火星の女
わたしが鈴村真梨子を知ったのは知人の紹介だった。ちょっと変わった女がいるんだ、と知人は笑っていた。会ってしばらくした頃、鈴村真梨子は人には秘密にしていることがある、と、私にうちあけた。いつだったかは正確には覚えていない。ただ、今でも記憶に残っているのは、ある歴史の事象について見てきたかのように鮮明に説明したのときのことだった。
彼女は言った。
「わたし、110歳なのよ。信じる? さわってみて」
私に右手を差し出した。触れると、彼女の手は柔らかで、見事な潤いがあった。そのとき、わたしは時間を忘れてしまうほど、彼女の手のひらの感触を味わった。
鈴村真梨子は歳をとらない。それは魔術のように、彼女を覆っている神秘と形容できるものだった。
あるとき、真梨子に産まれたところはどこか、と訊くと、彼女は真面目な顔で、
「火星」
と応えた。NASAでさえか、まだ人間を送りこめない惑星の名を空言のように口にする真梨子にわたしは呆れて何も言う気にはなれなかった。
ふつうだったら聞かされた相手は腹をたてるだろう。それが許されるのは彼女の人をとりこにする容姿の美しさに無抵抗に圧倒されてしまうからであった。
「君は綺麗だね」
わたしが言うと、
「ありがとう」
と、彼女は言い、チャーミングな笑顔をうかべた。そして、手にした小瓶の蓋を開けると、中からピンク色のタブレットを一粒取り出し、口にした。
「長寿の薬よ」
と彼女は説明した。
わたしは鈴村真梨子を目の前にし、彼女の奇妙な言葉を聞くと、彼女がなんらかの精神的な疾病を抱えているのだろう、と推察していた。なぜなら、彼女の説明は現実にはありえないからだ。自分の素性を偽る病は珍しいものではない。
その真梨子と、何ヵ月か疎遠になっていたある日、市の高齢者介護施設からわたしに電話がかかってきた。鈴村真梨子さんをご存知でしょうか、と施設のケアマネージャーを名乗る職員は言った。彼女の私物にわたしの電話のメモがあったのだという。話を聞きながら鈴村真梨子と介護施設という場所がむすびつかなかった。何かの間違いではないかと思ってみたが、わたしは、訪ねる返事をした。
鈴村真梨子はベッドで寝ていた。顔に深く刻まれた皺、たるんだ頬、あの真梨子の容姿を思い出させるものは、何もなかった。ケアマネージャーは言う。
「ご自分の履歴に関する記憶はほとんどありません。夜の市道を徘徊していたところを保護されたのです」
目の前に寝ている鈴村真梨子は、わたしの知っている彼女ではなかった。いまこうして横たわっているのは施設で晩年を迎えている老女の姿をした誰かだった。ベッド脇のロッカーの上に見覚えのある小瓶が置かれていた。ピンクのタブレットはなかった。
介護施設からの帰り道、鈴村真梨子との記憶をたどりながら、どれも不確かな思い出だったことにすぎなかったとわたしは思った。人間の老化にはある種のホルモンが大きく関わっているという。真梨子はその顕著な例だったのかもしれない。
気づくと、夜の空を流れ星が軌跡をひいていた。わたしにはそれが火星からの宇宙船のように思えた。




