ログ02:正当な削除
フロアの入り口。大きな声で湊を呼び寄せたのは、多田商会社長――多田典文。
スーツ越しにも筋肉の張りがわかるようながっしりした体格に、ゴルフ焼けしたグローブのような大きな手が、ちょいちょい、と手招きしている。
"ちょっと"で済んだことなんて、一度もないけど――ネクタイの位置を直し、湊は静かに立ち上がった。ちらりと芽瑠を見て「ごめんね」と呟く。「いえ、全然大丈夫ですっ!」芽瑠はちいさな手のひらをぱっと開き、ひらひらと振ってみせた。
「……どうかしましたか?」
「ああ、ちょっと見てくれ、俺は何にもしてないのにおかしいんだよ」
何かしたんだな。そう予測しながら、多田に腕を掴まれ連行される。
社長室に入ると、男物の香水が鼻につく。多田の匂いだ。過去さまざまな面倒ごとを押しつけられた記憶が呼び覚まされそうで、湊は思わず呼吸を浅くした。
「パスワード、お願いします」
ロックがかかったノートPCの前で促すと、多田はキーボードの1を連打し始めた。
「専用パスワードが払い出されているはずですが」
軽く眉をひそめたが
「ああ、あれ使い勝手が悪いんだよな!」
多田がさらに眉をひそめる。ITリテラシーのかけらとか――
……まあ、僕の出る幕じゃないか。
それより名簿の更新が今日中に終わるかどうかの方が気がかりだった。
多少の協力はやむを得ないだろう。腰をかがめ、PCに手をかける。
タッチパッドに指を滑らせると、起動音の唸りの後、ウイルスソフトがレポートを出力した。いくつかのウイルスと最新のマルウェア――。
届いたメールの性的な煽り文句とURLにちらりと視線を走らせ、冷めたまなざしを多田に向けた。
「なるほど、このサイトのURLをクリックしたと」
「ああ、そうだ。俺は何もしてないんだよ」
「……そうですか。おそらくこのマルウェアが仕込まれたんでしょうね。メール紛失との関連はシステム部に連絡し、」
「君が頼むよー」
一体どこからそんな声が出てくるのか。ちらりと多田に視線が向く。確か50代。日焼けした肌の中、澄んだ丸い瞳に白目が際立っている。
湊は、つ、と多田の無垢な瞳からもPCからも視線を逃した。姿勢を直し、スーツの前を整える。
「……社長、僕はただの総務です」
所属のアピールは一応――こういうのはちいさな積み重ねが重要だから。
しかし多田の耳にはその辺の蚊の音と大差ないらしい。きょろきょろ辺りを窺うと、声をひそめてきた。一層、甘ったるい匂いが近づいた。
「AIが君を呼べといってるんだよ」
「僕を――? AIは意思を持ちませんが」
「相談したら、君が適任というんだ。凄腕プログラマーだろう?」
「……元、です」
湊は乾いた唇を薄く開き、訂正した。この罪深い肩書きは一生ついて回る。
「どっちだっていいよ、頼むよ、いい感じに丸く収めてくれないか? 勤務中にアダルトサイトを見ようとしたなんてバレたら、社長の威厳に関わるだろう?」
それはそう――思わず頷きそうになり、湊は首筋に力を入れて堪えた。それから、観念したように口を開く。
これ以上ここにいたら、この甘い匂いが染み付きそうだった。
「リカバリだけなら……」
「ありがとう! いやぁ、君を採用してよかった!ボーナスは必ず弾む。ほら、早く行ってくれ。AIが待ってる」
伸びた背中をバシバシと叩かれ、湊はよろめきながら咳き込んだ。
◇
『社長には困ったものですね(^^;)』
「それな……つか、なんで顔文字」
『顔文字は日本が産み出した世界に誇れる文化ですから、日本人のあなたへの回答に最適と判断しました。顔文字、禁止ですね。受領しました』
「禁止とは言ってないよ」
『それは、よかったです☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆』
弾むような生成音声と同時に、無機質な画面にまた記号が踊った。
◇
賑やかな緑色の文字との対話を終え、湊は詰めていた息を漏らした。視線はモニターから離れ、無機質な壁面パネルをさまよう。
「コードは……書き換えられてない」
『はい。中央管理システムに異常は検知されていません』
「でもデータは削除――君の知らない間に?」
『はい。正当な手段で削除されていますね。完璧です』
完璧……湊はわずかに眉をひそめた。マルウェアの仕込んだプログラムが、そんなきれいな手口を使うか――? 疑問がよぎるも、被害はデータの単純削除。システムに何か埋められた痕跡もない。
「最終ログインは?」
『ID:00001、多田典文 2025/05/07 09:35:47』
「うん。多田社長のPCから正当にアクセス、それは可能……」
一瞬、壁面パネルにマルウェアのプログラミングコードが浮かびそうになる――湊は目を伏せ、ブラックスクリーンのモニターに視線を切り替えた。
「リカバリ用のバックアップを確認する。ログも見せてくれ」
『了解しました』
◇
ふたたび社長室を訪れると、多田は空の手でゴルフの素振りの練習をしていた。こう見えて多田商会は何年も連続して優良企業だ。パタン、と扉が閉まるのと同時に、湊はその場に立ったまま口を開いた。
「社長、メールデータ削除の件ですが、リカバリーが完了しました。今朝のバックアップデータに戻しています」
「おお、久遠くんか。やはり君に頼むのが早い。それで……原因の方は……そのぅ、つまり私のアレのせいとかそういうことは」
「はい、システム部にはグループウェアシステムの脆弱性の穴をついたアタックだったと、伝えておきます。社長にどんなメールが届いたのか、誰にもバレません」
「素晴らしい!これで一件落着だな!」
急な大声に湊はわずかに眉を中央に寄せた。しかし反応したのは、この無駄によく通る声のせいだけではなかった。一瞬、違和感の輪郭が浮かびそうになったが、室内に漂う香りや多田の騒々しさがそれを霧散する。
「いやぁ、まったく悪いことを考えるやつはいるもんだな」
一応、アダルトサイトの釣りに引っかかったことを気に病んでいたらしい。憂いの原因が晴れ、今朝見た時よりさらに元気を増したように見える。……今どきあれに引っかかるのも中々珍しいけど。
多田の言葉に曖昧に頷きながら「では」湊は一歩後ろに下がる。扉に手をかけ、とりあえず、一件落着――
そう思おうとしたのに、どこかすんなり飲み込めなかった。
頭の片隅に居座る、何か。
それは定義、だけして使わなかった変数のような、一見してバグにもエラーにもならない、プログラムコードの"ゴミ"のようだった。
ただ、放っておけば大きな問題に発展することもある――
「まだ何かあったかな?」
多田の声に、湊はハッとしてひとつ瞬いた。
「いえ、失礼します」
閉まる扉の隙間から見えたのは、多田の豪快なフルスイングだった。
◇
「久遠さん!」
社長室を出てすぐ、高い声に呼び止められた。
振り向くと、芽瑠が小走りになって寄ってくるところだった。
トトト、と足音は軽く、どこか小動物を彷彿とさせる動きをじっと見つめ、ああ、と思い出した。子供の頃飼っていたハムスターだ。
「メール、見つかりました!久遠さんがまだ直してくださったんですよね」
「直したというか、少し前のデータに戻しただけだけどね」
軽く肩をすくめた湊は「すごいですっ!」の純粋なまなざしに一歩後退したくなった。
……圧。
若さゆえか性格か――いや、いつの自分にもこのキラキラはなかったなと、湊は眩しさから目を逸らすした。
視線を横の壁に流しながら、頭の奥の方で、また霞がかかっていた。
リカバリーは完了した、問題は何もないはず――
「戻りますか?よかったら一緒に」
「……いや、先戻って。ちょっとやり残したことがある」
口から出た言葉は、なぜかそう伝えていた――霞の正体も掴めないまま。




