水上都市と潮読みの巫女 #002
さらに幾日かが過ぎ、響箱車の外の空気が、明確にその質を変えた。
これまでの旅路で慣れ親しんだ、内陸の乾いた土と草の匂いが薄れ、どこか生命の根源を感じさせるような未知の香りが、車内の換気口から流れ込んでくる。
レゾは、その変化に気づいていた。
風の音も違う。木々の葉を揺らす音の奥に、低く、途方もなく大きく、絶え間なく続く轟音が響いている。それは、まるでこの世界そのものが、ゆっくりと呼吸を繰り返しているかのようだった。
やがて、車が最後の丘陵を越え、道の先が不意に開けた。
瞬間、レゾの視界の全てが、たった一つの色に染め上げられた。
青。
どこまでも、どこまでも続く、空よりもなお深い青。
地面という概念が終わったその先に、暴力的なまでの広大さで横たわる、巨大な水の平面。太陽の光を浴びて、その表面が無数のダイヤモンドのように、きらきら、きらきらと輝いていた。
レゾは、息を呑んだ。言葉を、失った。
彼の世界は、灰色と茶色の廃墟、そして緑の森だけで構成されていた。そのちっぽけな常識が、今、目の前の圧倒的な青によって、粉々に砕け散っていく。
「……水……?」
彼の唇から、か細い、ほとんど吐息のような声が漏れた。
その純粋な驚きに、彼の隣に座っていたベアトリーチェが、穏やかに微笑む。
「ええ、レゾさん。あれが、海ですわ。全ての生命の源にして、全ての始まりの場所。そして……あちらに見えるのが、私たちの目的地、水上都市アクアリーベです」
彼女が指し示した先。
どこまでも続く青に抱かれるようにして、陽光を浴びて輝く、美しい都市が浮かんでいた。無数の優美な塔が天に向かって伸び、建物と建物の間を、銀色の水路が網の目のように走っている。
その光景に、それまで黙っていたルカが、ぽつりと言った。その声には、郷愁と、微かな誇りが滲んでいる。
「私の……故郷……です。あの、一番高い灯台の麓が、船着き場になっていて……。街の中も、全部、水路で繋がっているんですよ」
「はしゃいでるのは、あんたたちだけよ。ただの水じゃない」
ニコルが、腕を組んだまま、そっぽを向いて悪態をつく。だが、その横顔が、少しだけ緩んでいるのをレゾは見逃さなかった。
エレナは、静かに窓の外を見つめている。
「……生命の、源の音……。そして、全てを呑み込み、全てを産み出す、偉大な沈黙……」
その詩のような呟きは、誰の耳にも届かなかったかもしれない。
美しい街だ、とレゾは思った。
まるでおとぎ話に出てくる絵のようだ。今まで見てきたどんな景色よりも、壮大で、美しい。
だが、同時に、その美しさにそぐわない、強烈な違和感があった。
彼の耳に届く、街全体の「音」が、どこかおかしいのだ。
たくさんの音がしている。人々の声、ゴンドラの水音、工房の槌音、市場のざわめき。それらが、本来ならば一つの心地よい「音楽」になるはずなのに、今はまるで、調律の狂った楽器を無理やりかき鳴らしたかのように、バラバラに、不機嫌に響いていた。
美しい旋律が、どこか深い場所で傷つけられ、痛みに喘いでいるような、奇妙な不協和音。
「……綺麗……だけど……」
レゾが眉をひそめて呟く。
「何だろう。街の音が、少し、痛い……?」
その言葉に、それまで穏やかだったベアトリーチェの表情が、すっと引き締まった。彼女は、自らのこめかみを軽く押さえている。彼女の持つ絶対音感もまた、街が発する不協和音の正体に、そしてその音に込められた「痛み」に、気づき始めていたのだ。
希望の都アクアリーベ。
その美しい見た目とは裏腹に、街は今、音のない病に、静かに蝕まれていた。