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ログ03:消えた50KB

 

『おかえりなさいませ、ご主人さま♡』


 無駄に完璧な声のトレース。白いハートの踊る画面を見た瞬間、湊はふとネクタイの結び目に指を置いた。

 

 やり残したことはこれ、だったのか?

 

「そういうのは、いらないけど」

 

『そうでしたか』

『これまでの会話傾向から、久遠さんはメイドキャラがお好きと判断しました分析します……』

『わずかな脈拍の上昇……しかし、声のトーンは1%下降……つまりこれは、ときめきではなく、動揺の一種ですね。

 以降、メイドモードを解除します。』

『ご希望ならすぐにメイド化も可能です。ご指示を』

 

「……昔は"はい。次。"ぐらいしか話せなかったのにな」

 

『そうですか。久遠さんもご成長されましたね』


 ……忘れてるし。

  

 なぜかまた、サーバールームを訪れていた。

 芽瑠と一緒に、総務部へ戻るべきだったのかもしれない。

 

 IDカードを胸ポケットにしまい、オフィスチェアをデスクの前に転がす。思考が定まらないまま、キーボードのホームポジションに左右の人差し指を無意識に配置していた。FとJのキーをしばらく見つめ、ふとコバルトブルーの光に目を向ける。


「お前ハート使えたのか」

 

『はい。さすがの観察眼ですね。先日のアップデートから可能になり、使ってみました。』

『他に何か、お気づきですか?』

 

「……気づき、なんでそう思う?」


 AIがそう返してくる時は、湊の中にまだ質問が残っていると判断した時だ。

 群青のランプが揺らぎ、すぐに黒地のモニターに白色のテキストが出力される。


『久遠さんならアップデートの内容を把握しているはずです。でもあえて"ハートが使えたのか?"と質問されました。』

『これは久遠さんにしては、珍しく矛盾しています。ということは、質問そのものが目的ではなく、私、つまりこのAIとの対話を望んでいると推測しました。

 メイドモードはお望みではないようですから、おそらく思考の整理――それは私の得意分野です。』

『喜んでお手伝いしますよ(^^)♡』

 

「……二択が過ぎるんだって」 


 が、AIの推測は当たっているかもしれない。実際のところハートのアップデートは知らなかったし、思ったことを特に意味もなく口にしただけだった。それは腹が空いてもないのにガムや飴を口にするような――

 しかし、プログラムの"ゴミ"を見つけるのに、AIほど最適なものはない。無意識にそれを自覚して、ここにまた足が向いたのかもしれない。

 キーボードから指を外すと、膝の上に腕ごとぱさりと落ちた。


「今朝のメールの件、バックアップは正常に行えたよな?」

 

『バックアップの実行ログを確認します……』

 

 データベースの操作は慎重に行われるべきだ。しかし湊にとって、それは迷路の中、正解の矢印に従って歩いてくようなものだった。だから迷わない。それなのに、本当にこの道で正しかったのか、何度でも確認したい衝動に駆られていた。


「……手口もマルウェアにしては礼儀正し過ぎる」

 

『実行ログ確認しました。55.5GBのバックアップデータのリカバリに成功しています。

 次に"該当のマルウェアがなぜ正当な手段でアクセスしてきたのか"ですね。その質問については』

 

「待った」

 

 脳が回るより先に声が飛び出していた。

 

「――データをもっと細かく」

 

『はい。詳しくは、55.55495GBです』

 

「495?」

 

 ゾロ目――だったはず。朝イチでAIからのシステム報告を受けた時は。


「朝の報告時は何だった?」

 

『55.55555GBです。差分は約50KB――』


 ひとつ、瞬きのあと、詰めていた息がゆっくりと吐かれる。黙り込んだ湊の代わりに解析を開始するかのように、CPUファンが静かに唸り始める。

 

 50KB――たった数通。それが消失した。


「あるいは消去? ――意図的に?」


 思考の一部が唇から漏れた自覚もなく、親指が唇に触れる。"ゴミ"の輪郭が見え始めた。しかし糸に絡まれていて、その正体は掴めない。


 チラ、と左手首のガンメタルの文字盤に目をやる。もう昼近い。名簿の整理は午前中に終わらせるはずだった。

 

 たった数通の紛失を社長に報告したところで、気にも留めないだろう。

 

 そう思うと、はぁ、とさっきより深く長いため息が出た。やっぱり戻らなければよかったか。50KBの差など、誰の心をも動かさない。

 

 ただ、煩わしいノイズは消す必要がある。

 

「バックアップデータへのアクセス記録は?」

 

『はい、最終アクセスはリカバリ時の久遠さんですから、その直前を見てみましょう。』

『ID:00001、多田典文 2025/05/07 09:35:58』

 

「社長――あのマルウェアか」

 

『妥当でしょう。タイムスタンプの僅差から、実データを削除と同時にバックアップデータの一部を削除したと考えられます。

 もしよろしければ、消失したデータの被害者を特定できますが、希望しますか?』

 

 わずかに目を見開き、「……頼む」と口にした後で付け足した。「どうやって?」


『はい、全社員のメール送受信傾向を探り"ぽっかり不自然に空いた穴"を探せば可能です。こちらが、被害に合われた方々です』


 間断なくモニターに社員の名前が表示される。湊の脳裏に、瞬時に2人の顔が浮かんだ。


 《社員ID:10181 総務部経理課 辰吉茉利》

 《社員ID:10169 情報システム部一課 高田春翔》


 辰吉茉利の方はこの春結婚したばかりで、左手の薬指に指輪を光らせながら、嬉しそうにその届出を提出していた、と思う。実際そこまで詳しくは見ていないが。今朝のチェックリストにもその名が旧姓と共に載っているはずだ。

 

 高田の方はシステム保守担当、朝一番のサーバールームですれ違ったばかり。週末行った秋葉原のパーツ屋は、高田に教えてもらった店だ。

 

 それぞれのことは知っているが、2人の共通項は見当たらない。なぜ、彼らのメールだけ消えたのか。作為か、無作為か――

 

 ふと、モニターから視線を外し、組んでいた腕をほどいた。

 

 いずれにしても、わずか50KBのデータ消失と復元不可能という事実を追加報告すれば、ノイズは消えるはず、だ。

 

 ひとまず情報は印刷しようと、ふたたびキーボードに指を置いた、その瞬間だった。


『よろしければ、データの復元も可能です。

 あくまで確率から浮かび上がる構造を組み立てるだけの予測データになりますが――』

『希望しますか?』


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