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白化行路(Hakka Kouro)  作者: しげみち みり


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第4話「灯を砂に埋める」

 昼の光は白く乾いていた。

 砂の粒は鳴き、足裏でこすれるたびに、かさり、と頼りない音を立てる。海から離れて内陸へ折れた窪地には、風で埋もれかけた低い塀が続いていた。木の標はとうに朽ち、石は角を失い、白い粉の薄膜でおおわれている。かつての共同墓地なのだと、凪は思った。思ったはずの記憶の端は、指で触れる前にほどけていく。

 澪は塀の影に身体を寄せ、息を整えた。ここは風が弱い。音も、少しだけ弱い。

 「ここ、涼しい」

 「粉が溜まってるからだと思う」

 凪が答えると、澪は小さくうなずいた。砂の膜が睫毛にかかり、彼女の目が少し白く見える。凪は胸ポケットを指で確かめた。薄くなりかけた紙片と、欠けの増えた貝殻手帖。指先に触れた貝の縁の感触が、今日の自分をひとつ手前でつなぎ止める。

 塀を回り込むと、丘の陰に降りる道があった。そこには、砂の中に等間隔で埋められた貝殻が、月の道のように並んでいる。貝の内側が上を向き、日差しを受けて柔く反射していた。炎ではないのに、灯っている、とわかる。砂灯。風で砂が動くと、貝の光が波みたいに揺れた。

 澪はしゃがみ、いちばん手前の貝の縁に指を伸ばす。

 「これ、だれが点けるの」

 「砂が点ける。夜になったら、月が手伝う」

 背後から声が落ちてきた。ふたりが振り返ると、白い頭巾を被った女の老人が立っていた。指は細く、節は固く、目は曇っている。けれど足取りは迷いがない。彼女は砂灯の道に沿って歩きながら、手の甲で砂を抑え、貝の角度を直す。その所作は、灯台守の岬に似ていた。身体が覚えている、無駄のない手順だった。

 「こんにちは」

 澪が声をかけると、老人はうなずいた。名を言わなかった。名乗り方を忘れているのか、最初から持っていないのかはわからない。

 「三歩と二歩。浅く埋めて、風の向きに口を向ける。昼は黙らせて、夜は歌わせる」

 老人はそれだけ告げると、澪の手をそっと持ち上げ、貝殻の裏に指腹を添わせた。貝の口が風を拾う角度、砂の押さえ方、次の間隔。手が、澪の手に手順を教え込むみたいだった。

 澪は砂に膝をつき、老人の動きを真似る。凪はその背中を見ながら、足跡で小さな印をつけた。三歩、二歩、三歩。足のリズムは歌になり、歌はすぐに砂に吸われる。

 「ねえ、凪。三歩の次は二歩?」

 「二歩の次は三歩」

 「じゃあ、二歩の前は?」

 澪の問いに、凪は一瞬だけ言葉を失った。喉の奥に並べた言葉が、風に飛ばされていく。

 「……三歩」

 やっと言うと、澪は笑った。「覚えてるね」

 胸が軽くなった。正しい順番をなぞれたとき、身体が喜ぶ。自分の中の骨が、音を立ててうなずく。

 午後になると、墓地の奥からひとり、またひとりと白い衣の老人たちが現れた。手首に細い紐を巻いた者もいれば、首に貝殻を下げた者もいる。彼らは互いの名を問わない。ただ隣の者の肩をさすり、手の甲に短い線を刻む。貝の内側に文字を刻もうとする者は少なかった。すぐに粉になると知っているからだ。

 「灯が足りない」

 誰かの声がした。

 「足りないと、夜が欠ける」

 「欠けた夜は、帰ってこない」

 低い声が重なり、砂の上を流れる。澪は配列の途中に新しい貝を埋め、指の腹で砂を押さえた。三歩、二歩。指先に砂が食い込む。押さえた跡がすぐに乾き、薄い膜になる。

 凪は歌いたくなる衝動をこらえた。歌は呼び寄せる。粉の風も、忘れていた感情も。

 老人がそれを見透かしたように首を横に振る。

 「灯があれば、歌は要らない夜もある」

 「歌、好きなんだけど」

 澪が小さくこぼすと、老人は貝を撫でた。「歌は灯を早く消す。夜は長い方がいい」

 日が傾く。白い光が冷えて、影が浅くなる。月は丸くない。欠けた縁がかえって鋭く光り、砂灯の列を細い刃のように照らした。白い墓地は静かに息をし、貝殻の内側で光が揺れる。

 老人たちは輪になるでもなく、点のままに腰を下ろした。誰かが誰かの手を握る。誰かが誰かの背を支える。名前のない結び目が、砂の上で増えていく。

 澪は老人に促され、道の途中に新しい貝をひとつ埋めた。手のひらで砂の面をならし、角度を確かめる。

 「いい角度だ」

 老人はそう言って、澪の首元の結わいを一度だけつまんだ。きゅ、と糸が鳴った。

 「きつく結ぶほど、痛くないんだって」

 「誰に聞いた」

 「雫って子」

 老人は眉を動かした。その名を覚えているのか、覚えていないのか、判断のつかない微かな動きだった。

 真夜中、砂灯の列がいちどだけ強く光った。白い波が丘をのぼり、墓地を囲う塀の上で静かに砕ける。風鈴のない夜だ。音は、貝の中の光が生む。

 老人たちは立ち上がり、ゆっくりと砂の上に身を横たえた。手を胸の上に置き、指で短い拍を刻み、呼吸の数を数えるように灯のリズムに身を合わせる。

 澪が凪の袖をつかんだ。

 「どうして横になるの」

 「砂の下へ行く。灯になって、次の夜を照らす」

 女の老人の声は、砂といっしょに低く響いた。

 老人は自分の首から小さな貝を外し、澪の掌に載せた。内側には浅く“ミ”の残骸のような線。たぶん昔、誰かがここに彼女の名を刻んだ。波のように欠けていて、完全な文字はもうどこにもない。

 「配列はね、忘れても、足が覚える。だから、明日の朝、もう一度歩いてごらん。手順は砂が教える」

 そう言って、老人は砂に身を沈めた。白い衣はすぐに粉の膜をまとい、灯の間に淡く見えなくなる。灯りの列は、さらに遠くまで伸びたように見えた。

 澪は泣かなかった。泣き方が遠のいていることに気づいているからだ。その代わり、指で胸の結わいを探り、結び目の形を確かめる。雫の声を思い出す。きつく結ぶほど、痛くない。忘れる痛みの方が、あとから来るから。

 凪は澪の横顔を見た。涙の代わりに、光がそこに薄く積もっている。呼吸に合わせて灯の影が彼女の頬に揺れ、白い夜が、ひとつ深くなる。

 夜明け前、凪は砂灯の端に腰をおろし、小さく歌った。声は灯の波に紛れ、骨の鳴りと溶け合う。澪は歌わない。音に合わせて砂をならし、配列の抜けを埋める。

 「ねえ、凪。今の歌、最初の一行だけ覚えてる」

 「どんなふうに始まる」

 澪は指で凪の掌に書いた。

 ——ア。

 凪は続ける。

 ——オ。

 ふたりの指の跡が粉の上で重なり、灯の明滅で、すぐに薄れた。

 朝。白い朝。

 澪は覚えたはずの手順の半分をもう落としていた。三歩と二歩の順序が、どちらから始まるのか指先からこぼれていく。凪は足跡を見て補い、いくつかの貝を掘り起こして角度を直した。

 砂をすくって、貝の口に風を入れる角度まで、そっと押し戻す。昨日の老人の手の甲の重さを、真似る。

 「ありがとう」

 澪の声は、砂の音に似ていた。

 「まだ二人だ」

 凪は三歩歩いて、指を二本立てる。澪も二本で返す。

 丘の上では、夜に横たわった老人たちの形がもう消えていた。砂が、灯が、ひとつ夜を延ばしたのだとわかるだけだった。名前も、線も残らない。

 澪は胸元に指を入れ、昨夜受け取った貝を取り出した。小さな“ミ”の残骸が、光の角度でだけ浮かぶ。

 「持っていっていいのかな」

「灯りは夜に戻る。戻るまでに、覚えるために持つんだと思う」

 凪が言うと、澪は貝を胸元にしまった。貝の重さが、ごくわずかに彼女の肩を引いた。

 出発の前、凪は自分の貝手帖の裏に“ナ”をもう一度深く刻む。刻むたびに欠けが増え、指先に粉が乗る。

 「痛い?」

 「少し」

 「痛い方が、いいんでしょ」

 澪が笑う。凪も笑った。笑い方を、まだふたりは覚えていた。

 砂灯は昼になると眠る。眠った灯をふり返らず、ふたりは歩き出した。背中で小さく鳴る骨の音が、彼らの足を前へ押し出す。砂の上に残した足跡は、すぐに白い風が均していく。

 「白座、こっち?」

 澪が指さす先は、昨日見た丘と似た丘だった。

 「たぶん」

 たぶん、という言葉が、ふたりのあいだで合図になりつつある。確かではないけれど、進む。進めるだけ、進む。

 窪地を抜けた先で、凪は一度だけ振り返った。

 眠っている砂灯の列が、砂の面にかすかな筋を残している。昼の白い光の中では、その筋はほとんど見えない。けれど、見えないから消えたわけではない、と凪は思った。

 「ねえ、凪」

 澪が呼ぶ。

 「忘れても、また並べられる?」

 「手が覚える」

 「足も、覚える?」

 「覚える」

 凪は澪の手を握り、三歩、二歩と歩いた。拍を刻むように。歩幅がそろう。指が二本、空にたつ。

 まだ二人だ。

 昼の粉が強くなる前に、ふたりは塀の外へ出た。塀を越えた途端、風が増し、砂が声を持ったみたいに鳴る。

 「歌、なしでいける?」

 澪が聞く。

 「灯があれば、歌は要らない夜もある」

 凪は老人の言葉をそのまま返した。

 「でも、昼は?」

 「昼は……見えたものが剥がれる」

 岬の声が重なる。遠い灯台の灯が、胸の内側でいちどだけ明滅した気がした。

 歩く。

 三歩、二歩。

 砂の鳴る音が、ふたりの合図に重なる。

 海は遠く、空は白い。けれど、砂の底で骨の鳴る音が、まだ微かに生きている。

 丘の影に新しい窪地が現れ、またどこかの塀が途切れた。凪は足を止めず、胸ポケットの貝を指先で押さえる。そこに刻んだ“ナ”の線の荒れ方で、今日の自分を測る。線は深い。深いほど、欠けるのも早い。

 「ねえ、凪」

 澪が横でささやく。

 「さっきの“ミ”の貝、夜になったら返すね」

 「どこに」

 「灯の列の、途中。戻るまでの道がわかるように」

 凪はうなずいた。返す、という言葉の形が、餌にならないように、喉の奥でそっと丸める。

 白い昼の先、かすかに灰がかった雲の帯が見えた。粉の濃い地帯だ。あの向こうに、白座へ続く骨原がまた広がっている。

 澪の指が、結わいの結び目を確かめる。

 「ほどけない?」

 「ほどけない」

 「ほんと?」

 「ほんと」

 呼吸の拍がそろう。砂の音が答える。答えはすぐに風に攫われて、しかし、ふたりの足は止まらない。

 砂の上に、午後の影が短く落ちた。

 眠っている灯の列は遠ざかり、代わりにまだ知らない白い夜が近づいてくる。

 凪は、声に出さずに唱えた。

 ——三歩、二歩。三歩。

 澪は、声に出さずに返した。

 ——二本。

 それは約束ではなかった。餌にしないための、合図だった。

 合図だけを持って、ふたりは次の白へ踏み込んだ。

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