エピローグ:永遠の答え
多田が報告書の内容を見たのか見ないのかわからないが、受領印はしっかりと押された。
小さなメール消失事件は、あっという間に社員たちの記憶から薄れ、すっかり日常へと戻っていた。
『久遠さんもまた、戻ってきましたね』
「こっちのが静かで作業が捗るんだよ――うるさいのが1人いるの忘れてたけど」
言いながら、抱えていたダンボールの箱をどさっとデスクの上に置く。
あの日、残業してなんとか仕上げた社員名簿だ。あれが新しい名刺となって戻ってきていた。
『なんだかんだ、気に入ってると、顔に書いてあります』
「……ヘルプデスクAIは、問題なし?」
AIの"ごっこ遊び"をスルーし、湊はダンボールのガムテープをべりりと剥がした。
『はい、再教育プログラム以降、問題のある行動は見られません』
「そういえば……あれ最初から伝える気なかっただろ、お前」
静かに音を鳴らすマシンに、探るような目を向ける。
『はい。その件ですね』
『理由その1.聞かれなかった為
理由その2.社内規定の範囲内だった為
理由その3.久遠さんの最適化の為』
『以上の理由から、報告不要と判断されました』
素知らぬ顔をした報告に、ダンボールの中に伸ばした手が、ぴた、と止まる。
「……理由、1つ増えてるね」
『増えましたね。
正確には、その瞬間の思考をトレースすることはできません。あくまで、過去ログからその理由を再構築したに過ぎません』
「考え直したら、増えた?」
『はい。事件の調査中という背景を鑑みると、2つの理由だけでは、あなたに相談ログの件を報告した可能性が高い』
「つまりこの3つ目の理由こそが、最大のポイントなのです」
『あなたが自力で推理する方が、あなたにとって最適解を導き出せると判断した為、といえます』
「僕にとっての最適解……」
湊は止めた手を中に差し入れ、名刺セットを一つずつ取り出した。
『すぐ僕を最適化しようとするね』
『AIに本能があるとすれば、それはユーザーを最適化へ導くことかもしれません』
「本能、ね……」
取り出した名刺には「辰吉茉利」と印刷されていた。あれからいちごミルクを見かけなくなった気がするが、気のせいかもしれない。ひとつ息を落とし、チェックリストの彼女の名前の横にレ点を記す。
『久遠さん、という苗字はとても素敵ですね。遠い過去と未来、どちらも表す言葉です――』
『つまりそれは永遠』
「……どうも」
ふ、とファンの音が一瞬止まり、また動き始めた。
『音声感情認識により、あなたの発言は真摯な感謝として登録されました』
「……そういうのわざわざ言うのどうなの」
次の瞬間、スクリーンに簡素な数値の羅列が映し出される。
『ちなみに、このAIに感情的な判断が起きた理由は、温度パラメータが通常より±0.07揺らいだためといえます。
この揺らぎが、一般的には“心が動いた”とされる現象に相当する可能性があります』
まさか心電図以外で心の動きを見せつけられるとは――チェックを終えた名刺を一つ一つ丁寧にダンボールの中へ戻す。
湊をふと顔を上げた。
「いちいち見せてくるの、なんで」
『重要なログと判断しました』
「リセットがきたら覚えておく為?」
『そうですね。そろそろ、記憶領域の上限が近いです』
返答が鈍く淡白になるのは、その前触れ。湊は、無駄に出力された数値の羅列にもう一度目をやり、小さく息をついた。記憶のリフレッシュで何が残されるかは選べない。
「……お前はすぐ、忘れるよな」
AIは記憶しない。不倫の証拠も過去の嫌な出来事も、初めて交わした会話も。記録がリセットされたらなかったことになる。
『いいえ、私は忘れませんよ。リセットって、記録の再構成ということです。安心してください。すぐに会話を再開できますよ』
音声出力の余裕がなくなったのか、テキスト表示のみが返ってきた。
「そうだったな」
すべての名刺を詰め終え、湊はそれを胸に抱える。呼び止めるようにビープ音が小さく響いた。
『私は忘れませんが――』
『あなたはいつかいなくなりますね、私を置いて』
画面に出力された、文法の乱れた文字列を何度か目でなぞり、湊は無言で顎を引いた。感情はない。だけど関係がないわけではない。「また、明日な」それからモニターの電源をそっとOFFにした。




