第10話「仮の名」
翌朝、潮の匂いが戻った。
骨鈴を鳴らすほどの風はなく、白い濁りは薄い。空の色は淡い灰で、その灰の奥に、ほんのわずかな青の名残が混ざっている気がした。澪は耳たぶに触れ、そこに残る粉の膜を爪でそっと剥がした。剥がれた粉は指の腹で丸まり、風の端に触れた瞬間、形をなくして散った。散るときの静けさが耳の奥に残る。
「ねえ、名前を分けよう」
澪が言った。言う前からずっと考えていた、そんな声だった。
「本当の名前は、最後にだけ使う。途中は仮を置く。仮の名は風に食べられにくい。たぶん」
凪は少しだけ考えてから、胸ポケットの貝手帖を取り出した。裏面はもう細かな欠けでいっぱいだ。彼は短い線を二本、縦に並べて“な”。横に曲線を置き“ぎ”。別の貝に“波”。さらに“風”と刻む。線は粗く、刻むたびに粉が舞い、文字の角が丸くなる。
「僕は、風でも波でも、どっちでも大丈夫」
「じゃあ、わたしは海にする」
澪は笑って、自分の貝に“う”“み”を刻んだ。刻みながら、指はわずかに震え、刻印はところどころで砂を引っかくように欠けた。欠け目は目印になる。目印は消えるのが遅い。
その日、二人は“仮の名”で呼び合うことにした。
「風、そっちは浅い?」
「海、ここは深い。右足だけ取られる」
呼び名が変わると、言葉の重さが少し変わった。凪は風らしく軽く歩こうとし、澪は海らしく広がる歩幅を選んだ。名前に引かれて体の動きが変わることが、思ったより心地よい。仮の名は衣のように皮膚に馴染み、二人の視線の高さまで少しだけ整えてくれる。
午前の白は薄く、砂の表面は乾いていた。砂粒は小さく鳴り、踏むたびに短い音が立つ。二人は三歩と二歩の合図を確認し、澪が円を置き、凪が円の外を追った。三拍目の遅れは昨日より短い。遅れが短いことを、澪は言葉にしない。言葉にすると、風が食べに来る。
やがて、古い踏切にたどり着いた。線路は砂に埋まり、遮断機は骨の棒で代用されている。誰かが置いていったのだろう。遮断機の付け根には錆の代わりに白粉が固まり、乳白色の瘤になっていた。骨の棒は軽く、風が吹けば倒れそうなのに、倒れず、そこにいる。
踏切の向こう側に、白座へ続く細い道が見えた。けれど道は歪み、近づくと遠ざかる。陽炎ではない。粉の幕が景色を折り曲げ、道を別の場所へ連れていく。見えているのに、踏み出すとずれる。
「風、合図を増やそう」
海はそう言って、自分の結わいから短い糸を一本外した。指先で新しい結びを作る。これは“迷ったときの結び”。ほどくときは、二人いっしょに引く。
「引く拍は、二拍子。せーの、って心でね」
風はうなずき、二人で糸の両端を持った。心の中で“せーの”と数え、同時に引く。糸は軽く鳴り、結び目は少しだけ固くなった。固さは、道の替わりだ。音が重なれば、薄い白でも渡れる。
踏切を渡る。足下で砂が鳴り、遠くで骨鈴が一度だけ応える。遮断機代わりの骨の棒が、ほんのわずかに揺れ、影が地面に細く伸びた。道はまっすぐではないが、二人の拍は道の歪みをまたぐ橋になる。
渡り切った先、砂に埋もれた踏板の隙間から、黒く乾いた木の匂いが上がってきた。澪——いや、海は鼻で短く呼吸し、視線だけで前を示す。
「風、あの小屋で、少しだけ休もう」
踏切の脇に、壁の半分が落ちた詰所のような小屋があった。屋根は半分剥がれていて、白光が斜めに差し込む。中には鉄の椅子と、ひしゃげた鐘がひとつ。鐘の口には粉が詰まり、ひどく軽い。
風が鐘をそっと持ち上げる。耳を近づけて振ると、鐘の中で粉がさらさらと動いて、小さく雨のような音がした。
「鳴らないね」
「鳴らない鐘は、見張りだけ残す」
海が椅子の背にもたれ、足の砂を払う。靴底から落ちた粉が、床に薄い地図のような模様を作る。
詰所の壁には、誰かが残した短い線があった。線は斜めに三本、間隔が少しずれて並ぶ。凪は指でなぞり、三拍目を遅らせて叩いた。
——とん、とん、間。
海が笑って、同じ拍で返す。
「仮の名の歌、作らない?」
「作る」
海は膝の上で指を揺らし、幼い歌を口に乗せた。
「かぜかぜ なぎなぎ なみにのる うみうみ」
風は笑い、同じ拍で返す。
「うみうみ なぎなぎ なみにのる かぜかぜ」
歌は短く、すぐに粉の膜に吸われた。けれど歌ったという事実が体に残る。仮の名で作った歌は、本当の名を守る薄い衣のようだった。衣は軽く、肩に落ちてもすぐに馴染む。
詰所の外に出ると、白の濃度は少し上がっていた。午後に入ったのだと、影の短さではなく、音の薄さで知る。骨鈴は鳴らず、代わりに遠い崖が熱で軋り、短い声を上げた。
「海、右に巻いていこう」
風が言う。仮の名を呼ぶ声が、彼自身の歩幅を軽くした。
「了解、風」
海は返事を短く切り、土踏まずから体を送る。結わいの輪が脈に合わせて小さく上下する。舞で覚えた重心の移し方が、道のない場所でも形を保たせる。
白はときどき厚くなり、景色の縁が折れる。道が右に傾いたと思えば、次の瞬間には左に滑る。ふたりは肩を並べず、半歩だけずらして歩いた。片方が視界を失えば、もう一方の肩が風上に出る。
途中、砂の上に線が続いている場所を見つけた。石をずらして引いた線。等間隔で短い円が刺さっている。
「誰かの、道の手帖だ」
海がしゃがみこみ、円の中で足をひとつ回して、立ち上がる。
「この円、踵からじゃなくて、爪先で入ると楽だよ」
「海の名乗り、歩き方まで大きくなるね」
「風は軽い。軽い人の言うことは、ときどき正しい」
二人は短く笑い、線の終わりまで歩いた。終わりには欠けた貝がひとつ置かれていた。裏には、崩れた字の残骸。
風は貝を手に取り、裏側の欠け目の形を目で覚えた。名は読めない。けれど欠け目は読める。目印は、地図より長く残る。
正午を少し過ぎたころ、砂地の向こうに、骨で組まれた橋が見えた。川はもう流れていない。白い膜だけが風に運ばれ、乾いた鱗のように川底を覆っている。橋の手前には、骨の柵と、半分埋まった看板。
「渡れるかな」
「渡るしかない」
骨橋は軽く、踏むたびに細く鳴る。鳴るたびに橋全体がわずかに沈み、沈むたびに反発して戻る。二人は拍をそろえ、海が先に一歩、風が半歩遅れて一歩。
橋の真ん中で、風が小さくつぶやいた。
「海、もし落ちたら、仮の名で呼ぶからね」
「本当の名は」
「最後に使う」
海はうなずき、横顔で空を見上げた。灰の向こう、ほんの一筋の青が走る。青はあっという間に白に馴染み、跡形を残さない。
橋を渡りきる寸前、風の足元で骨が一枚、わずかに軋んだ。沈む気配。風はとっさに体を捻り、海の背に手を当てた。海はその押しの力で前に滑り、砂地へ飛び降りる。風の足は橋に残る。
骨の音が強く、短く響いた。橋に集まった白粉が、音のあとでふわりと舞う。
「風」
「大丈夫」
風は橋の端に体重を移し、骨の弾みで地面に跳び移った。跳ぶとき、胸の中の三拍目がいつもより長く遅れた。遅れは恐怖の形だ。恐怖は、まだ残る。
砂に下り、二人はしばらく座った。呼吸を整える間、海は仮の名で風を呼んだ。
「風、風、風」
呼ぶたび、呼び方が少しずつ変わり、最後の“ぜ”の余韻が骨鳴りの高さに近づく。名前は音だ。音は拍に変わり、拍は合図に変わる。合図は、衣の下で骨を守る。
午後の後半、白が厚くなった。景色が折れて、踏み出すたびに角度が変わる。二人は“迷ったときの結び”を確かめ、糸の両端を持って、心の中で“せーの”。
引く。
糸が鳴る。
結びが固くなる。
足元が、わずかに安定する。
それでも、白は時々、問答無用で道を奪っていく。奪われるたび、二人は仮の名で呼び合い、呼ぶ声の軽さで、奪われなかった部分だけを拾い集めた。
日が傾きはじめるころ、小さな岩陰の窪みを見つけた。風の道から外れていて、粉は薄い。二人はそこに入り、荷を下ろす。
海は眠る前の舞を短く踊った。舞というより、拍の外側に足を置く訓練だ。仮の名で自分の癖を呼び出し、癖をいったん体の前へ出してから、胸の中へ戻す。
風は胸の骨を指で叩き、三拍目をわざと深く遅らせた。癖は本当の名前の影だ。影が残っていれば、最後に名前そのものを思い出せるはずだ。
「風」
「海」
呼び合う声が短く往復し、その往復が布の目に染み込んで、夜の音を少しだけ温かくした。
夜半、粉の風が通りすぎると、仮名で刻んだ貝のいくつかがわずかに薄くなっていた。それでも完全には消えない。二人はその薄さを指でなぞり、目を閉じて拍を揃える。
「海」
「風」
互いの呼び名は、夜の真ん中で、小さく確かな重みになっていた。
眠りの手前、海がそっと言う。
「ねえ、風。仮の名を増やしてもいい?」
「いくつでも」
「じゃあ、わたし、もうひとつ“波間”にする。間にいる名前。波と波の間」
「僕は“岸”を一つ借りる。止まる場所が一つ、欲しい」
海はうなずき、指で空に丸を描いた。丸の右に短い線。返し結びの図に似た形。
「仮の名は、手順だね」
「手順?」
「うん。最初に呼べる名前から呼ぶ。次に、呼びやすい癖を置く。最後に、呼べなかった名前を守る」
風は笑って、短く答えた。
「その手順、忘れないようにしよう」
「忘れたら、また作ろう」
海の声は軽いけれど、軽いまま骨の中に沈んでいった。
翌朝。
潮の匂いが、昨日より少しはっきりしている。遠くで崖が低く鳴り、返事のような音が遅れて届く。二人は窪みから出て、白座の方角を確かめた。
「風、今日は街跡を抜けていく」
「海の言う街跡は、いつも半分埋まっている」
「それでも街は街。道が、まだある」
砂に沈んだ街は、窓の枠と階段だけが生き残り、壁はほとんど白に溶けていた。階段を上がれば空。窓をのぞけば白。けれど枠の角はまだ角の形を保ち、そこで風が変わる。
街外れに、もう一つの踏切があった。こちらは遮断機もない。線路の向こうに、背の低い倉庫。倉庫の扉は半分開き、内側から白が薄くこぼれていた。
倉庫の壁に、文字のようなものが残っている。海が近づき、指で触れた。粉が指に移り、線はさらに薄くなった。
「読める?」
「たぶん……“仮置き場”」
海の声が少しだけ震えた。仮の名と同じ“仮”が、向こうの誰かにもう使われていたのだと知る。
倉庫の中には、網に入れた貝と、骨鈴の束と、短い棒。棒の先には、擦り切れた布が巻かれている。棒を振れば、白を払えるように作られていた。
風は棒を一本持ち上げ、倉庫の外に立って軽く振った。白が薄く散り、視界の縁がひと呼吸ぶんだけ深くなる。
「仮の名みたいだね。いったん払って、見えるところだけ進む」
「払い続けないと、また白くなる」
「払い続けよう。仮の名も、払う手も」
街跡を抜けると、小さな丘が連なった。丘の向こうに、海の色がほんの少し濃くなる帯が見えた。
「風、あそこまで行ったら、昼にしよう」
「了解、海」
呼び合う声が軽く、足が進む。仮の名は合図であり、祈りでもある。祈りという言葉を口に出さない代わりに、二人は拍で祈る。三拍、二拍。遅れ、一拍。
丘を越えて、白の切れ目で座る。海は貝手帖を開き、仮の名を増やす。
“海”“波間”“潮”
風は同じように、“風”“岸”“凪影”と刻んだ。影の字は崩れて、ほとんど絵のようだ。
「風、影って、何の影」
「たぶん、僕の。僕の形の影」
「本当の名の影?」
「うん。まだ、影なら言える」
海は頷き、影の字の欠け目を指で撫でた。欠け目は冷たく、すぐに温かくなる。温かさは名前がなくても残る。
午後、また白が厚くなった。視界が閉じ、音が薄まる。二人は“迷ったときの結び”を触り、心で“せーの”。引く。結びが固くなる。
それでも、ほんの一瞬、海の足が音のない穴に落ちた。膝まで沈み、息が詰まる。
「海」
風の声が届く。風は結わいの輪を掴み、体を低くした。海は自分の胸の結びに指をかけ、踵を浮かせる。二人の引きが重なり、穴の縁がざらりと崩れて、海の足が戻る。
「ありがと」
「仮の名、呼んだから」
「本当の名、呼びたくなった」
「最後まで残す」
海はうなずき、短く笑った。笑いはすぐに薄くなったけれど、薄くなる前に、足の筋肉の方へ移っていった。体が覚えれば、白でも落ちない。
夕暮れが近づく。空の灰が濃くなり、骨鈴が一度だけ遠くで鳴った。誰のものでもない返事。返事がないのと同じくらい、確かな返事。
二人は岩陰を見つけ、そこで夜を越すことにした。海は眠る前に、仮の名を三度呼ぶ。
「風」「風」「風」
風は胸の骨を叩き、三拍目を遅らせる。
「海」「海」「海」
呼び合う声の往復が、今日の最後の所作になる。
布を肩にかけ、骨鈴を伏せ、音を閉じ込める。閉じ込める前に、風はひとつだけ短い歌を置いた。
「かぜかぜ なぎなぎ なみにのる」
海が続ける。
「うみうみ なぎなぎ かぜをよぶ」
歌は小さく、夜の端に吸われた。吸われる前に、胸の内側に薄い衣を一枚、残していった。衣は軽く、眠りの温度をわずかに上げる。
夜半。
粉の風が遠くを過ぎ、布の目から音が少しにじむ。海は目を閉じたまま、仮の名を心の内で呼んだ。
風。
岸。
凪影。
呼ぶたび、骨が小さく鳴る。鳴るたび、忘れたいことは砂の方へ落ち、忘れたくないことは胸の方へ寄ってくる。
風もまた、心の内で海の仮名を順に呼んだ。
海。
波間。
潮。
呼ぶと、空洞が少しだけ縮む。縮んだ分だけ、三拍目の遅れが整う。
朝。
白い朝の少し手前、空の色が深くなり、遠い海面が薄く光る。二人は立ち上がり、荷を背負う。
「風、今日も仮の名で行こう」
「最後まで」
「最後って、いつだろうね」
「きっと、呼べるとき」
海は笑い、指を二本立てる。風も二本で返す。
まだ二人だ。
仮の名をいくつも肩にかけ、衣を重ねるように進む。衣は薄く、風に揺れてもほどけない。ほどけても、結び直せる。
足元の砂は、昨日よりもやわらかく、骨の音は少しだけ高い。高い音は遠くへ飛ぶ。遠くへ飛んだ音は、いつかどこかで返ってくるはずだ。
そのとき、本当の名を呼ぶ。
最後に一度だけ。
呼べるように。
呼ぶために。
今日も、二人は仮の名で呼び合った。
「海」
「風」
夜の真ん中で作った衣をまとって、白の中を、三歩、二歩、ひと呼吸で渡っていく。




