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白化行路(Hakka Kouro)  作者: しげみち みり


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第1話 潮鳴りの灯

 海は静かだった。

 けれど、確かに鳴っていた。


 波が寄せるたび、白い砕片が崩れては重なり、どこかで骨のこすれるような音がする。潮の下では、人の形をしていたものたちが、砂に還りきれずに残っているのだと、誰かが言っていた気がする。


 澪は膝をつき、貝殻に短い線を刻んだ。

 「——凪」


 そう書くつもりだったが、貝の曲面で線がずれて、文字はうねりのように崩れた。

 横で見ていた凪が、指先でそれを取り上げる。


 「ナ、まではいい」

 彼はもう片面を探り、爪で“ナ”を刻んだ。だが、“ギ”が思い出せない。舌の先まで来て、砂に吸われるみたいに遠のく。


 澪が笑った。

 「名前、減ってるね」

 「もうすぐ二段階目だろ」

 「知ってたの?」

 「たぶん」


 答えながら、凪はその自分の声に驚いた。まだ、驚けるだけの感情が残っていることにも。


 ふたりは海辺を離れ、崖の上の灯台を目指して歩く。風の粒子が白くきらめき、遠くの水平線がゆらめいて見えた。


 ——灯りがあれば、夜の粉風を少しは遠ざけられる。

 そう言ったのは、誰だったか。思い出せない。だが、記憶の欠片は方向だけを指している。


 途中、骨拾いの姉弟に出会う。

 姉は痩せていて、髪はすでに半分白化していた。弟は骨の袋を抱えていて、目を合わせようとしない。


 「粉風は西へ。夜は短くなるわ」

 姉は穏やかに言った。


 凪は礼として、破れた雨合羽を差し出す。

 澪は姉弟の手首に巻かれた白い紐に気づいた。


 「それ、結わい紐?」

 姉がうなずく。

 「忘れるより早く、固く結ぶ。ほどくのは、最後にね」


 風が鳴り、粉が舞った。弟が咳をすると、白い粒が唇から零れた。

 「もう行こう」

 凪は小声で言い、澪の手を引いた。


 *


 灯台は崖の上にあった。

 階段の半分は砂に埋もれ、手すりの鉄は塩の結晶でざらついている。

 灯台守の老人——岬は、そこで彼らを待っていた。


 「よく来たな」

 彼の眼は白く濁っていたが、足取りは確かだった。

 芯を整え、油を満たす動作は迷いがなく、まるで身体が覚えているかのようだった。


 「君たち、どこから来た」

 「……西の町」

 「まだ残っているか」

 凪は答えられなかった。

 代わりに澪が、「風が、全部持っていった」と呟いた。


 岬はうなずき、灯室を指さす。

 「ここは夜のためにある。昼は灯すな。見えたものが剥がれる」


 灯台の下の小部屋に、ふたりは身を寄せる。

 窓の外では、粉風が砂嵐のように吹き荒れていた。

 澪はポケットから小さな紙片を取り出す。震える手で“ミオ”と書き、凪に差し出す。


 「これ、あげる」

 「俺の名前、書けなかったくせに」

 「今度は書けるよ。たぶん」


 凪は笑って、紙を胸ポケットに入れた。

 そして貝殻の裏に“ナギ”と刻み足す。

 粉が舞い、指先が白く染まる。


 灯がともると、風が一瞬だけやんだ。

 壁に吊された風鈴が鳴り、白い粉がその音を飲み込んでいく。


 「この音、好き」

 澪がつぶやく。

 「もうすぐ聞こえなくなる」

 凪は答えた。

 言葉にした瞬間、風鈴が止まった。


 *


 夜半、岬が小部屋にやって来た。

 「声をなくす前に、歌え」


 凪は喉の奥を押さえる。声が少し、かすれていた。

 澪が首をかしげる。

 「歌ってたの?」

 「昔、たぶん」


 澪が笑って、口ずさむ。幼い童歌のような旋律。

 凪はそれに重ねてハミングした。音はすぐに崩れたが、ふたりは顔を見合わせて笑う。


 「今の、覚えてる?」

 「たぶん」


 澪は凪の手を握った。

 その温度だけは、まだ確かだった。


 *


 明け方、岬が灯を落とす。

 「夜は終わった」

 彼は空の色を確かめながら言った。

 東の空に薄い白が広がっている。


 「昼は、見えたものが剥がれる」

 繰り返すその声が、遠くで砕けた波音に溶けた。


 凪は胸ポケットを探った。

 紙片の“ミオ”の文字が薄く、白に溶けかけていた。

 焦って貝殻の裏にもう一度刻む。線が荒れ、粉が舞い上がる。


 澪がそれを見つめ、微笑んだ。

 「ねえ、あたしの名前、もう一回言って」

 「……澪」

 「よかった」


 それだけ言うと、彼女はまぶたを閉じた。

 凪はすぐに肩を揺らす。

 「寝るな」

 「寝てない」


 声はあった。まだ。


 *


 最初の夜が明けた。

 海は白く、鳴り続けている。

 潮の音に混じって、風鈴がかすかに鳴った。


 凪は言いかけた。

 ——明日も灯台に戻ろう。

 けれど、その言葉を飲み込む。

 約束は、白風がいちばん好む餌だから。


 代わりに短く言う。

 「行こう」


 澪は頷いた。

 その頷き方まで、少し白くなりかけていた。

 凪は見てしまう。

 見て、胸のなかで固く結ぶ。


 ——ほどくのは、最後に。


 崖の上で振り返ると、灯台の灯がまだかすかに揺れていた。

 海の鳴る音が遠ざかり、光の粒が風に溶けていく。


 凪は一度だけ、貝殻を握りしめた。

 「澪」

 呼んだ声が、波に吸われていった。


 白い粉が空を舞い、世界はまた少し静かになった。

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