表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

水上都市と潮読みの巫女 #001



 レゾは、柔らかな寝台の上で目を覚ました。


 彼の全身を包むのは、硬い石の感触ではない。使い込まれた毛布が持つ、乾いた太陽の匂いと、確かな温もり。そして何より、彼の内側から響いてくる、あの忌まわしい「悲鳴」がない。


 ただ、静謐。


 その事実だけで、胸の奥がじんわりと熱を持つことを、彼はここ数日で学んでいた。


 寝台からそっと降りる。


 足裏に触れる床板が、心地よいリズムできしむ音。それすら、彼にとっては新しい音楽だった。


 響箱車の内部。彼の知る、世界の全て。


 壁際の書棚に並ぶ、古びた紙の匂い。テーブルの隅でエレナが淹れているのだろう、東方の茶葉が放つかすかな香り。そして、部屋の中央に置かれたテーブルからは、厨房から漂ってくるスープの湯気が、彼の空っぽの胃を優しく刺激していた。


「おはようございます、レゾさん」


 穏やかな声に振り向けば、ベアトリーチェが微笑んでいた。


 彼女はもう身支度を終え、騎士風の装束をきっちりと着こなしている。その姿は、朝日の中で凛として見える。


 レゾは、まだうまく言葉を返せない。ただ、こくりと一つ頷く。


 それだけで、彼女は嬉しそうに、さらに笑みを深めた。


 差し出された朝食は、少し硬めの黒パンと、塩漬け肉と野菜のスープ。廃墟で口にしていた泥の味のする木の根とは、何もかもが違う。レゾは、その温かい塩気が舌に広がるたびに、自分が「生きている」ことを実感した。


 食事が終わると、響箱車はその巨体を揺らし、ゆっくりと走り出した。


 窓際の席。彼の特等席だ。


 彼は、窓ガラスに額を押し当て、外を流れていく景色を瞬きも忘れて見つめた。


 廃墟の灰色しかなかった彼の世界。それが今、豊かな色彩で塗り替えられていく。生命力に満ちた森の緑。岩肌を縫って流れる川の白。そして、どこまでも広がる空の青。


 時折、見たこともない鳥が、窓のすぐそばを横切っていく。


 すごい。


 彼の視線の先、全てが動き、様々な音で満ちている。


 だが、その感動は、不意に訪れる不安によって、冷たい影を落とされる。


 車が大きく揺れた。獣の遠吠えが、遠くから聞こえた。


 そのたびに、彼の心臓は氷水で冷やされたように、きゅっと縮こまる。無意識にポケットの中を探り、あの冷たい歯車の、硬質な感触を確かめる。


 ここが安全な場所だと、頭では分かっている。


 それでも、彼の魂に刻み込まれた「世界への恐怖」は、まだ消えてはいない。


 期待と不安。温かい光と、冷たい影。


 二律背反の感情の狭間で、彼の旅は続いていた。



 ある日の午後だった。


 彼の視線の先にあるのは、壁に貼られた一枚の大きな羊皮紙。そこに描かれた無数の線と、読めない文字を、彼は飽きもせずに眺めていた。


「それは、このメロディア大陸の地図ですわ」


 不意に、隣から声がした。いつの間にか、ベアトリーチェが彼の隣に立っている。彼女の髪から、ふわりと花の香りがした。


「私たちがいた廃墟は、このあたり。忘れられた『轟響』の地の末端ですわね。そして今、目指しているのが……ここ」


 彼女の白魚のような指が、地図の上を滑り、大陸の沿岸部にある一つの点を、とん、と指し示した。


「水上都市、アクアリーベ。『七響都市』が一つにして、『流響』の加護篤き交易の街。百年前の崩壊からも、その水の流れのようにしなやかに立ち直った、希望の都です」


 地図。故郷。目的地。


 七響都市。流響。


 レゾは、その言葉の意味を、一つ一つ、噛みしめるように反芻する。


 自分たちがどこにいて、どこへ向かっているのか。その事実が、まるで錨のように、彼の曖昧な存在を、この世界に繋ぎ止めてくれるようだった。


 ベアトリーチェの横顔を見上げる。彼女の碧い瞳は、地図の上の、その先にある未来を見つめていた。


「……ありがとう」


 ぽつりと、彼が言うと、ベアトリーチェは心底意外そうな顔をして、けれどすぐに、これまでで一番優しい笑顔を見せた。


 その笑顔を見て、レゾはまた、胸の奥が温かくなるのを感じていた。



 その日の午後、響箱車は小川のほとりで小休止をとっていた。


 ベアトリーチェは、車体の点検と、次の街までのルートを確認している。レゾは、言いつけ通り、車のすぐそばの切り株に座り、ぼんやりと川の流れを眺めていた。


 彼の隣に、おずおずと誰かが立った気配がする。


 見れば、ルカが小さな包みを手に、視線をあちこちに彷徨わせながら立っていた。何かを言いたげに口をもごもごと動かしているが、なかなか言葉にならないらしい。彼女の纏う「響き」が、困惑と躊躇いで、水面のように小さく波打っている。


 レゾもまた、どう反応していいか分からず、ただ黙って彼女を見ていた。


 その、奇妙な沈黙を破ったのは、第三者の、少し苛立ったような声だった。


「いつまで、そうしてるつもりよ」


 声の主は、ニコルだった。彼女は、車の入り口に寄りかかり、腕を組んで二人を睨んでいる。


「ルカ! あんた、それを渡したいんでしょ! さっさと渡しなさいよ!」

「ひゃっ!?」


 突然怒鳴られ、ルカの肩が大きく跳ねる。


「レゾ。あんたもあんたよ! 欲しいなら欲しいって、ハッキリした顔をしなさい! 分かりにくいのよ!」

「え……」


 なぜ、自分まで怒られているのか。レゾには、全く理解できない。


 だが、ニコルの言葉に背中を押されたのか、ルカは「うぅ……」と涙目になりながらも、持っていた包みを、ずい、とレゾの目の前に突き出した。


「あ、あの……これ、アクアリーベの……名物の、お菓子……なんです。よかったら、どうぞ……」


 差し出されたのは、甘い蜜でコーティングされた、木の実の焼き菓子だった。


 レゾは、ルカと、少し離れた場所でそっぽを向くニコルを交互に見た。ニコルの響きは、相変わらず鋭く尖っている。けれど、その奥に、ほんの少しだけ、困ったような、温かい響きが混じっているのを、彼は感じ取っていた。



(ふぅ)


 ルカは、レゾに包みを押し付けながら、心の中でため息をついた。


 本当は、もっと普通に、自然に渡したかったのだ。「休憩にしませんか」とか、気の利いた一言を添えて。でも、いざ本人を目の前にすると、どうしても言葉が出てこない。


 彼を見ていると、昔の自分を思い出すからかもしれない。


 誰にも理解されず、独りで自分の力に怯えていた、幼い頃の自分。


 だから、助けてあげたい。力になってあげたい。そう思うのに、体が動かない。


 そんな自分に、いつも助け舟を出してくれるのが、ニコルだった。


 彼女の言い方は乱暴だけど、そのおかげで、こうして彼にお菓子を渡すことができた。ありがとう、と心の中で呟く。


 少年――レゾは、戸惑いながらも、包みを受け取ってくれた。そして、小さな声で「……ありがとう」と言った。


 その一言だけで、胸が温かくなった。


 彼が、一口、お菓子を口に運ぶ。その瞬間、彼の表情が、ぱあっと輝いた。本当に、本当に美味しそうに、幸せそうに食べるのだ、この人は。


 その顔を見ているだけで、こちらまで幸せな気持ちになる。


 いつか、この子が、心から笑える日が来るといいな。


 ルカは、そっと、そう願った。



 その日の夜。


 響箱車の中、ランプの灯りが穏やかに揺れていた。


 レゾは、自分の寝台の上で、例の歯車をじっと見つめていた。昼間にもらったお菓子の、優しい甘さがまだ舌に残っている。


 仲間。


 その言葉の意味を、彼はまだ知らない。


 だが、この響箱車の中で感じる、この温かい感覚が、きっとそれに近いのだろう、と彼は思った。


「……それは、あなたの道標?」


 不意に、静かな声がした。


 顔を上げると、いつの間にか、エレナが彼の寝台のそばに立っていた。気配がなさすぎて、全く気づかなかった。


 彼女は、レゾが手に持つ歯車を、興味深そうに見つめている。その紫の瞳は、ただの鉄の塊を見ているのではない。もっと、その奥にある、根源的な何かを見透かしているようだった。


「……その歯車……とても、古い音……」


 エレナは、囁くように言った。


「たくさんの時間を、眠らせているのね……。今はまだ、固く閉じているけれど。いつか、あなた自身の響きが、この歯車の時間を、動かす日が来る……」


 難しい言葉。


 レゾには、その意味は分からない。


 けれど、彼女が、この歯車を「ただのガラクタ」だと思っていないことだけは、はっきりと伝わってきた。


 この人もまた、自分と同じように、「音」で世界を感じている。


 そう思うと、ニコルとはまた違う意味で、彼女との間に、細く、静かな繋がりが生まれたような気がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ