水上都市と潮読みの巫女 #001
レゾは、柔らかな寝台の上で目を覚ました。
彼の全身を包むのは、硬い石の感触ではない。使い込まれた毛布が持つ、乾いた太陽の匂いと、確かな温もり。そして何より、彼の内側から響いてくる、あの忌まわしい「悲鳴」がない。
ただ、静謐。
その事実だけで、胸の奥がじんわりと熱を持つことを、彼はここ数日で学んでいた。
寝台からそっと降りる。
足裏に触れる床板が、心地よいリズムできしむ音。それすら、彼にとっては新しい音楽だった。
響箱車の内部。彼の知る、世界の全て。
壁際の書棚に並ぶ、古びた紙の匂い。テーブルの隅でエレナが淹れているのだろう、東方の茶葉が放つかすかな香り。そして、部屋の中央に置かれたテーブルからは、厨房から漂ってくるスープの湯気が、彼の空っぽの胃を優しく刺激していた。
「おはようございます、レゾさん」
穏やかな声に振り向けば、ベアトリーチェが微笑んでいた。
彼女はもう身支度を終え、騎士風の装束をきっちりと着こなしている。その姿は、朝日の中で凛として見える。
レゾは、まだうまく言葉を返せない。ただ、こくりと一つ頷く。
それだけで、彼女は嬉しそうに、さらに笑みを深めた。
差し出された朝食は、少し硬めの黒パンと、塩漬け肉と野菜のスープ。廃墟で口にしていた泥の味のする木の根とは、何もかもが違う。レゾは、その温かい塩気が舌に広がるたびに、自分が「生きている」ことを実感した。
食事が終わると、響箱車はその巨体を揺らし、ゆっくりと走り出した。
窓際の席。彼の特等席だ。
彼は、窓ガラスに額を押し当て、外を流れていく景色を瞬きも忘れて見つめた。
廃墟の灰色しかなかった彼の世界。それが今、豊かな色彩で塗り替えられていく。生命力に満ちた森の緑。岩肌を縫って流れる川の白。そして、どこまでも広がる空の青。
時折、見たこともない鳥が、窓のすぐそばを横切っていく。
すごい。
彼の視線の先、全てが動き、様々な音で満ちている。
だが、その感動は、不意に訪れる不安によって、冷たい影を落とされる。
車が大きく揺れた。獣の遠吠えが、遠くから聞こえた。
そのたびに、彼の心臓は氷水で冷やされたように、きゅっと縮こまる。無意識にポケットの中を探り、あの冷たい歯車の、硬質な感触を確かめる。
ここが安全な場所だと、頭では分かっている。
それでも、彼の魂に刻み込まれた「世界への恐怖」は、まだ消えてはいない。
期待と不安。温かい光と、冷たい影。
二律背反の感情の狭間で、彼の旅は続いていた。
●
ある日の午後だった。
彼の視線の先にあるのは、壁に貼られた一枚の大きな羊皮紙。そこに描かれた無数の線と、読めない文字を、彼は飽きもせずに眺めていた。
「それは、このメロディア大陸の地図ですわ」
不意に、隣から声がした。いつの間にか、ベアトリーチェが彼の隣に立っている。彼女の髪から、ふわりと花の香りがした。
「私たちがいた廃墟は、このあたり。忘れられた『轟響』の地の末端ですわね。そして今、目指しているのが……ここ」
彼女の白魚のような指が、地図の上を滑り、大陸の沿岸部にある一つの点を、とん、と指し示した。
「水上都市、アクアリーベ。『七響都市』が一つにして、『流響』の加護篤き交易の街。百年前の崩壊からも、その水の流れのようにしなやかに立ち直った、希望の都です」
地図。故郷。目的地。
七響都市。流響。
レゾは、その言葉の意味を、一つ一つ、噛みしめるように反芻する。
自分たちがどこにいて、どこへ向かっているのか。その事実が、まるで錨のように、彼の曖昧な存在を、この世界に繋ぎ止めてくれるようだった。
ベアトリーチェの横顔を見上げる。彼女の碧い瞳は、地図の上の、その先にある未来を見つめていた。
「……ありがとう」
ぽつりと、彼が言うと、ベアトリーチェは心底意外そうな顔をして、けれどすぐに、これまでで一番優しい笑顔を見せた。
その笑顔を見て、レゾはまた、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
●
その日の午後、響箱車は小川のほとりで小休止をとっていた。
ベアトリーチェは、車体の点検と、次の街までのルートを確認している。レゾは、言いつけ通り、車のすぐそばの切り株に座り、ぼんやりと川の流れを眺めていた。
彼の隣に、おずおずと誰かが立った気配がする。
見れば、ルカが小さな包みを手に、視線をあちこちに彷徨わせながら立っていた。何かを言いたげに口をもごもごと動かしているが、なかなか言葉にならないらしい。彼女の纏う「響き」が、困惑と躊躇いで、水面のように小さく波打っている。
レゾもまた、どう反応していいか分からず、ただ黙って彼女を見ていた。
その、奇妙な沈黙を破ったのは、第三者の、少し苛立ったような声だった。
「いつまで、そうしてるつもりよ」
声の主は、ニコルだった。彼女は、車の入り口に寄りかかり、腕を組んで二人を睨んでいる。
「ルカ! あんた、それを渡したいんでしょ! さっさと渡しなさいよ!」
「ひゃっ!?」
突然怒鳴られ、ルカの肩が大きく跳ねる。
「レゾ。あんたもあんたよ! 欲しいなら欲しいって、ハッキリした顔をしなさい! 分かりにくいのよ!」
「え……」
なぜ、自分まで怒られているのか。レゾには、全く理解できない。
だが、ニコルの言葉に背中を押されたのか、ルカは「うぅ……」と涙目になりながらも、持っていた包みを、ずい、とレゾの目の前に突き出した。
「あ、あの……これ、アクアリーベの……名物の、お菓子……なんです。よかったら、どうぞ……」
差し出されたのは、甘い蜜でコーティングされた、木の実の焼き菓子だった。
レゾは、ルカと、少し離れた場所でそっぽを向くニコルを交互に見た。ニコルの響きは、相変わらず鋭く尖っている。けれど、その奥に、ほんの少しだけ、困ったような、温かい響きが混じっているのを、彼は感じ取っていた。
●
(ふぅ)
ルカは、レゾに包みを押し付けながら、心の中でため息をついた。
本当は、もっと普通に、自然に渡したかったのだ。「休憩にしませんか」とか、気の利いた一言を添えて。でも、いざ本人を目の前にすると、どうしても言葉が出てこない。
彼を見ていると、昔の自分を思い出すからかもしれない。
誰にも理解されず、独りで自分の力に怯えていた、幼い頃の自分。
だから、助けてあげたい。力になってあげたい。そう思うのに、体が動かない。
そんな自分に、いつも助け舟を出してくれるのが、ニコルだった。
彼女の言い方は乱暴だけど、そのおかげで、こうして彼にお菓子を渡すことができた。ありがとう、と心の中で呟く。
少年――レゾは、戸惑いながらも、包みを受け取ってくれた。そして、小さな声で「……ありがとう」と言った。
その一言だけで、胸が温かくなった。
彼が、一口、お菓子を口に運ぶ。その瞬間、彼の表情が、ぱあっと輝いた。本当に、本当に美味しそうに、幸せそうに食べるのだ、この人は。
その顔を見ているだけで、こちらまで幸せな気持ちになる。
いつか、この子が、心から笑える日が来るといいな。
ルカは、そっと、そう願った。
●
その日の夜。
響箱車の中、ランプの灯りが穏やかに揺れていた。
レゾは、自分の寝台の上で、例の歯車をじっと見つめていた。昼間にもらったお菓子の、優しい甘さがまだ舌に残っている。
仲間。
その言葉の意味を、彼はまだ知らない。
だが、この響箱車の中で感じる、この温かい感覚が、きっとそれに近いのだろう、と彼は思った。
「……それは、あなたの道標?」
不意に、静かな声がした。
顔を上げると、いつの間にか、エレナが彼の寝台のそばに立っていた。気配がなさすぎて、全く気づかなかった。
彼女は、レゾが手に持つ歯車を、興味深そうに見つめている。その紫の瞳は、ただの鉄の塊を見ているのではない。もっと、その奥にある、根源的な何かを見透かしているようだった。
「……その歯車……とても、古い音……」
エレナは、囁くように言った。
「たくさんの時間を、眠らせているのね……。今はまだ、固く閉じているけれど。いつか、あなた自身の響きが、この歯車の時間を、動かす日が来る……」
難しい言葉。
レゾには、その意味は分からない。
けれど、彼女が、この歯車を「ただのガラクタ」だと思っていないことだけは、はっきりと伝わってきた。
この人もまた、自分と同じように、「音」で世界を感じている。
そう思うと、ニコルとはまた違う意味で、彼女との間に、細く、静かな繋がりが生まれたような気がした。