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白化行路(Hakka Kouro)  作者: しげみち みり


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第3話 骨雨

 空は晴れているのに、雨が降っていた。

 けれどそれは、濡れない雨だった。


 指を伸ばすと、細い白い粒が空から降ってくる。

 触れると、冷たくも熱くもない。ただ指の腹に、白い粉のような線が残った。

 ——骨雨。


 四日目の南行。

 凪と澪は、海沿いの道を歩いていた。道といっても、骨の砂と乾いた粉が積もっただけの白い道だ。

 踏みしめるたび、ざり、と乾いた音が鳴る。


 「これが、骨の雨?」

 澪が掌を開いて見せる。粉が薄く膜になり、肌の上に広がっていく。

 「うん。積もると、感情の輪郭が鈍るんだって」

 「誰が言ってたの?」

 「……たぶん、あの姉弟」

 「骨拾いの?」

 「そう」


 澪は目を細めて、凪の頬に触れた。

 「ついてる」

 親指で粉を拭うと、白い跡が指先に残った。

 凪も同じように、澪の頬の粉を拭った。

 二人はまるで鏡のように、同じ動作をくり返した。冗談みたいに真剣な顔で。


 「ねえ、わたしたち、どこに行くんだっけ」

 澪が小さく笑いながら言う。

 凪はすぐに答えた。

 「白座」

 「しろざ……?」

 「そう。そこに行く」


 言葉にした瞬間、胸が少し軽くなった。

 正しい順番で答えられた。

 そのことが嬉しかった。


 骨雨は、歩いた跡をすぐに消していく。

 五分も経たずに、後ろを振り返っても、何も残っていない。

 自分たちがどこから来たのか、分からなくなる。


 凪は思う。

 前にも、この雨の中を歩いたことがある。

 誰かと一緒に。

 その誰かの輪郭を思い出そうとした瞬間、耳の奥で小さく骨の鳴る音がした。


 ——カラン。


 音が、記憶を打ち消す。


 *


 昼過ぎ、骨原に着いた。

 見渡す限り、白い地平。骨が折り重なって、丘のようになっている。

 その中央に、巨大な骨の門が立っていた。

 人の肋骨を並べて組み上げたような形——門骨。


 門の陰に、骨拾いの姉弟が立っていた。

 以前会ったあの姉弟とは違う。だが、顔立ちはよく似ていた。

 澪が貝殻の手帖を差し出す。姉弟はそれを受け取り、裏返す。


 「二人分の名前、まだある」

 姉がうなずいた。

 凪は胸を撫で下ろす。


 「通過の代価は“音”」

 弟が低く告げた。

 凪は骨雨に濡れた棒を拾い、門骨の柱を軽く叩く。

 ——コン。

 乾いた楽音が響いた。雨の幕に溶けていく。


 弟が同じ音程で返す。

 ——コン。

 音が重なった瞬間、門骨の奥がかすかに開いた。


 澪が振り返る。

 「音が合うと、通れるんだね」

 「きっと、そういう決まりなんだ」

 「じゃあ、次の門も音を探さなきゃ」

 「うん。次の音は……どんな音だろうな」


 ふたりは笑い合った。

 骨雨がそれを包む。


 *


 門を抜けると、風が出てきた。

 粉が舞い、視界が白く霞む。

 凪は前を歩く澪の背中を見失わないように、結わいの糸を指でつまんだ。


 澪は鼻歌を歌っていた。

 歌というより、音の並び。

 意味はない。けれど、そのリズムに合わせて凪は歩いた。

 音があれば、世界はまだ形を保っている気がした。


 夕方、骨雨が突然止んだ。

 雨の終わりはいつも唐突だ。

 止んだあとにだけ、空が青くなる。


 久しぶりの青空だった。

 その下で、澪が立ち止まる。


 「ねえ、凪。わたし、歌を知ってる」

 「歌?」

「最初の一行だけ。昔、誰かに教わったの」

 「教えて」


 澪は口を開いた。

 けれど、声が出なかった。

 声帯ではなく、言葉の順番が見つからない。


 代わりに、澪は凪の掌に指で文字を書く。

 “ア”。


 凪は続けて、自分の指で“オ”と書いた。

 ふたりの文字が白い粉の上で重なり、風にさらわれた。

 「歌の続き、あったのに……」

 「思い出せるよ」

 「ほんと?」

 「うん。どっちかが覚えてれば、もう片方に伝わる」

 澪は微笑んだ。

 その笑顔の端にも、白い粉が薄く積もっていた。


 *


 夜。

 風は弱まり、世界は静かだった。

 火は使えない。骨雨の残りが粉として漂い、火種を嫌うから。


 代わりに、二人は布で粉を拭い、風鈴を地面に伏せた。

 音を閉じ込めるようにして、眠りの準備をする。


 「ねえ、凪」

 澪の声が暗闇に落ちる。

 「忘れても、忘れないって約束、しよう」


 凪は少しの間、何も言えなかった。

 澪の言葉はいつも、少しだけずるい。

 優しいのに、逃げ場をなくす。


 「約束は、餌だ」

 凪は小さく答えた。

 「白風が好きなやつ」

 沈黙。

 澪は笑って、「そっか」とつぶやいた。


 やがて彼女は、手首の結わいを指で叩き始めた。

 とくん、とくん。心臓の拍のようなリズム。

 凪もその上に指を重ねた。

 二人の拍が重なって、小さな歌になった。


 言葉のない歌。

 名前も持たないまま、夜に沈んでいった。


 *


 明け方。

 風鈴の中の音がわずかに震えて、凪は目を覚ました。

 夢を見ていた。


 澪が、誰かの名前を呼んでいた。

 凪の名前ではなかった。

 けれど、胸が温かかった。

 それが誰かの名前であっても、澪の声が自分を呼んでいるように思えた。


 目を開けると、澪が隣にいた。

 眠っている。手首の結わいが、また少し白く濁っている。


 凪はそっと、指先でその結わいをなぞった。

 「ほどけるな」

 声に出さず、唇だけが動いた。


 澪の唇が、かすかに動いた気がした。

 聞こえなかったけれど、

 たぶん——同じ言葉を返していた。


 朝の光が、骨雨の残りを照らした。

 世界が薄く、透けるように白く光る。


 凪は立ち上がり、貝殻の手帖を取り出した。

 粉を払って開くと、文字がまたひとつ薄れていた。

 “ミオ”の“オ”が、半分消えている。


 風が吹いた。

 ——ア、オ。


 どちらの声か、もう分からなかった。

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