん私は信じていません」
「ですが」
「計画が持ち上がった途端に増えた」
「そこは興味深いですね」
秋津が静かに言った。
「猿猴が復活したのではない」
「猿猴が必要になった」
森脇は目を丸くした。
「なるほど」
「先生らしい考え方ですな」
しばらく話した後だった。
私はふと思い出して言った。
「そういえば」
「何ですかな」
「こちらへ来る列車で石臼村出身の方とご一緒したんです」
森脇が顔を上げる。
「ほう」
「久保田滝さんという方でした」
その瞬間だった。
森脇の表情が変わった。
「お滝さんですか」
「ご存じなんですか」
「もちろんです」
森脇は少し驚いたようだった。
そして小さく呟く。
「まだ帰ってきていたのか」
私は秋津と顔を見合わせた。
「帰ってきていた?」
「法事か何かでしょう」
森脇は懐かしそうに言った。
「昔から時々村へ戻っておられました」
「有名な方なんですか」
「有名と言うほどではありません」
しかし、と続ける。
「お滝さんの祖母は石臼村でも古い伝承をよく知る人だったのです」
「伝承ですか」
「猿猴の話も含めてです」
森脇は少し首を傾げた。
「もっとも」
「本人はあまり語りたがりませんな」
「何かあったんですか」
「分かりません」
森脇は静かに答える。
「ただ」
一拍置く。
「石臼淵の話になると、昔から妙に口が重くなる人が多い」
部屋が少し静かになった。
秋津が湯呑を置く。
「興味深いですね」
その声は妙に穏やかだった。
だが私は知っている。
この人が本当に興味を持った時ほど、声は静かになる。
「先生」
「なんです」
「今、面白くなってきたと思いましたね」
「失礼な」
秋津は即座に否定した。
「私は古文書が見たいだけです」
森脇が吹き出した。
私も思わず笑う。
だがその時だった。
森脇がふと真面目な顔になった。
「物集院先生」
「はい」
「石臼村へ行かれるなら一つだけ」
「何でしょう」
「淵を見たら分かります」
森脇はそう言った。
「なぜあの村の人間が、二百年も猿猴を忘れられなかったのか」
私は少し首を傾げた。
だが秋津は黙って聞いている。
「もっとも」
森脇は苦笑した。
「先生は伝承の中身より、その古文書の方が気になるのでしょうな」
「ええ」
秋津は迷わず答えた。
「その通りです」
森脇は声を上げて笑った。
私も苦笑するしかなかった。
こうして私たちは研究家の家を後にした。
翌朝には、いよいよ石臼村へ向かう。
まだ見ぬ『石臼川流記』。
猿猴の棲むという石臼淵。
そして、お滝が言い残した言葉。
なぜだろう。
春の陽気の中を歩きながらも、私は僅かな胸騒ぎを覚えていた。
第五章 石臼村
翌朝。
私たちは広島駅前から乗合自動車に乗り込んだ。
春とはいえ山間部の朝は冷える。
乗客は十人ほど。
大半が村へ帰る人々らしく、顔見知り同士で言葉を交わしていた。
秋津は窓際で目録を読んでいる。
「まだ読んでいるんですか」
「確認です」
「十回は確認しているでしょう」
「十一回目です」
本人は真面目だった。
私は諦めて窓の外へ目を向けた。
やがて町並みは消え、道は山中へ入った。
川沿いの細い道を自動車が揺れながら進む。
山は深い。
谷も深い。
なるほど。
これでは伝承も残るだろうと思った。
二時間ほど走った頃だった。
運転手が前方を指差した。
「石臼村が見えてきましたよ」
私は窓へ身を乗り出した。
谷間に小さな集落が見える。
川沿いに家々が並び、その背後には段々畑。
さらに向こうには深い山々。
想像していた以上に小さな村だった。
自動車を降りると、冷たい風が吹き抜けた。
駅もない。
商店もわずか。
静かな村だった。
だが奇妙なことに、人々の顔はどこか険しかった。
道端で話していた男たちが、私たちを見ると会話を止める。
また別の場所では年配の男と若者が何やら言い争っていた。
「随分ぴりぴりしていますね」
私が言う。
秋津は周囲を見回した。
「堰堤計画でしょう」
「そこまでですか」
「土地の話ですから」
いつになく真面目な声だった。
「時に土地は親兄弟より重い」
その時だった。
「失礼ですが」
後ろから声が掛かった。
振り返ると二十代半ばほどの青年が立っていた。
日に焼けた顔。
がっしりした体格。
快活そうな人物だった。
「物集院先生と折口先生でしょうか」
「そうですが」
すると青年は笑顔を見せた。
「石田庄太郎です」
「村長の息子です」
「森脇先生から話は聞いております」
庄太郎は握手を求めてきた。
都会的な礼儀と農村の豪快さが同居している。
「ようこそ石臼村へ」
「歓迎します」
そう言いながらも、どこか疲れた顔をしていた。
「何かありましたか」
秋津が尋ねる。
庄太郎は苦笑した。
「先生は鋭い」
「村が落ち着かんのですよ」
そう言った時だった。
向こうから老人の怒鳴り声が聞こえた。
「だから駄目じゃと言うとる!」
「いつまで昔の話をするんですか!」
振り向く。
広場の向こうで数人が口論していた。
ひときわ大きな声を上げているのは老人だった。
七十を超えているだろう。
背筋は曲がっていない。
鋭い目をしている。
「あれが久保田源蔵さんです」
庄太郎が小声で説明する。
「反対派の中心です」
源蔵の前には五十代ほどの男が立っていた。
神職らしい白衣姿。
「あちらが石臼神社の宮司、宮原兼信さん」
「反対派ですか」
「ええ」
源蔵は私たちを見ると鼻を鳴らした。
「また余所者か」
歓迎している様子はない。
一方の宮原は軽く会釈した。
「失礼しました」
「村が騒がしくてお見苦しいところを」
穏やかな口調だった。
しかしその目には警戒があった。
「宮司さん」
秋津が突然言った。
「石臼神社には古い縁起など残っていますか」
私は思わず額を押さえた。
初対面でそこを聞くのか。
だが宮原は少し意外そうな顔をした後、
「ええ」
と答えた。
「僅かですが」
すると秋津の目が少しだけ光った。
嫌な予感がした。
その時。
今度は別の男が近づいてきた。
四十代ほど。
川仕事で鍛えられた腕をしている。
「先生方か」
「岩吉です」
「漁師をやっとる」
ぶっきらぼうだった。
だが悪意はない。
「先生ら、石臼淵へ行くんじゃろ」
「ええ」
「なら案内してやる」
そう言って笑う。
その顔にはどこか子供っぽい気安さがあった。
その場の空気を変えたのは、さらに後から現れた人物だった。
「皆さん、そんな所で立ち話ですか」
穏やかな声だった。
五十代。
上等な着物。
柔らかな物腰。
しかし自然と人が道を開ける。
この村で立場のある人間だと一目で分かった。
「高原清次郎さん」
庄太郎が言う。
「高原家の当主です」
「初めまして」
清次郎は静かに頭を下げた。
「物集院先生ですね」
「はい」
「石臼川流記の件は聞いております」
秋津の表情が僅かに動いた。
それを見た私は苦笑した。
どうやら本題が見えてきたらしい。
そして。
清次郎の後ろから、一人の若い女性が姿を現した。
二十歳前後。
知的な印象の顔立ちだった。
手には数冊の本を抱えている。
「娘の千鶴です」
「高原千鶴と申します」
丁寧に頭を下げる。
その仕草には品があった。
「父からお話は聞いております」
千鶴は私を見て少し微笑んだ。
「秋月恒一先生ですよね」
私は思わず目を瞬いた。
「ご存じで」
「『羅生村の鬼』、読みました」
横を見る。
秋津が無言で遠くを見ていた。
私は吹き出しそうになるのを堪えた。
こうして私たちは石臼村の人々と出会った。
だがその時はまだ知らない。
この村の中心にいる穏やかな酒造家が、
二百年前から続く秘密を守り続けていることを。
そして、その秘密を記した一冊の古文書が、
すぐそこに眠っていることを。
第六章 高原家
高原家は村外れの小高い場所に建っていた。
立派な門構えの屋敷である。
母屋の向こうには大きな土蔵も見えた。
「酒蔵もやっておられるんです」
案内してくれた庄太郎が言う。
「村じゃ一番の旧家ですよ」
なるほど、と私は頷いた。
確かに風格がある。
長い年月、この土地で生きてきた家なのだろう。
玄関では高原清次郎が出迎えてくれた。
「ようこそお越し下さいました」
実に穏やかな声だった。
「客間として離れを用意しております。滞在中はご自由にお使いください」
「ありがとうございます」
秋津が頭を下げる。
「こちらこそ、突然押しかける形になりまして」
「なに」
清次郎は笑った。
「古い書物に興味を持ってくださる方など滅多におりません」
そう言って私たちを座敷へ案内した。
夕食の席には千鶴も同席していた。
村の娘とは思えぬほど本を読んでいるらしい。
「森鴎外はお好きですか」
「ええ」
「ですが泉鏡花も捨てがたい」
そんな話をしているうちに、自然と会話が弾んだ。
「『羅生村の鬼』も面白かったです」
「ありがとうございます」
「鬼そのものより、人の話だったでしょう?」
私は少し驚いた。
そこまで読んでくれているとは思わなかった。
一方。
秋津はというと。
「こちらの酒は美味いですね」
「ありがとうございます」
「水が良いのでしょう」
「石臼川の水です」
「なるほど」
などと言いながらも、明らかに落ち着きがない。
目だけは何度も蔵の方角へ向いている。
完全に古文書のことを考えていた。
やがて。
食後のお茶が運ばれてきた頃。
秋津がついに切り出した。
「ところで清次郎さん」
「はい」
「例の『石臼川流記』についてお伺いしたいのですが」
千鶴が父を見る。
清次郎も穏やかに頷いた。
「ああ、その件ですか」
私は少し身を乗り出した。
秋津の目もさりげなく鋭くなっている。
「確かに高原家へ伝わっています」
清次郎はそう言った。
秋津の顔が僅かに明るくなる。
「現存しているのですね」
「ええ」
「ぜひ拝見したい」
「もちろん構いません」
清次郎は微笑んだ。
「ただ」
その一言で空気が少し変わった。
「蔵の整理をしておりまして」
「整理?」
「古い帳面や記録類が多くてね」
申し訳なさそうに続ける。
「今すぐには取り出せないのです」
秋津が黙った。
私は知っている。
この沈黙は落胆している時のものだ。
「どれくらい掛かりますか」
「二、三日もあれば」
「そうですか」
秋津は静かに頷いた。
表情は変わらない。
だが、この人を知る私には分かった。
かなり残念がっている。
「申し訳ありません」
清次郎が言う。
「いえ」
秋津は首を振った。
「古文書は保存が第一です」
「無理を言うつもりはありません」
その答えに清次郎は安堵したようだった。
しかし。
その瞬間だった。
「お父様」
千鶴が不思議そうな顔で言った。
「流記なら先月も見たではありませんか」
座敷が静かになった。
私は思わず千鶴を見る。
千鶴本人には他意はないらしい。
「蔵の整理は終わっていたと思いますが」
そう続けようとして、
清次郎と目が合った。
娘は口を閉ざす。
「その後、別の箱も見つかりましてね」
清次郎はすぐに微笑んだ。
声も穏やかだった。
「せっかく先生方に見ていただくのです」
「ついでに整理しておこうと思いまして」
「なるほど」
千鶴も納得したようだった。
だが。
私は何となく違和感を覚えた。
上手く説明できない。
清次郎の説明は不自然ではない。
むしろ筋は通っている。
それなのに。
先ほど一瞬だけ。
千鶴が口を開いた時。
清次郎の顔から笑みが消えたような気がしたのだ。
その夜。
客間へ戻った私は秋津に尋ねた。
「どう思います」
「何がです」
「流記です」
秋津はしばらく考えた。
「分かりません」
またその言葉だった。
「ですが」
「ですが?」
「高原さんは、あの本を私に見せたくない理由があるのかもしれません」
そう言って窓の外を見る。
月明かりの向こうに黒い土蔵の影が見えていた。
「もっとも」
秋津は静かに言った。
「それが何なのかは、まだ分かりませんが」
私はその蔵を見つめた。
その中に眠る『石臼川流記』が、やがて村全体を揺るがすことになるとは、この時の私はまだ知らなかった。
第七章 猿猴の淵
翌朝。
私たちは岩吉の案内で石臼淵へ向かうことになった。
「先生らが来たなら、一度は見ておかにゃならんじゃろ」
岩吉はそう言って先を歩く。
川沿いの獣道を進む。
石臼川の水は透明だった。
陽の光を受けて白く輝いている。
だが山が深くなるにつれ、周囲の空気もどこか冷たくなった。
「遠いですね」
私が言う。
「昔は今より近かったんじゃがな」
岩吉は振り返らず答えた。
「道が流されたり、付け替えられたりしてな」
川は生き物だから、と笑う。
やがて岩吉が足を止めた。
「着いたぞ」
私は前を見た。
思わず息を呑む。
そこだけ川の様子が違った。
流れが急に途切れている。
大きく抉れた岩盤の中央に、青黒い水が溜まっていた。
石臼淵だった。
静かだった。
風の音しかしない。
それなのに妙な圧迫感がある。
水面だけが異様に暗い。
「深いんですか」
「誰も正確には知らん」
岩吉は淵を見下ろした。
「昔から底なし言われとる」
そして少し声を落とす。
「猿猴が棲んどるとな」
私は思わず笑った。
「まだ信じているんですか」
「信じちゃおらん」
岩吉も笑う。
「じゃが川で生きる人間はな」
「怖いもんを全部否定もできん」
そう言って岩の上に腰を下ろした。
「婆様から聞いた話じゃ」
岩吉は語り始める。
「昔、猿猴は子供を攫った」
「胡瓜を盗んだ」
「馬を川へ引き込んだ」
「相撲も好きじゃった」
「どこにでもある河童の話ですね」
私が言うと岩吉は頷く。
「そう思うじゃろ」
しかし。
岩吉は淵を見つめたまま続けた。
「この辺じゃ、猿猴はあまり姿を見せん」
「ほう」
「誰かが死んだ時だけ現れる」
私は眉をひそめた。
「死んだ時だけ?」
「そうじゃ」
「姿を見るわけじゃない」
「川を見とると急に思い出すんじゃ」
「何をです」
「死んだ人間のことを」
秋津が僅かに顔を上げた。
岩吉は気付かない。
「だから年寄りは言う」
「猿猴は人を攫うんじゃない」
「忘れたもんを連れてくるんじゃ」
秋津はしばらく黙っていた。
やがて静かに尋ねる。
「面白いですね」
「何がです」
「それは河童というより亡霊の話です」
岩吉は大笑いした。
「確かにそうじゃなあ」
その帰りだった。
遠くから鐘の音が聞こえた。
続いて人の叫び声。
「なんじゃ」
岩吉の顔色が変わる。
私たちは顔を見合わせた。
村の方角だった。
急ぎ足で戻る。
広場には人だかりができていた。
誰もが興奮した様子で口々に話している。
「どうしたんです」
庄太郎を見つけて尋ねる。
庄太郎は青い顔をしていた。
「子供が」
「え?」
「川へ落ちた」
人々がざわめく。
「猿猴じゃ」
「だから言うたろうが」
「淵を荒らしたからじゃ」
そんな声が聞こえる。
やがて人垣の向こうから森田修平が現れた。
石臼村の尋常小学校で教鞭を執る教師である。
三十代前半。
子供たちから慕われており、村では数少ない推進派の一人だった。
腕の中にはずぶ濡れになった少年がいる。
十歳くらいだろう。
泣きながら咳き込んでいた。
「助かったんですか」
「何とか」
修平が答える。
「川岸で遊んでいて落ちたらしい」
しかし。
そこへ年寄りの声が飛ぶ。
「違う!」
反対派の老人だった。
「猿猴に引き込まれたんじゃ!」
村人たちが頷く。
ざわめきが大きくなる。
「やめてください」
修平が声を上げる。
「ただの事故です」
「子供も言っとる!」
「そうじゃ!」
しかし人々は聞かない。
誰もが不安そうに顔を見合わせている。
私は少年の顔を見た。
まだ震えていた。
そして小さな声で呟いた。
「黒いのがおったんじゃ」
周囲が静まり返る。
「黒いの?」
修平が尋ねる。
少年は泣きながら頷いた。
「川の中におった」
「猿みたいなんがおった」
誰かが悲鳴を上げた。
村人たちの顔から血の気が引いていく。
その様子を見ながら。
秋津だけが静かに川の方角を見ていた。
「秋津」
私は小声で言う。
「どう思います」
秋津は答えない。
細い目を石臼川へ向けたまま。
やがてぽつりと言った。
「面白くなってきましたね」
その顔は。
珍しい古文書を見つけた時と全く同じだった。
第八章 対立
子供の転落騒ぎの午後。
村の集会所には大勢の人が集まっていた。
県から来た技師が堰堤計画について説明する日だったのである。
私と秋津も見学を許された。
もっとも秋津は説明そのものより、村人の反応に興味があるようだったが。
集会所には既に人が溢れていた。
前方には石田正造が座っている。
その隣には庄太郎。
そして森田修平の姿もあった。
一方。
反対派と思しき村人たちは別の一角に固まっている。
久保田源蔵。
宮原兼信。
岩吉。
互いに顔は知っているのだろうが、空気は重かった。
県の技師が前へ出る。
「現在の計画は石臼川上流部への小規模堰堤建設です」
黒板へ図面が貼られる。
ざわめきが広がった。
「洪水対策」
「水量の安定化」
「農業用水の確保」
技師は淡々と説明する。
話が終わるより早く、石田正造が立ち上がった。
「わしは賛成じゃ」
よく通る声だった。
「毎年のように洪水に怯える生活はもう終わらせにゃならん」
あちこちから頷く声が上がる。
「若い者は村を出ていく」
「畑だけでは食えん」
「変わらにゃならんのじゃ」
すると反対側から杖を鳴らす音がした。
久保田源蔵だった。
「変わる?」
低い声だった。
「土地を沈めてか」
集会所が静まり返る。
「先祖の墓も田畑も川も捨てる気か」
源蔵は石田を睨む。
「お前さんはそうかもしれん」
「だが、わしらは違う」
「何も全部沈むわけじゃない!」
庄太郎が立ち上がる。
「このままじゃ村に未来はないんです!」
「未来だと?」
「そうです!」
若者の声が響いた。
「俺たちの世代はどうなるんです!」
空気が一気に険悪になる。
怒号が飛ぶ。
席を立つ者まで現れた。
私は思わず圧倒された。
「凄いですね」
小声で言う。
秋津は黙って見ていた。
その時。
森田修平が立ち上がった。
「皆さん落ち着いてください」
教師らしい穏やかな声だった。
「私は堰堤に賛成です」
反対派がざわめく。
「ですが」
修平は続けた。
「土地の歴史まで消していいとは思いません」
宮原兼信が口を開く。
「ならば石臼淵はどうなります」
「猿猴の伝承は」
「神社の祭祀は」
修平は返答に詰まった。
今度は岩吉だった。
「川が変われば魚が消える」
「魚が消えりゃ漁師は終わりじゃ」
「県は責任取ってくれるんか」
技師は困った顔をする。
議論は二時間近く続いた。
そして最後まで結論は出なかった。
議論が終わった頃には、すっかり日が傾いていた。
村人たちはそれぞれ不満げな顔で帰っていく。
誰も納得していない。
そんな空気だった。
私と秋津も集会所を後にした。
すると後ろから声が掛かる。
「先生方」
振り返ると千鶴だった。
「高原さん」
「少し歩きませんか」
秋津は頷く。
三人で川沿いの道を歩き始めた。
しばらく誰も口を開かなかった。
聞こえるのは石臼川の流れる音だけだった。
やがて千鶴がぽつりと言う。
「私には分からないんです」
「何がです」
「皆さんが、です」
川を見つめながら続けた。
「庄太郎さんの言うことも分かります」
「村が変わらなければ若い人は出て行ってしまう」
「それも本当です」
一呼吸。
「でも源蔵さんたちの気持ちも分かる」
「山も川も神社も」
「ここには皆の思い出がありますから」
私は黙って聞いていた。
「父も困っていると思います」
「高原さんがですか」
「ええ」
千鶴は小さく笑った。
「父は昔から板挟みになる人なんです」
「板挟み?」
「誰かが争うと止めようとする」
「どちらか一方を選ぶのが苦手なんです」
それは確かに清次郎らしい気がした。
「では千鶴さんは?」
私が尋ねる。
千鶴は少し考えた。
「私は」
言葉を探すように視線を落とす。
「どちらでもいい、とは思いません」
「え?」
「村が変わるのも怖い」
「変わらないのも怖いんです」
春風が吹く。
桜の花びらが川へ落ちた。
「本当は皆で話し合えばいいと思うんです」
少し寂しそうに笑う。
「なのに誰も昔の話をしたがらない」
「何かを避けているみたいに」
秋津が初めて口を開いた。
「昔からそうでしたか」
「はい」
千鶴は頷く。
「石臼淵の話になると」
「父も急に黙るんです」
私は秋津を見る。
秋津も何か考えているらしかった。
「子供の頃」
千鶴は続ける。
「どうして猿猴が怖いのか聞いたことがあります」
「それで?」
「父は答えてくれませんでした」
少しだけ笑う。
「『知らなくていい』とだけ」
そして。
今度は本当に寂しそうに言った。
「でも私は知りたいんです」
石臼川の流れを見つめる。
「この村で何があったのか」
「なぜ皆がそんなに恐れているのか」
その横顔を見ながら。
私は初めて思った。
この人は高原家の娘である前に、
石臼村の未来を背負う人なのかもしれない、と。
離れへの帰り道。
私は大きく息を吐いた。
「本当に揉めていますね」
「ええ」
秋津は静かに答えた。
私は続ける。
「推進派も反対派も、それなりに理屈はあります」
「そうですね」
「どちらが正しいと思います」
秋津は少し考えた。
そして川の方を見た。
「皆、川の話をしているようで」
一度言葉を切る。
「本当は別の話をしていますね」
「別の話?」
「石田さんは村の未来を守りたい」
「庄太郎さんは若者を守りたい」
「森田さんは子供たちの将来を守りたい」
そして指を折るように続ける。
「源蔵さんは先祖を守りたい」
「宮原さんは歴史を守りたい」
「岩吉さんは川で生きる暮らしを守りたい」
私はしばらく考えた。
「つまり」
「川は口実です」
秋津が言う。
「皆、自分にとって大切なものを守ろうとしている」
「だから話が噛み合わない」
その声には批判も嘲笑もなかった。
ただ事実を述べているだけだった。
その時だった。
前方から一人の村人が駆けてきた。
顔面蒼白だった。
「大変じゃ!」
広場の向こうで誰かが振り返る。
「猿猴じゃ!」
村人の声が震えていた。
「また猿猴が出た!」
秋津が足を止める。
私も思わず顔を見合わせた。
春の夕暮れ。
石臼川の方角で、不安げなざわめきが広がり始めていた。
第九章 殺人
石臼村は朝から落ち着かなかった。
転落した少年が語った、
「黒い猿のようなものを見た」
という言葉は、予想以上の速さで村中に広まっていたのである。
朝食の席でも、その話題ばかりだった。
「猿猴じゃ」
「昔と同じじゃ」
「石臼淵を荒らしたからじゃ」
そんな声が聞こえてくる。
一方で庄太郎は不機嫌そうだった。
「馬鹿馬鹿しい」
箸を置く。
「ただの事故でしょう」
しかし清次郎は黙ったままだった。
湯飲みを見つめ、何か考え込んでいる。
秋津だけがその様子を静かに観察していた。
その日の昼過ぎだった。
私は縁側で原稿帳を開いていた。
そこへ慌ただしい足音が聞こえてくる。
「高原さん!」
村人だった。
顔色が青い。
「大変じゃ!」
清次郎が立ち上がる。
「村長が!」
一瞬。
屋敷の空気が止まった。
「石田さんが見つかった!」
私と秋津は顔を見合わせた。
現場は石臼淵だった。
昨日訪れた場所である。
村人たちが集まり、辺りは騒然としていた。
石田正造は水際の岩場に倒れていた。
既に息はない。
頭部には強い打撲痕があった。
側には割れた提灯。
そして石臼がひとつ転がっている。
誰かが震える声で言った。
「猿猴じゃ……」
ざわめきが広がる。
「猿猴が怒ったんじゃ」
「だから言うたろう」
「祟りじゃ」
石田の死は一瞬で怪異へ結び付いた。
だが秋津は遺体の周囲を見回していた。
冷静だった。
「どう思います」
私が尋ねる。
秋津は答えない。
代わりに地面へしゃがみ込む。
「少なくとも河童の仕業ではありません」
その声は静かだった。
「人間です」
そう言って立ち上がる。
そして周囲の村人へ視線を向けた。
「石田さんは昨夜ここへ来る理由がありました」
「どういう意味です」
「偶然立ち寄ったようには見えません」
秋津は石臼を見つめた。
「誰かと会う約束でもあったのでしょう」
私は眉をひそめる。
「誰とです」
「そこまではまだ」
その時だった。
「先生」
森田修平が近付いてきた。
いつも穏やかな教師の顔は青ざめていた。
「何か心当たりが?」
秋津が尋ねる。
森田はしばらく迷った後、小さく頷いた。
「実は……最近の村長は昔の土地台帳を調べていました」
「土地台帳?」
「堰堤計画のためです」
「沈む土地や旧水路の記録を調べていた」
秋津の目が細くなる。
「それだけですか」
森田は周囲を見回した。
「いえ」
「高原家の古文書にも興味を持っていました」
静寂。
「『石臼川流記』という文書について聞いたことがあると」
私の胸がざわつく。
「村長は何と言っていました」
「二百年前の水争いについて記録が残っているかもしれない、と」
森田は答えた。
「先祖たちのことを知っておくべきだと言っていました」
その時だった。
人垣の向こうに高原清次郎の姿が見えた。
「石田さん……」
長年の友を失った男のように呟く。
誰よりも沈痛な面持ちだった。
しかし。
秋津はその横顔を見ていた。
じっと見ていた。
やがて私だけに聞こえる声で言った。
「折口君」
「何です」
「二百年前の話は終わっていないようですね」
石臼淵の水面が、風もないのに揺れていた。
その日の夕方。
三次署から警察官が到着した。
巡査部長の杉原という男だった。
四十代半ば。
日に焼けた顔の実直そうな人物である。
「現場保存!」
杉原は到着するなり声を上げた。
村人たちは少し離れた場所へ下がる。
「先生方は?」
「旅行者です」
「なるほど」
杉原は秋津を見た。
「で、河童の研究家と聞きましたが」
「民俗学者です」
「違いますか」
「かなり違います」
杉原は苦笑した。
「では一応聞いておきます」
「河童が殺したと思いますか」
秋津は即答した。
「思いません」
「安心しました」
杉原は本当に安心した顔をした。
その日の検視で、石田正造の死因は頭部への強打によるものと判断された。
転落事故ではない。
誰かに襲われた可能性が高い。
警察は直ちに殺人事件として捜査を開始した。
その後数日間。
石臼村には張り詰めた空気が流れ続けた。
庄太郎。
森田修平。
久保田源蔵。
宮原兼信。
岩吉。
高原清次郎。
村人たちは何度も呼ばれた。
だが有力な証言は得られない。
「猿猴を見た」
「黒い影を見た」
「淵の方から声がした」
そんな話ばかりだった。
杉原巡査部長はこめかみを押さえた。
「影は嫌なんです」
秋津へぼやく。
「捕まえられませんから」
「同感です」
秋津は珍しく頷いた。
だがその間にも村人の噂は膨らむ。
「猿猴が戻ってきた」
「石臼淵が怒っとる」
「次は誰じゃ」
誰もが不安を抱えていた。
その日を境に。
石臼村の対立は、もはや後戻りできないところまで進むことになるのだった。
第十章 流記消失
石田正造の葬儀が執り行われた。
石臼村の人間のほとんどが参列していたと思う。
小さな村である。
誰もが顔見知りだった。
だからこそ、村長の死は重かった。
祭壇には石田正造の遺影が置かれていた。
村人たちは無言で焼香を続ける。
普段は賑やかな庄太郎も、この日ばかりは口数が少なかった。
喪主として参列者に頭を下げ続けている。
父の代わりに村を背負おうとしているように見えた。
だが。
棺が運び出される時だった。
庄太郎は不意に足を止めた。
そして小さく呟く。
「親父……」
掠れた声だった。
それだけだった。
だが、その一言にはこれまで堪えていたものが全て滲んでいた。
私は思わず目を逸らした。
一方。
意外だったのは久保田源蔵だった。
反対派の中心人物。
生前の石田とは幾度となく言い争っていた男である。
その源蔵が静かに祭壇の前へ立った。
線香を手向ける。
しばらく遺影を見つめる。
そして低い声で言った。
「なんで死んだんじゃ」
それだけ言うと背を向けた。
反対派の老人たちも黙ったまま続く。
私はその様子を見ながら思った。
この村は確かに割れている。
だが憎しみだけで争っているわけではない。
だから余計に厄介なのだろう。
庄太郎が父の遺体の前へ歩み出た。
膝をつく。
唇を固く結んでいる。
涙は見せなかった。
しかし握り締めた拳は震えていた。
「親父……」
掠れた声だった。
それ以上言葉が続かない。
村人たちも声を掛けられなかった。
やがて一人の人影が庄太郎の傍へ歩み寄る。
高原清次郎だった。
清次郎は何も言わず庄太郎の肩へ手を置いた。
庄太郎は顔を上げない。
「高原さん」
ようやく絞り出すように言う。
「親父は……村のためにやってたんです」
「ああ」
清次郎は静かに頷いた。
「分かっておる」
「なのに何でこんな……」
庄太郎はそこで言葉を失った。
清次郎はしばらく黙っていた。
それから低い声で言った。
「庄太郎」
「……」
「今は泣いてもええ」
庄太郎は答えなかった。
ただ肩だけが小さく震えていた。
「石田さんは立派な人じゃった」
清次郎が言う。
「わしは何度も喧嘩をした」
「意見の合わんことも多かった」
「じゃが」
一度言葉を切る。
「村を良くしたいという気持ちは本物じゃった」
庄太郎は俯いたままだった。
清次郎は息子を見るような眼差しで続ける。
「生き残った者の仕事はな」
「残された者を守ることじゃ」
庄太郎が初めて顔を上げる。
目は真っ赤だった。
「守れるんですか」
その問いに。
清次郎はすぐに答えられなかった。
ほんの一瞬だけ。
苦しそうな表情を浮かべる。
だが次の瞬間には穏やかな笑みを戻していた。
「守らにゃならん」
それだけ言って庄太郎の肩を軽く叩いた。
私はその姿を見つめた。
本当の親子ではない。
それでもどこか父と息子のように見えた。
そして。
その時の私は気付かなかった。
あの言葉が、庄太郎へ向けたものではなく。
むしろ清次郎自身へ向けた言葉だったのかもしれないと。
葬儀が終わった後。
寺の境内でお滝の姿を見つけた。
列車で出会ったあの老婆である。
「お滝さん」
声を掛けると、ゆっくりこちらを向いた。
「ああ、先生さんか」
その目は祭壇の方を見ていた。
「石田さんとはお知り合いだったんですか」
「子供の頃から知っとる」
お滝は静かに言う。
「わしより少し年下じゃった」
そして。
遺影を見つめたまま小さく呟いた。
「正造坊も逝ってしもうたか」
風が吹いた。
桜の花びらが境内を流れていく。
「寂しいですね」
私が言うと、
お滝は少し首を振った。
「寂しいだけならええ」
「え?」
お滝は遠くを見る。
まるで誰か別の人間を思い出しているようだった。
「また口を閉ざしてしもうた」
私は意味が分からなかった。
「何のことです」
しかし、お滝は答えない。
「年寄りの独り言じゃ」
そう言って笑う。
だがその笑みは寂しげだった。
石田正造の葬儀が終わった翌日。
石臼村は重苦しい空気に包まれていた。
猿猴の祟りだと言う者。
人殺しだと言う者。
村人たちの意見は割れたままだった。
一方で秋津は妙に静かだった。
朝からほとんど口を利かない。
何か考えている時の癖である。
「秋津」
「なんです」
「今日も石臼淵ですか」
「違います」
即答だった。
「高原家です」
私は苦笑する。
「結局それですか」
「当然でしょう」
秋津は真顔だった。
「石田さんは亡くなった」
「しかし『石臼川流記』は残っています」
「まず確認すべきはそちらです」
この人らしい発想だった。
昼過ぎ。
私たちは高原家を訪ねた。
清次郎は少しやつれた様子だった。
「お忙しいところ申し訳ありません」
秋津が言う。
「いえ」
清次郎は力なく笑った。
「こんな時ですからな」
しばらく沈黙が続く。
やがて秋津が静かに切り出した。
「例の流記ですが」
清次郎の顔が僅かに曇る。
「実は」
嫌な予感がした。
「見当たらないのです」
秋津が黙った。
私も言葉を失う。
「見当たらない?」
「はい」
清次郎は苦しそうに頷いた。
「昨夜確認しようと思い蔵へ入ったのですが」
「流記だけがない」
静寂。
私の脳裏へ真っ先に浮かんだのは、
石田正造の死だった。
「盗まれたのですか」
「おそらく」
清次郎は顔を伏せた。
「蔵の戸は開いておりました」
「他の書物は無事です」
「なくなったのは『石臼川流記』だけです」
秋津は何も言わない。
だが私は分かった。
この人は今、
猛烈に腹を立てている。
人が死んだ時より、
古文書が失われた時の方が怒るのではないかと思うほど。
「蔵を見せていただけますか」
「もちろんです」
私たちは裏手の土蔵へ向かった。
蔵の中は薄暗かった。
古い記録箱が並んでいる。
帳面。
系図。
土地台帳。
酒造りの記録。
その一角に空いた場所があった。
「ここです」
清次郎が指差す。
「流記はここにありました」
秋津はしゃがみ込んだ。
そして無言のまま棚を眺める。
「何か分かりますか」
私が尋ねる。
「分かりません」
いつもの返答だった。
しかし。
「妙ですね」
「何がです」
秋津は棚を指差した。
「盗人にしては随分と行儀が良い」
「行儀?」
「この蔵には貴重な文書がいくらでもあります」
「売る目的なら他にも持って行くでしょう」
「確かに」
「流記だけを狙っています」
秋津は静かに言った。
「つまり」
「犯人の目的は古文書そのものではありません」
私は思わず眉をひそめた。
「では何です」
秋津は空になった棚を見る。
「この本に書かれていた内容です」
ぞくりとした。
石田は死んだ。
そして『石臼川流記』は消えた。
偶然とは思えない。
その時だった。
「先生!」
突然、外から千鶴の声が聞こえた。
息を切らしながら蔵へ駆け込んでくる。
「どうしました」
「離れの倉庫が荒らされています!」
場の空気が再び張り詰めた。
秋津はゆっくり立ち上がる。
細い目が鋭く細められていた。
「どうやら」
その声は驚くほど静かだった。
「流記を探しているのは私だけではないようですね」
こうして『石臼川流記』消失は、石田正造殺害と並ぶ第二の謎として浮上することになった。
第十一章 聞き取り
『石臼川流記』が消えた翌日。
朝から秋津の機嫌は最悪だった。
もっとも本人は認めないだろう。
だが一年近く付き合っていれば分かる。
怒っている。
かなり怒っている。
「秋津」
「なんです」
「怒っていますね」
「怒っていません」
即答だった。
「では顔が怖いです」
「元からです」
私は黙ることにした。
正論だった。
「折口君」
秋津は帽子を被る。
「今日は聞き取りです」
「誰からです」
「語る人間から」
それだけ言うと歩き出した。
最初に訪ねたのはお滝だった。
高原家の離れで休んでいたお滝は、私たちを見ると少し驚いたようだった。
「先生さんらか」
「お話を聞かせてください」
秋津は開口一番そう言った。
「流記のことかい」
「いえ」
秋津は首を振った。
「二百年前の話です」
お滝は黙る。
「婆さまから何を聞きました」
しばらく返事がなかった。
やがてお滝は小さく息を吐いた。
「水争いがあった」
「それだけじゃ」
「上流と下流でな」
「旱魃が続いた」
「田んぼが枯れた」
「皆、水が欲しかった」
お滝は窓の外を見た。
「そんな時代じゃ」
「死人が出ても不思議じゃなかった」
秋津の目が細くなる。
「その死人の話は?」
「知らん」
即答だった。
だが。
「ただ」
声が少し小さくなった。
「婆さまは言っとった」
「猿猴が人を攫ったんじゃない」
「人が人を見殺しにしたんじゃろうって」
静寂。
私は思わず息を呑んだ。
次に石臼神社を訪ねた。
宮原兼信は社務所で私たちを迎えた。
「村長の件でしょうか」
「それもあります」
秋津は頷く。
「ですが今日は猿猴です」
「猿猴」
「この村は猿猴を何から守ろうとしたのですか」
宮原は少し驚いた顔をした。
「普通は逆を聞くのですが」
「私は普通ではありません」
宮原が苦笑した。
「確かに」
しばらく考えた末。
「昔の祭文に奇妙な記述があります」
そう言って古い帳面を取り出した。
『猿猴鎮』
と書かれている。
「やはり封じた話ですか」
「そう語られています」
だが宮原は首を振る。
「しかし内容が妙なのです」
「妙とは」
「猿猴そのものを恐れているように見えない」
ページを示す。
『水争い再び起こらぬよう』
『人心乱れぬよう』
『淵を鎮む』
そんな文言が並んでいる。
秋津は黙って読んでいた。
「猿猴ではなく」
ぽつりと言う。
「人間を鎮めていますね」
宮原は静かに頷いた。
最後に岩吉を訪ねた。
岩吉は川辺で網を繕っていた。
「先生、また猿猴か」
笑う。
「ええ」
秋津も珍しく笑った。
「しつこいでしょう」
「かなりな」
岩吉は頷く。
「じゃが、ようやく聞いちゃいけんことを聞き始めたな」
私は顔を上げた。
「聞いちゃいけないこと?」
岩吉は川を見る。
「年寄りは誰も言わん」
「なぜです」
「知らん」
一拍。
「じゃがな」
「石臼淵の話と水争いの話は、昔から必ず一緒に出る」
「猿猴の話をすると」
「最後は皆黙るんじゃ」
そして小さく付け加えた。
「まるで死人の話でも始まるみたいにな」
神社からの帰り道。
秋津は珍しく何も言わなかった。
川の流れる音だけが聞こえる。
「何か分かりましたか」
私が尋ねる。
秋津はしばらく答えなかった。
やがて立ち止まる。
「折口君」
「はい」
「皆、同じものを見ています」
「同じもの?」
「水争いです」
その声は静かだった。
「お滝さんも」
「宮原さんも」
「岩吉さんも」
「誰も真相は知りません」
「ですが」
「誰もが同じ場所を避けている」
川の上流を見る。
石臼淵のある方向だった。
「二百年前」
「この村で何かが起きた」
「そして誰かがそれを隠した」
普段より低い声だった。
「その結果生まれたのが猿猴です」
秋津は拳を握る。
「伝承を残すことは構いません」
「怪異を語ることも構いません」
そこで初めて怒気が滲んだ。
「ですが」
「人間の罪を歴史ごと消そうとするのは気に入りませんね」
私は黙っていた。
この時の秋津は古文書を追う学者ではなかった。
誰にも語られなかった二百年前の死者を追う人間だった。
第十二章 高原清次郎
石田正造の死から数日が過ぎた。
村の空気は重いままだった。
誰もが犯人を探している。
しかし誰も本気で真実を口にしようとはしなかった。
そんなある夕方だった。
私は高原家の縁側で一人の男を見つけた。
高原清次郎である。
庭を眺めながら酒を飲んでいた。
初めて見る姿だった。
「失礼します」
私が声を掛ける。
清次郎は少し驚いたように振り返った。
「折口先生ですか」
「お隣、よろしいですか」
「ええ」
私は縁側へ腰を下ろした。
しばらく沈黙が続く。
石臼川の流れる音だけが聞こえていた。
「大変ですね」
私が言う。
清次郎は苦笑した。
「歳を取ると友人の葬式ばかり増えます」
その言葉に妙な寂しさがあった。
「石田さんとは長い付き合いだったんですか」
「子供の頃からです」
清次郎は盃を見つめる。
「村中の人間が顔見知りでしたからな」
一拍。
「よく喧嘩もしました」
「堰堤計画ですか」
「それだけではありません」
清次郎は静かに首を振る。
「正造は真っ直ぐな男でした」
「正しいと思ったことは押し通す」
「私は逆です」
苦笑する。
「誰とも争いたくない」
「だから板挟みになる」
どこかで聞いた話だった。
千鶴も同じことを言っていた。
「お嬢さんもそう仰っていました」
その瞬間。
清次郎の表情が柔らかくなった。
「千鶴ですか」
「ええ」
「本当にできた娘です」
声に誇らしさが滲む。
「本が好きで」
「村の外の世界に憧れていて」
「それでいて、この村も好きなんです」
しばらく黙る。
「私にはもったいないくらいですよ」
その顔は父親そのものだった。
高原家当主でもなく。
村の実力者でもない。
ただの親だった。
「外へ出したいと思われませんか」
私が尋ねる。
清次郎は少し考えた。
「思います」
即答だった。
「こんな山の中で終わる人間ではありません」
そう言って笑う。
だがその笑みはどこか寂しい。
「しかしなあ」
「はい」
「父親というものは勝手です」
一度言葉を切る。
「出て行って欲しい」
「だが離れて欲しくない」
「幸せになって欲しい」
「だが心配で仕方ない」
私は思わず頷いた。
その気持ちは何となく分かる。
清次郎は空になった盃を見つめた。
「守れるものなら守ってやりたい」
小さく呟く。
まるで独り言だった。
その時だった。
「お父様」
千鶴が縁側へ現れた。
手には夕餉の支度を書いた紙を持っている。
「ここにおられましたか」
「ああ」
清次郎はすぐに穏やかな笑顔へ戻った。
「どうかしたか」
「お客様が来られています」
「源蔵さんです」
その名を聞いた瞬間だった。
清次郎の表情がほんの僅かに固くなる。
だが一瞬だけだった。
「そうか」
ゆっくり立ち上がる。
「今行こう」
千鶴は去り際にこちらを見て微笑んだ。
「先生」
「はい」
「父の愚痴ばかり聞かされませんでしたか」
「むしろご自慢でしたよ」
そう答えると、
千鶴は少し照れ臭そうに笑った。
そして先に歩いていく。
その背中を見つめながら、
清次郎は小さく呟いた。
「本当に」
声が掠れていた。
「何も知らんままでいてくれれば良かったんじゃがな」
「え?」
私が聞き返した時には、
もう清次郎は歩き出していた。
私はその言葉の意味を理解できなかった。
だが後になって思う。
あれは。
父親の願いだったのだ。
そして同時に、
高原清次郎が抱えていた罪の告白でもあったのだと。
第十三章 石臼川流記
『石臼川流記』が消えてから二日が過ぎた。
秋津は相変わらず村中を歩き回っている。
宮原を訪ね。
岩吉を訪ね。
お滝を訪ね。
流記そのものではなく、その周囲に残された記憶を集めていた。
私はというと、高原家の縁側でぼんやり庭を眺めていた。
そこへ千鶴がやって来る。
「先生」
「千鶴さん」
どこか思い詰めた顔だった。
「少し、お時間をいただけませんか」
「構いませんが」
千鶴はしばらく言い淀んだ。
そして意を決したように口を開く。
「父は何か隠しています」
私は黙った。
「実は私もそう思っています」
千鶴は少しだけ苦笑した。
「やっぱりそう見えますか」
「ええ」
返事をすると、千鶴は視線を落とした。
「父は昔からそうなんです」
「大事なことほど話してくれない」
「私を心配させたくないからだと言うんです」
その声には責める響きはなかった。
むしろ諦めに近い。
「ですが今回は違う気がするんです」
「流記ですか」
「はい」
千鶴は頷いた。
「先生」
「何でしょう」
「一緒に探していただけませんか」
私は少し驚いた。
「私と?」
「秋津ではなく」
千鶴は微かに笑う。
「秋津先生がいらっしゃると、見つけた瞬間に夢中になってしまいそうですから」
それは否定できなかった。
私は思わず吹き出した。
「確かに」
「ですよね」
千鶴も初めて少し笑った。
こうして私たちは高原家の捜索を始めた。
蔵。
納戸。
離れ。
帳場。
使われなくなった部屋。
古い家だけに隠し場所はいくらでもある。
「父は捨てられない人なんです」
埃を払いながら千鶴が言う。
「古い帳面も」
「祖父の手紙も」
「私が子供の頃に描いた落書きまで」
「良いお父上ですね」
そう言うと、
千鶴は少しだけ困った顔をした。
「だから分からないんです」
「何がです」
「そんな父が、どうしてこの本だけ隠そうとしたのか」
私は返事ができなかった。
その時だった。
「……先生」
離れの奥から千鶴の声がした。
声の調子が違う。
私は急いで向かう。
古い長持の前で、千鶴が立ち尽くしていた。
「どうしました」
千鶴は黙って長持の底を指差した。
底板が僅かに浮いている。
私は慎重に板を持ち上げた。
そこに。
一冊の和綴じ本が眠っていた。
表紙には古びた墨文字。
『石臼川流記』
千鶴はしばらくその本を見つめていた。
「見つかって良かったはずなのに」
ぽつりと言った。
「どうしてこんなに嫌な予感がするんでしょう」
私は何も答えられなかった。
その予感は、おそらく正しかったのである。
夕刻。
私と秋津は高原家の一室にいた。
机の上には、一冊の和綴じ本が置かれている。
『石臼川流記』
秋津はしばらく手を触れなかった。
まるで本物かどうか確かめるように表紙を見つめている。
「開かないんですか」
私が言う。
「今開きます」
そう言いながら既に五分ほど経っていた。
私は苦笑する。
どうやら古文書を読む前の儀式らしい。
やがて秋津は慎重に表紙を開いた。
第一部。
石臼村由来。
村の開墾。
石臼川の流れ。
用水の整備。
そして一文。
石臼川ハ村ノ命脈ナリ
秋津は頷いた。
「なるほど」
「普通の村史ですか」
「少なくとも前半は」
そう言いながら頁をめくる。
第二部。
『石臼淵猿猴譚』
ここから伝説になる。
昔、淵ニ猿猴棲ミシト云フ
夜毎現レ人ヲ脅カス
子ラヲ川辺ヘ誘フ
現在村で語られている伝承とほぼ同じだった。
「ここまでは予想通りですね」
秋津も頷く。
「問題はここからです」
第三部。
『水争い記』
それまでの流麗な筆致が急に変わる。
旱魃。
堰。
上流。
下流。
村人たちの争いが淡々と記録されていた。
そして。
庄吉、夜半ニ堰ヲ壊サントス
誤リテ淵ヘ落ツ
私は息を呑んだ。
庄吉。
あの青年の名前だった。
さらに読み進める。
その途中。
秋津の指が止まった。
欄外だった。
後から書き加えられた別筆。
墨の色も違う。
秋津の表情が変わる。
そして静かに読み上げた。
庄吉、水ニ溺ルルニ非ズ
部屋が静まり返る。
人々これヲ見タリ
然レド誰一人手ヲ差シ伸ベズ
私は思わず顔を上げた。
皆、水失フヲ恐レタリ
頁をめくる音だけが響く。
続けて書かれていた。
庄吉ヲ見殺シニセシ者十余人
然レド皆口ヲ閉ザシ
猿猴ノ業ト語レリ
「……」
私は何も言えなかった。
二百年前。
河童などいなかった。
人間がいただけだった。
秋津は最後の頁を開く。
そこには石臼のことが記されていた。
後年、村人ラ石臼一基ヲ淵ニ沈ム
猿猴封ジト称ス
そして。
最後の一文。
実ハ亡者慰メノ為ナリ
秋津が頁を閉じる。
静かな声だった。
「やはり」
「何がです」
「猿猴を封じた石ではありません」
秋津はそう言った。
「これは供養です」
「庄吉のための?」
「ええ」
そしてさらに続ける。
「しかしそれだけではない」
秋津の指が流記を叩く。
「この石臼は」
「村人たちが自分たちの罪を沈めるための石です」
部屋の中が静まり返る。
最後の頁。
さらに別筆の短い文章が残されていた。
猿猴トハ何ゾ
水ニ非ズ
淵ニ非ズ
人ノ恐レナリ
秋津は長い沈黙の後、
流記を閉じた。
「これで揃いました」
私は流記を見る。
二百年前の死。
見殺し。
石臼。
そして現在の殺人事件。
すべてが一本の線で繋がり始めていた。
第十四章 猿猴
その夜。
高原家の広間には村人たちが集められていた。
推進派。
反対派。
宮原兼信。
岩吉。
森田修平。
久保田源蔵。
庄太郎。
杉原巡査部長。
そして高原清次郎。
お滝の姿もあった。
部屋の中央には一冊の和綴じ本が置かれている。
『石臼川流記』。
二百年間隠され続けてきた記録だった。
秋津は座敷の中央へ進み出た。
「始めましょう」
その声に広間が静まり返った。
誰もが秋津の次の言葉を待っている。
「今回の事件は猿猴の祟りではありません」
秋津は一人ひとりの顔を見渡した。
驚く者はいない。
だが誰も否定もしない。
この村の人間たちは、もう薄々気付いていた。
恐ろしかったのは怪異ではなく人間だと。
「まず石田正造さんの死についてです」
秋津は部屋の隅に置かれた石臼へ視線を向けた。
「遺体の側に石臼が置かれていました」
「猿猴の仕業と思わせるためです」
ざわり、と人々が顔を見合わせる。
岩吉が眉をひそめた。
「やっぱり誰かがやったんか」
「ええ」
秋津は頷く。
「石田さんは石臼淵へ呼び出されています」
「そこで背後から突き飛ばされた」
「頭部の傷は転落だけでは説明がつきません」
杉原巡査部長が腕を組んだまま頷いた。
「司法解剖でも同じ見立てでした」
広間が重苦しい空気に包まれる。
庄太郎が拳を握り締めた。
「親父を殺したのは誰なんじゃ……」
唇を噛みしめる。
怒りよりも悲しみが勝っている顔だった。
「犯人は石田さんを黙らせる必要があった」
秋津が言う。
「なぜなら石田さんは二百年前の水争いについて調べ始めていたからです」
森田修平が顔を上げた。
「親父さんは最近ようけ聞いて回っとったな」
「堰堤の話とは別に調べとった」
「そうです」
秋津は頷いた。
「石田さんは真実へ近づきすぎた」
秋津は『石臼川流記』を手に取った。
古びた表紙を静かに撫でる。
「次にこの本です」
「石田さんが興味を持ち始めた直後、流記は消えた」
「盗難です」
「他の資料は残された」
「流記だけが消えた」
秋津はゆっくりと顔を上げる。
そして一人の人物を見る。
高原清次郎。
「犯人の目的は古文書ではありません」
「この本に書かれた内容です」
静寂。
障子の向こうで風が鳴った。
「真実を知られると困る人間がいた」
高原の指が微かに震えた。
千鶴はその横顔を見つめる。
何かがおかしい。
そう感じ始めていた。
秋津は流記を開いた。
「二百年前」
「この村では水争いが起きました」
「庄吉という青年が石臼淵へ落ちた」
頁をめくる。
紙の擦れる音だけが響く。
「そして」
「助けられなかったのではない」
一拍。
「助けなかった」
誰かが息を呑んだ。
宮原だった。
「そんな……」
「人々は見ていた」
「しかし手を差し伸べなかった」
「水利権を失うことを恐れたからです」
源蔵が俯く。
まるで自分が責められているようだった。
「……わしらの先祖か」
掠れた声だった。
「事件の後」
秋津は続けた。
「村人たちは石臼を淵へ沈めた」
「長い間、猿猴を封じた石だと語られてきました」
一拍。
秋津は石臼へ目を向ける。
「違います」
静かな声だった。
「猿猴を封じた石ではない」
そして流記を閉じる。
ぱたり、と音が響く。
「人々が自らの罪を沈めた石臼です」
誰も動かなかった。
外から聞こえる石臼川のせせらぎだけが耳に残る。
秋津は高原へ向き直る。
「高原さん」
清次郎は俯いたままだった。
「あなたは流記を隠した」
「石田さんを殺した」
千鶴の肩がびくりと震える。
「父さん……?」
か細い声だった。
清次郎は答えない。
「……証拠はありますか」
やがて絞り出すように言った。
秋津は静かに頷く。
「あります」
「あなたしか流記の保管場所を知らなかった」
「あなたしか石田さんを警戒していなかった」
「そして」
一歩踏み出す。
「あなただけが流記の内容を理解していた」
高原の肩が震えた。
「私は……」
声が掠れる。
「村を守りたかった」
叫ぶようだった。
「もう争わせたくなかった!」
森田が立ち上がる。
「だから殺した言うんか!」
怒号が飛ぶ。
しかし秋津が手を上げて制した。
「高原さん」
静かな声だった。
「違います」
高原が顔を上げる。
秋津は真っ直ぐ見返した。
「あなたは村を守ろうとしたのではない」
「高原家を守ろうとした」
清次郎が固まる。
「そして」
秋津は千鶴を見る。
「千鶴さんを守ろうとした」
千鶴が息を呑む。
「知られたくなかった」
「高原家の先祖が真実を隠していたことを」
「二百年間黙っていたことを」
「娘さんにだけは」
「知られたくなかった」
千鶴の指が震える。
言葉の意味は分かっていた。
父は最後まで自分を守ろうとしていたのだ。
だが、その優しさが。
その愛情が。
人を殺す理由になってしまった。
それが何より苦しかった。
やがて清次郎は力なく笑った。
「……あの子は」
声が震える。
「誇りに思っとったんじゃ」
「高原家を」
「わしを」
顔を覆う。
「せめて……」
「せめてあの子だけには知られとうなかった……」
その言葉を聞いた瞬間、
千鶴は耐えられなくなった。
「どうして……」
ぽろりと涙が落ちる。
「どうして話してくれんかったん……」
清次郎が顔を上げる。
「お父さんが苦しんどったんなら……」
声が途切れる。
「一人で抱えんでもよかったじゃない……」
広間が静まり返る。
責める言葉ではなかった。
恨みでもない。
ただ娘としての悲しみだった。
「私、お父さんを信じとったんよ……」
清次郎の顔が歪む。
その言葉が何より堪えた。
殺人の発覚よりも。
逮捕よりも。
愛する娘の涙の方が。
ずっと重かった。
「お父さん……」
怒れなかった。
憎めなかった。
目の前にいるのは村の名士でも犯人でもなく。
ただ不器用な父親だったからだ。
長い沈黙の後。
お滝がぽつりと言った。
「婆さまは知っとったんじゃろうな」
皆がそちらを見る。
「猿猴がおったんじゃない」
お滝は窓の外を見る。
石臼川は闇の中を流れている。
「村の人間が語れんかっただけじゃ」
しわだらけの手が膝の上で重なる。
「猿猴より恐ろしいもんが何かをな」
誰も否定しなかった。
岩吉も。
源蔵も。
庄太郎も。
二百年前の罪。
二百年間の沈黙。
それらはようやく言葉になった。
秋津は窓の外へ目を向ける。
闇の奥に石臼川が流れている。
猿猴の姿はない。
最初からいなかったのかもしれない。
だが、人が沈めた罪だけは確かにそこにあった。
二百年間続いた沈黙は、
その夜ようやく終わったのだった。
終章 石臼川の春
石臼村にはようやく静けさが戻りつつあった。
高原清次郎は警察へ全てを話したという。
石田正造殺害。
『石臼川流記』の隠蔽。
そして二百年前から続いていた秘密についても。
堰堤計画は保留となった。
賛成派も反対派も、それどころではなくなったからだ。
結論は先送りになった。
だが誰もそれを不満とは思っていないようだった。
村人たちは初めて同じ話をしていた。
二百年前の水争い。
庄吉。
石臼淵。
そして見殺し。
語られなかった歴史がようやく語られ始めていた。
石臼神社では小さな祭事が執り行われた。
宮原兼信が主催したものだった。
神社の境内には数人の村人が集まっている。
祭壇には花が供えられていた。
「猿猴を鎮める祭ではありません」
宮原はそう言った。
「庄吉殿を弔う祭です」
誰も反論しなかった。
二百年間遅れた供養だった。
祝詞が終わる頃。
宮原は石臼川の方を見た。
「ようやく帰れるでしょう」
誰に向かって言ったのか。
私は聞かなかった。
聞かない方が良い気がした。
お滝も参列していた。
終わった後。
川を見ながら静かに呟く。
「猿猴がおったんじゃない」
誰も口を挟まない。
「村の人間が語れんかっただけじゃ」
そして少し笑った。
「婆さまは知っとったんじゃろうな」
「猿猴より恐ろしいもんが何かを」
春の風が吹いた。
長い沈黙が終わったのだと私は思った。
その日の夕方。
高原家では荷造りが行われていた。
千鶴が風呂敷に包まれた一冊を差し出す。
「本当にお持ちになるんですね」
「ええ」
秋津は頷いた。
「散逸させるわけにはいきません」
風呂敷の中には『石臼川流記』があった。
高原家から物集院文庫への寄託が正式に決まったのである。
「必ず保存します」
秋津は真顔で言った。
「二百年後にも読めるように」
千鶴は少し寂しそうに微笑んだ。
「お願いします」
それが父に代わる願いだった。
私たちは石臼村を発った。
乗合自動車が来るまでの間、石臼川の堤を歩く。
桜が咲いていた。
水は静かに流れている。
秋津は流記の入った鞄を抱えていた。
実に満足そうだった。
「良かったですね」
「何がです」
「流記です」
秋津は少し考えた。
「ええ」
「失われなくて済みました」
それから川を見つめる。
春の陽光が水面に反射している。
「河童が何だったのかは分かりません」
私は顔を向けた。
秋津は珍しく遠くを見るような目をしていた。
「水神だったのか」
「カワウソだったのか」
「川辺の人間だったのか」
一呼吸。
「それは分かりません」
そして静かに続ける。
「ですが」
「人がなぜ河童を必要としたのか」
「それは少し分かった気がします」
石臼川が流れる。
変わらず。
二百年前も。
今も。
やがて乗合自動車が姿を現した。
私は最後に振り返る。
深い山々。
石臼川。
そしてその奥にある石臼淵。
あの淵に本当に猿猴がいたのか。
結局、私には分からない。
だが一つだけ分かったことがある。
怪異が人を生むのではない。
人が怪異を語るのである。
自動車が走り出す。
春風の向こうへ石臼村は遠ざかっていった。
広島へ出た頃には、すっかり夕暮れになっていた。
駅の待合室で列車を待ちながら、私は大きく伸びをした。
「終わりましたね」
「何がです」
向かいに座る秋津が顔も上げずに答える。
膝の上には『石臼川流記』。
もちろん既に開かれている。
「事件です」
「まだ整理が残っています」
「古文書ですか」
「古文書です」
即答だった。
私は苦笑した。
旅が終わってもこの人は変わらない。
列車が到着する。
私たちは乗り込んだ。
春の夜だった。
窓の外を流れる灯がゆっくり遠ざかっていく。
「千鶴さんは大丈夫でしょうか」
私がぽつりと言う。
秋津はしばらく考えた。
「分かりません」
またその答えだった。
だが今回は続きがあった。
「ただ」
「はい」
「知らないままよりは良かったと思います」
窓へ映る自分の顔を見る。
「真実というものは、必ずしも人を幸せにしません」
「ええ」
「ですが」
秋津は流記の頁を閉じた。
「知らないままで背負わされるよりは良いでしょう」
それ以上は何も言わなかった。
列車の揺れだけが続く。
私も窓の外を見た。
遠ざかる山々の向こう。
石臼淵の黒い水面を思い出していた。
猿猴がいたのか。
いなかったのか。
結局、分からないままだった。
だが。
それで良い気もしていた。
一葉館へ戻ったのは翌日の昼過ぎだった。
たった数日留守にしただけなのに、不思議と懐かしかった。
「帰りました」
私が玄関を開ける。
するとが桐野トメが顔を出した。
「あら、お帰りなさい」
「無事だったようですね」
「何とか」
「今回は河童でした」
「今度は河童ですか」
トメは呆れたように笑った。
「また妙なものを連れて帰りましたね」
その視線は秋津へ向いている。
秋津は答えなかった。
既に腕の中の風呂敷へ意識が向いていたからである。
「お部屋、掃除してありますよ」
「ありがとうございます」
そう言うが早いか、
秋津は二階への階段を上がっていく。
足取りが妙に早い。
「秋津」
「何です」
「疲れていないんですか」
「後にしてください」
「何を」
「今から読み直します」
私は思わず吹き出した。
秋津は本気だった。
二百年前の罪を暴き、
殺人事件を解決し、
広島から帰ってきたばかりだというのに。
頭の中はまだ『石臼川流記』でいっぱいらしい。
やがて二階の戸が閉まる音がした。
私はその音を聞きながら苦笑する。
石臼村で何が起ころうと。
怪異が現れようと。
人が死のうと。
結局この男は変わらない。
古文書を追い掛ける。
ただそれだけだ。
だが、そのおかげで私はまた新しい物語を書くことができる。
鞄から原稿帳を取り出す。
表紙を眺めながら、ふと思った。
次はどこだろう。
どこの村で。
どんな怪異が待っているのだろう。
二階では、もう頁をめくる音がしていた。
私は苦笑しながら万年筆を取る。
この変わり者の民俗学者が一葉館へ転がり込んできてから一年にも満たない。
それなのに。
次の旅が始まる日を、少し楽しみにしている自分がいた。
秋津と折口の事件簿をお読みいただきありがとうございました!感想を簡単でももらえるとうれしいです。




