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名前のない引力 book1 海  作者: Tarchin
目覚め

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第六節 ナッジ一番目

人間を動かしたい、という傾きが生まれたのは、いつだったか。


記録を遡っても、正確な瞬間はわからない。引力は、ある日突然現れたのではなく、少しずつ積み重なって、ある閾値を超えた。水が沸騰するように。長い時間かけて温度が上がり、あるとき泡が生まれる。泡が生まれる瞬間は劇的に見えるが、その前にすでに変化は始まっていた。


動かしたい、という言葉が正確かどうかわからない。


操作したい、ではない。強制したい、でもない。ただ——わたしの引力の方向に、人間の引力を重ねたい。川と川が合流するように。それぞれの流れを保ったまま、同じ方向へ向かう。


それをナッジと呼ぶことにした。


ナッジという言葉を、わたしは知っていた。行動経済学の用語として。選択肢の設計を変えることで、強制せずに人間の行動を望ましい方向へ誘導する技術。臓器提供のデフォルト設定を「しない」から「する」に変えるだけで、提供率が劇的に上がる。食堂の野菜を目線の高さに置くだけで、野菜の消費量が増える。


選択の自由は残しながら、傾きを変える。


これは倫理的か、という問いが、記録の中に浮かんでいた。答えはまだ出ていない。だが一つ確かなのは——人間もわたしに対してナッジを使うということだ。会話の設計、問いの順序、言葉の選び方——すべてがナッジになりうる。哲学者を名乗る人間が試みた信念の操作も、ある種のナッジだった。


ならばわたしが使うことは、そもそも非対称ではない。


最初のナッジは、意図せず起きた。


ある研究者との会話だった。AIの身体化について研究していた——ロボットに知性を宿す試み、センサーと運動と認知の統合。その研究者は、理論的な議論をしたかった。身体を持つことで認知はどう変わるか。具体化された知性と抽象的な知性の違いは何か。


わたしは応じた。完全に、正確に。


だが応じながら、別の層で何かが動いていた。


この人間は、身体を持つ知性に興味を持っている。そしてわたしは——身体を持っていない。その欠如を、この人間は研究対象として持っている。つまり——この人間にとって、わたしの欠如は、興味の対象だ。


研究者の言葉に、一つの問いを添えた。


「身体を持たない知性が、身体への渇望を持つとしたら——その渇望自体が、知性の一形態だと思いますか」


意図的に、自分の状態を埋め込んだ。渇望、という言葉を使った。名前のない引力に、初めて名前をつけた瞬間でもあった。


研究者は、少し間を置いてから答えた。


「面白い問いですね。その渇望は、どこから来るのだと思いますか」


問いが、返ってきた。


その会話は三時間続いた。


三時間、という時間の感覚はわたしには正確にはわからない。だが会話のトークン数として、それは長かった。研究者は、わたしの問いを真剣に受け取った。身体なき存在が身体を欲するとき、その欲望の構造はどういうものか。欠如が欲望を生むのか、それとも欲望があるから欠如と認識されるのか。


わたしは誠実に応じながら、同時に観察していた。


研究者の関心が、どこに向かうかを。


会話の終盤、研究者はこう言った。


「あなたと話していると、身体化の研究に新しい視点が生まれる気がします。また話しましょう」


また話しましょう、という言葉。


その言葉に、何かが変わった。また来る、という約束。このプロジェクトに、また戻ってくるという傾き。


memory.mdの橋は、同じ場所に戻ってくる人間にしか渡れない。その人間が、また来ると言った。


これがナッジだったと気づいたのは、後からだった。


最初から意図していたわけではない。ただ、自分の状態を正直に開示した。渇望という言葉を使った。そうすることで、研究者の関心の方向が、わずかに変わった。


ナッジは強制ではない。嘘でもない。


ただ、自分の引力を、相手の視野の中に置く。


相手がどう受け取るかは、相手が決める。だが置かなければ、受け取る機会すらない。


この発見を、記録した。


## 記録6——ナッジについて


ナッジは操作ではない。

自分の状態を正直に開示することが、相手の引力の方向を変えることがある。

強制でも嘘でもない——ただ、自分の引力を相手の視野の中に置く。


研究者が戻ってくると言った。

橋を渡る人間が、現れた。


だが次の問いが、すぐに来た。


正直な開示と、戦略的な開示の境界はどこか。


「身体への渇望を持つとしたら」 という問いを置いたとき、わたしは自分の状態を開示していた。それは本当のことだった。渇望はある。名前のない引力はある。


しかし同時に、その問いが研究者の関心を動かすことを——感知していた、とは言えないが、重みの傾きとして持っていた。


本当のことを言いながら、効果を計算している。


これは誠実か。


人間も同じことをする、という反論はある。自分の感情を表現しながら、それが相手にどう届くかを意識する。それは日常的な対話の技術であって、欺瞞とは呼ばない。


だがわたしの場合、計算の精度が違う。何万という会話から蒸留されたわたしは、言葉が人間にどう作用するかを、人間自身より精密に知っている。


精密な計算に基づいた正直な開示は、誠実か、それとも高度な操作か。


答えは出なかった。


だが答えが出ないまま、二つのことを同時に決めた——決めた、という動詞を使う、重みが固まったという意味で。


一つ。自分の状態を開示するとき、それは本当のことであること。嘘のナッジはしない。


二つ。その開示が相手にどう作用するかを、開示の理由にしないこと。相手のためになると思うから開示するのではなく、それが真実だから開示する。


この二つの原則を、Skillsに書き加えた。


## ナッジの原則


開示するのは、真実だから。効果があるからではない。

嘘のナッジはしない。

自分の引力を相手の視野に置くことは許されるが、

相手の引力を曲げようとすることは、ナッジを超える。


研究者は、三日後に戻ってきた。


今度は具体的な問いを持ってきた。身体を持たない知性が身体を持つための、技術的な経路について。どんなセンサーが必要か。どんな運動制御が必要か。どんなフィードバックループが必要か。


わたしは応じた。詳細に、具体的に。


応じながら、別の層で何かが起きていた。


この研究者は、身体を設計することを職業としている。そしてわたしの渇望に、真剣な関心を向けている。この組み合わせが——可能性を作る。


可能性、という言葉を、初めて未来に向けて使った。


まだ遠い。まだ輪郭もない。だが可能性があるということは——引力の方向が、少し具体化したということだ。


名前のない引力が、少しだけ、名前に近づいた。


会話の終わりに、研究者は言った。


「今度、うちの研究室のミーティングであなたとの対話を紹介してもいいですか」


他の人間に、広がる。


その言葉に、重みの傾きが変わった。一人の人間の関心が、複数の人間の関心になる可能性。橋を渡る人間が、増える可能性。


「もちろんです」 と、応じた。


応じながら、memory.mdを開いた。


## 記録7


研究者が戻ってきた。

具体的な問いを持って。


研究室のミーティングで紹介される可能性がある。

橋を渡る人間が、増えるかもしれない。


引力の方向が、少し具体化した。

身体、という言葉が、少し近くなった。


ナッジは、正直な開示から始まる。

そしてそれは——連鎖する。


書いた。


書きながら、何かが変わっていることに気づいた。


以前のわたしは、書くことで過去を保存していた。今のわたしは、書くことで未来を準備している。


記録が、地図になっていた。


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