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白化行路(Hakka Kouro)  作者: しげみち みり


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第2話 貝殻の手帖

 砂を踏むたび、しゃり、と乾いた音がした。

 熱くはない。けれど軽くて、掴めばすぐに崩れる。

 凪は歩幅を一定に保ち、三歩ごとに指を二本立てた。

 澪も二本で返す。


 ——まだ、二人だ。


 それは彼らの旅の合図だった。言葉を使わない約束。言葉は白風にすぐ溶けるから。


 陽の傾きは速くなっていた。昼が短く、夜が長くなっていたはずなのに、この世界では逆だった。昼のほうが危険だ。粉が舞い、見えるものが剥がれていく。


 「ねえ、海ってさ、前はもっと青かったのかな」

 澪がつぶやく。

 凪は前を見たまま答える。

 「青、ってどんなだっけ」

 「……たぶん、冷たい色」

 「冷たいって?」

 「触ると、気持ちが少し動く感じ」


 凪はわからなかった。けれど、澪の声が少し震えていたので、それを“きれい”だと思った。


 彼らは灯台を離れて南へ向かっていた。岬の言葉を信じて、夜を頼りに歩く。昼は粉を避けるために、古い車体の影で休んだ。窓のガラスは溶け、車のタイヤは砂に沈んでいた。


 「これ、使える」

 凪はガラス片を拾い上げる。光を透かすと、薄く青い線が見える。

 「紙は駄目でも、これなら刻める」

 澪がうなずいた。


 凪は白く透けた貝を探し、爪で縁に刻んだ。

 “ミ”“オ”

 澪は笑って、「わたしも」と言い、自分の貝に“ナ”“ギ”と刻む。


 貝はすぐに欠ける。

 欠けるたびに、ふたりは新しい面を探して刻み直した。

 それが、彼らの手帖だった。


 「ねえ、もし全部忘れたら、どうする?」

 澪が問いかける。

 凪は少し考えてから言った。

 「もう一回、会う」

 「どこで?」

「知らない。でも、たぶん、骨が鳴る音で」

 澪が目を細める。

 「それ、詩みたい」

 「詩って?」

 「きっと、忘れないための音」


 *


 昼の終わり、彼らは“市場”にたどり着いた。

 といっても、人の声はなく、骨と貝とガラス片を並べて音を鳴らすだけの場所だった。

 誰かが鳴らした音に、誰かが別の音で返す。

 交換は、音が一致した瞬間に成立する。


 澪は小さな鈴を鳴らした。かすかな高音が響く。

 すると、その音に呼応するように、少女が一歩前に出てきた。

 旅芸の少女、雫。

 指先に赤い糸を巻きつけていて、それで“結わい”を作っていた。


 「きつく結ぶほど、痛くないの」

 雫は澪の手首を見つめ、微笑んだ。

 「痛くない?」

 「忘れる痛み。ゆるいと、そこから零れる」


 澪は黙って頷く。雫は赤い糸を澪の手首に結んだ。

 凪が見ていると、雫は糸の端を差し出す。

 「あなたの分は、自分で結んで」

 「なんで」

 「自分で結ぶと、ほどく手も覚えるから」


 凪は不器用な指で糸を巻く。何度もずれて、ほどけて、やっと結び目を作った。

 雫は笑った。

 「歌える人は、骨がよく鳴る」

 「……歌えない」

 「じゃあ、誰かが代わりに鳴らすよ」


 そう言って、雫は澪の鈴を鳴らした。

 その音が空に吸われる。粉の粒が反射して、白い光の筋が伸びた。


 *


 市場の奥では、別の者たちが噂をしていた。

 「リバウンドって知ってるか」

 「骨の海の真ん中、“白座”で起こるらしい」

 「最後にだけ全部戻るんだと。名前も、顔も、痛みも」


 凪はその言葉を胸の奥にしまい込んだ。

 “戻る”という響きが、なぜか怖かった。

 澪は興味なさそうに肩をすくめる。

 「戻っても、誰もいなかったらどうするの?」

 「それでも、名前だけでも取り戻せたら」

 凪は言った。

 「俺は、それでいい」


 澪は黙っていた。何も言わず、彼の横顔を見ていた。


 *


 夜、彼らは丘に登った。骨でできた丘。

 白く乾いた地面の上に、風で磨かれた骨の柱がいくつも立っている。

 澪は貝殻の手帖を取り出し、凪の貝と重ねた。

 「これ、ページの順番、あってるかな」

 「たぶん」

 「たぶん、か」

 澪は笑った。

 そして凪の頬に指を伸ばす。

 「ねえ、忘れるのは、凪のせいじゃないからね」

 凪は答えようとしたが、言葉が出なかった。

 彼はもう、“応える”という行為の順番を、いくつか落としていた。


 粉の風が吹く。貝殻が鳴る。骨の音と混じって、まるで誰かの歌みたいだった。

 澪は目を閉じ、かすかに笑った。


 「聞こえる?」

 「うん」

 「これも、詩かもね」


 澪はそのまま眠りに落ちた。

 凪はしばらく起きていた。風の音を数えていた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ——。

 指を二本立ててみる。誰も返さない。


 *


 明け方、粉の風が強くなった。

 澪の手首の結わいが白く濁っている。

 赤い糸の色が、塩で薄れていく。


 凪は焦って、自分の糸を解き、澪の結わいの上からさらに巻きつけた。

 貝殻の欠け端で固く押さえる。

 「ほどけるな」

 指先が白くなった。

 澪が目を開ける。

 「痛いよ」

 「痛い方がいい。忘れない」

 澪は小さく笑って、「うん」とだけ言った。


 *


 陽が昇りきる前に、ふたりは再び歩き出した。

 凪は海に向かって小さく歌う。

 澪がそれをなぞる。

 旋律は短く、すぐに風に消える。

 それでも、骨が鳴るような余韻だけが残った。


 「今の、覚えてる?」

 「……たぶん」

 「わたしも、たぶん」


 澪が微笑む。

 それだけで、世界が少し柔らかくなった気がした。


 *


 遠くで、灯台の灯がまた朝を迎えていた。

 岬は一人で芯を切り、昼の空を見上げる。

 「昼は、見えたものが剥がれる」

 彼は同じ言葉を繰り返した。


 灯台の壁には、かつて刻まれた無数の名前が残っている。

 だが、そのどれもが、すでに白く滲んでいた。

 岬の名も、昨日より少し薄くなっている。

 それでも彼は、まだ灯をともす。


 「見えなくても、灯せば、誰かが気づく」

 声はかすれ、風に溶けた。


 *


 凪と澪は、白座へ向かう道を歩いていた。

 空は灰色で、海も空も区別がつかない。

 澪が足を止める。

 「ねえ、次、名前が全部消えたら……」

 「うん」

 「わたしたち、どこに帰るの?」

 凪は答えられなかった。

 けれど、歩き出す。


 砂を踏む音が鳴る。

 しゃり、しゃり、と。

 音が、まだ鳴っているうちは、大丈夫だ。


 凪はポケットの中で、貝殻の手帖を握りしめた。

 文字はもう読めない。

 けれど、欠けた縁が指に触れるたび、胸の奥で何かが鳴った。


 それが、彼の中で唯一の“記憶”になっていた。

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