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白化行路(Hakka Kouro)  作者: しげみち みり


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第5話「旅芸の一座」

 昼近く、骨原の窪みでかすかなざわめきがあった。

 白い空の下、ひとの集まりが円をつくり、その中央に若い女が立っている。指には赤い糸、髪には白い布。薄い靴底で砂の音を拾いながら、短い所作を重ねている——雫だ。彼女の周りには三人の男女がいて、音のない楽器をそれぞれ持っていた。骨で組んだ枠に割れ貝を張った面、ひびの入った細い棒、穴の開いたガラス片。振っても、叩いても、撫でても、ほとんど音は生まれない。代わりに、遠くのどこかで骨鈴が小さく応える。鳴っているのは、ここではなく、風のほうだ。

 雫が澪に気づいて微笑み、指で合図をした。澪は円の中へ歩み寄り、凪は周縁に立ったまま道具の箱に目をやる。糸はほつれ、結び目は緩み、貝の面は剥がれかけ、棒の先はささくれている。直せるものが多い、と指先が先に判断した。

 雫の所作が変わり、舞が始まった。

 彼女は観客と目を合わせない。まぶたの縁だけがわずかに動いて、赤い糸の指先が結び目の形を作り、すぐにほどく。結ぶたび、見ている者の胸で忘れていた名前が泡のように立ち上がり、ほどくたび、その泡は音もなく潰れていく。円の外側で、乾いた砂の息が揃う。舞は言葉を使わないのに、意味が遅れて砂の上に沈んでいくのがわかった。

 凪は道具箱の蓋を開け、ばらけた糸を巻きなおす。指が覚えている順番で、結び直す。割れの入った貝面には薄いガラス粉を擦り込み、骨の枠に戻す。棒の先には薄い皮を巻いて締め、糸の余りをほどよく切る。自分の名前の線より確かに、いま直している形の方をよく覚えられるのが、少しおかしかった。

 舞が終わると、雫は汗のかわりに粉を帯びた額を布で拭き、澪に近づいた。

 「いい結び」

 彼女は澪の手首の結わいをつまみ、そっと指で撫でる。

 「ほどく手が、ちゃんと覚えてる」

 澪は恥ずかしそうに笑い、雫の動きを真似て自分の指で結び目の形をつくってみせた。

 「舞、習ってもいい?」

 澪が言うと、雫は首をかしげ、凪のほうに視線を動かす。

 「あなたは?」

 「道具を直す」

 凪が答えると、雫はわずかに目を細めてうなずいた。

 「なら助かる。道具が長持ちすると、夜が長くなる」

 円の外では、一座の三人が静かに座り直し、骨鈴を覆う布を整えた。焚き火はしない。粉が火を嫌うから。代わりに、人の所作を重ねて夜を明るくするのだと誰かが言った。凪は修繕を続け、澪は雫から舞の基本を習い始める。

 雫は澪の足下に小さな印を付け、短く説明した。

 「歩幅はひと呼吸半。重心はかかとじゃなく、土踏まず。吐く息で下ろして、吸う息で持ち上げる」

 澪は早く覚える。だが、すぐに半分を落としていく。落ちる分だけ、雫は結び目の数を増やした。手首、肘、首元——結びが増えるたび、澪の動きはほどけるときの形まで整ってきれいになる。

 「ほどくとき、形が残る」

 雫は言う。

「形は音にも残る」

 凪は修繕の手を止め、澪の踵の運びを見た。砂の薄い膜が踵でめくれ、白い粉がわずかに跳ねる。跳ねた粉の粒が、骨鈴の響きと同じ数で落ちていく。舞が音を持たないぶん、落ちる粒が音の代わりになっていた。

 休憩の合間、雫は舞の副作用の話をした。

 「見た人は、一時的に名を思い出す。その代わり、終わったあと、白化の速度が少し上がる」

 澪が顔を上げる。

 「どうして?」

 「思い出は刃物。切れ味がいいほど、深く入る。深いと、戻るときに大きく削れる」

 雫は言葉を短く切り、赤い糸の端を噛んで結び目を締めた。

 「それでも見たい人がいる。だから、わたしたちは舞う」

 夕方、空の白が少しだけ薄まり、周囲の骨原に微かな起伏が浮く。雫は澪の肩に手を置き、踵の位置を直した。

 「いいよ。次は目線。目は合わせない。けど、合わせないことで、誰かを見つける」

 澪は言葉の意味を飲み込みきれず、それでも頷いた。目を伏せ、まぶたの縁だけを動かすことを覚える。

 夜の始まり、円の外側で骨鈴の布が外される。

 雫が小さく指を鳴らすと、遠くの風が返事をした。鈴の芯はこの場にない。ここにあるのは、返事をもらうための所作だけ。鳴るのはいつも、遠い場所だった。

 一座の少年が骨の枠を抱えて立ち、細い棒で表面を撫でた。音はなく、代わりに空気が揺れる。澪が雫に教わった通り、三歩、二歩の歩幅で円の中へ。結び目の重さを確かめながら、吐く息で下ろし、吸う息で持ち上げる。ひとつ、ふたつ、みっつ——拍を刻むたび、遠くの骨鈴が控えめに鳴る。そのたびに、円の縁にいた老人が胸の前で短い線を描いた。誰かの名の線。描いたそばから薄れ始める線。

 凪は直したばかりの貝面を支え、骨の枠の弾みを抑えた。触れてわかる。直しは持つ。夜が保つ。けれど人は、直せない。

 舞の終わり、雫が澪の手首を持って、静かな礼をした。円のあちこちで、短い拍が返る。思い出の刃はもう入ってしまった。刃が光っているのが見える。

 夜更け、円の端で、一座の少年が静かに崩れた。声は上がらない。雫がしゃがみ、少年の目を閉じさせ、指で短い拍を刻む。最後の結び目を、ほどく。音はしなかった。ほどいた形だけが、砂に残る。

 澪は目をそらせない。凪は道具箱の蓋を閉じ、雫の合図で骨鈴を一つ鳴らした。乾いた音が遠くへ飛び、星のない空で消える。消えた場所の手前に、確かに道が一瞬だけ浮かんだ気がした。

 眠りの前、雫は澪の手首の結び目を見直し、いくつかを“舞結び”に換えた。普通の結わいよりも複雑で、ほどく所作そのものがひとつの舞になる。

 「ほどくとき、その形を見て——たぶん全部思い出す」

 「危ない?」

 「危ない。けど、綺麗」

 澪は息をのみ、うなずいた。綺麗と危ないが、同じ場所に立っているのを初めて見た顔をした。

 凪は結び目の形を貝手帖に写し取る。線は震え、貝の縁は少し欠ける。欠けるたび、形はくっきりするのに、書いた意味は薄くなる。

 「手、貸して」

 雫が言って、凪の指を取る。

 「歌える人は、まだ骨が鳴る。鳴る骨は遠くへ届く。届いた先で、誰かが返す」

 凪は返し方を知らなかった。けれど、喉の奥に短い旋律を置いた。言葉のない三音。雫は踵で砂を一度だけ鳴らす。返事はそれだけ。だが、遠くの骨鈴が続けざまに二度、確かに鳴った。

 眠る場所は、円の外の浅い窪みだった。焚き火はない。粉が火を嫌うから。人の所作だけが夜の明るさで、音の代わりだった。

 「凪」

 澪が横を向き、小声で呼ぶ。

 「舞、覚えられるかな。半分忘れても」

 「覚えられる」

 凪は言う。

 「忘れた半分は、ほどくときの形で戻ってくる」

 「戻るの、痛い?」

「少し」

 「少しなら、平気」

 そう言って、澪は指で自分の結びを軽く叩いた。拍が短く響く。凪は同じ拍で返し、三拍目をわざと遅らせて置く。三拍目の遅れは、彼の癖だ。癖はまだ、彼を彼にしている。

 朝。白い朝。

 雫は澪の手首を取って、結び目をもう一度点検した。舞結びの位置を少しだけずらし、重心が迷ったときの逃げ道をひとつ増やす。

 「これでいい。手が迷ったら、この結びを見る」

 「見ると、思い出す?」

 「思い出す。けど、全部じゃない。全部は、危ない」

 澪はうなずき、結びの重さを確かめるように腕を振った。

 凪はその形をまた貝に刻もうとして、刃の先がこぼれるのに気づく。貝は薄く、線はすぐに粉になって舞い上がる。舞い上がった粉が、朝の光に白く溶けた。

 別れの前、雫は凪の手を取った。

 「わたしたちは北へ。あなたたちは、白座へ」

 凪はうなずく。

 「白座で、最後にだけ全部戻るって聞いた」

 「たぶん。戻るなら、誰かの拍で戻る。誰の拍かは、戻ってからわかる」

 言いながら、雫は澪の額に軽く触れた。

 「踵を鳴らす場所、間違えないで」

 澪は照れたように笑い、雫の踵の鳴らし方をもう一度だけ真似した。

 昼、ふたりは一座から離れた。砂の上に残った円の跡は、風が均し始めている。凪は振り返らない。振り返らなくても、背中で合図が鳴った。雫の声ではない。名前でもない。拍。

 澪が同じ拍で返し、凪は間をひとつずらして三拍目を置く。遅れた三拍目のあとで、遠くの骨鈴が一度、また一度と鳴った。返事はたしかに届いた。

 歩きながら、澪が言った。

 「わたし、舞うとき、誰を見てたんだろう」

 「誰も見てない。けど、誰かを見つけてた」

 凪の言葉に、澪は首をすくめた。

 「ずるい言い方」

 「でも、たぶん、合ってる」

 澪は笑う。笑い方を、まだふたりは覚えている。笑いの短い息が、昼の粉で薄くにじむ。

 しばらくして、風が強まった。粉が舞い、視界が柔らかく曇る。足跡はすぐに消え、今日の始まりがもう遠い。

 「凪」

 「うん」

 「三歩、二歩、間違えたら、どうする?」

「踵じゃなく、つま先で一度止まる。そこで呼吸をひとつ挟む」

 澪はうなずき、実際にやってみせた。つま先で短く止まり、吸って、吐いて、二歩に戻る。舞からもらった動きが、歩くための形に変わっていく。

 骨原が浅く切れ、窪んだところに白い石が寄せ集められていた。凪は近づき、石の隙間に小さな貝を見つける。拾い上げると、内側に薄い“リ”のような線が残っていた。

 「誰かの残り」

 澪が肩越しにのぞき込む。

 「返す?」

 「返す」

 凪は石の隙間に戻し、上から砂をならした。返した行為が、約束にならないように、手つきをできるだけ軽くした。

 「約束は、餌だから」

 澪が囁く。

 「うん。合図でいい」

 凪が返すと、澪は結びを指で叩いて、小さな拍を一度だけ置いた。

 午後、日差しはさらに白く乾いて、影が浅くなる。雫の一座はもう見えない。けれど、踵で鳴らす場所だけは足が覚えていた。砂の小さな段差で、凪はわずかに踵を下ろす。澪がその拍を拾い、二歩目の重心を少し前に送る。ふたりの歩調が、舞の形を離れても、同じ音で続いていく。

 やがて、風はひときわ強く吹き、砂がいっせいに走った。

 「止まろう」

 凪が言い、澪の肩を引いた。低い岩の陰に身を寄せると、空気の層がひとつ変わったように静かになった。

 「ねえ、今日、名前、呼んだ?」

 澪が問う。

 「呼んでない」

 「わたしも。じゃあ——」

 澪は凪の掌に指で書いた。

 ——ア。

 凪は続けた。

 ——オ。

 風が和らぎ、文字は砂に吸われる。残らない。けれど、書いた手の方は覚えている。

 岩陰の白い影が伸び、短くなり、また伸びる。時間の形が目に見えないぶん、影が時計の代わりだった。

 「雫、言ってたね」

 澪が口をひらく。

 「誰かの拍で戻るって」

 「戻ったら、痛い」

 「少しなら、平気」

 澪は同じ言葉をもう一度言った。平気、という音が少し薄かった。薄い音でも、凪はうなずいた。薄い音のうなずき方も、覚えていく。

 日が傾き、骨原の濃淡が立体になる。ふたりは歩み出した。

 三歩、二歩。

 癖の三拍目。

 遠くのどこかで、骨鈴が一度だけ応えた。返事の場所はわからない。けれど、その一度で十分だった。

 白座の方角が、少しだけ近づいた気がした。

 夜の入口で、澪が立ち止まり、空を見上げる。星はない。粉の膜が空を覆っている。

 「明日、まだ踵、鳴らせるかな」

 「鳴らせる」

 凪は短く答えた。

 「鳴らせなくても、指が二本で返せる」

 澪が笑い、二本を立てる。凪も二本で返す。まだ二人だ。合図は約束じゃない。餌にはならない。

 合図だけを持って、ふたりは白い夜に入っていった。

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