沈黙の悲鳴 #002
ベアトリーチェに促されるまま、レゾはおずおずと椅子に腰を下ろした。
硬い石の感触しか知らなかった身には、使い込まれた木製の椅子ですら、分不相応に柔らかなものに感じられる。
目の前には、湯気の立つ木の椀が置かれた。中には、黄金色のスープがなみなみと注がれている。ごろり、と大きな野菜が顔を覗かせていた。
ごくり、と喉が鳴る。
だが、彼はすぐに手を伸ばすことができなかった。
彼の視界の端に、二つの新たな「音」が捉えられたからだ。
一つは、鋭い音。
壁際に寄りかかり、腕を組む黒衣の少女。切りそろえられた黒髪に、闇の中でも爛々と輝きそうな赤い瞳。彼女の放つ響きは、短く、鋭く、尖っている。まるで、引き絞られた弓の弦。触れれば、指が切れてしまいそうなほどの緊張感をはらんでいた。
その赤い唇が、ち、と小さく舌打ちするのに似た音を立てる。
「ベアは甘いわね。どこの馬の骨とも分からない子を、易々と乗せるなんて」
声もまた、彼女の響きそのものだった。硬質で、他人を寄せ付けない響き。
レゾの体が、無意識にこわばる。
そうだ。これだ。これが、自分が知っている「他人」の音だ。拒絶と、警戒と、値踏みするような響き。
だが、もう一つの音色が、その緊張をふわりと受け止めた。
それは、静かな音。
テーブルの隅に座る、銀髪の少女。彼女は、まるでそこにいないかのように気配が薄い。月の光を編んだような髪に、吸い込まれそうな紫の瞳。彼女の響きは、音を喰らう音だ。まるで、降りしきる雪が、世界のあらゆる雑音を吸い込んでいくかのような、絶対的な静けさ。
その彼女が、ニコルと呼ばれた黒衣の少女に、囁くように言った。
「……いいえ、ニコル。この子の響き……とても純粋……。でも、とても、悲しい……」
その声は、レゾの耳には届かない。
けれど、彼の内なる「調和」は、確かにその静かな肯定の響きを感じ取っていた。
ベアトリーチェは、ニコルの棘のある言葉を意に介した様子もなく、ただ穏やかにレゾを見つめている。
「さあ、冷めないうちに。毒なんて入っていませんわよ」
いたずらっぽく微笑む彼女に、レゾはびくりと肩を揺らした。心を、読まれたのか。
違う。この人は、ただ、優しいだけだ。
その事実が、彼の背中をそっと押した。
震える手で、匙を握る。
廃墟で拾った、錆びた鉄の匙とは違う。滑らかで、温かみのある木製の匙。
それを、恐る恐るスープに沈めた。
一口、口に運ぶ。
瞬間、彼の体中に、雷に打たれたような衝撃が走った。
――温かい。
そして。
――美味しい。
野菜の甘み。干し肉から染み出た塩気と旨味。様々な食材が煮溶け、一つの「調和」を生み出している。
それは、彼が今まで口にしてきた「生きるための糧」とは全く違う、心を、魂を、満たすための「食事」の味だった。
涙が、また滲んだ。
今度の涙は、安堵ではない。もっと、ずっと単純な、子供のような感情の発露だった。
それが、ただ、嬉しかった。
彼は、もう止まらなかった。夢中で匙を口に運び続ける。熱さも忘れて、ただ、その温かな奇跡を体に取り込んでいく。
その姿を、ベアトリーチェは母のような微笑みで見守り、ルカはどこか安心したように胸を撫で下ろし、ニコルは呆れたように、けれど少しだけその口元を緩めて、壁に寄りかかっていた。
エレナだけが、静かに目を伏せ、小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……可哀想に。お腹の音まで、ずっと、泣いていたのね……」
椀の中身が空になる頃には、レゾの心臓を叩いていた激しい鼓動は、穏やかなリズムを取り戻していた。
空腹が満たされたからではない。
ただ、この空間が、ここにいる人々が、自分を害するものではないという確信が、冷え切った彼の体に染み渡っていたからだ。
食べ終わるのを待っていたかのように、ベアトリーチェが口を開いた。その声には、先ほどまでの憐憫とは違う、凛とした響きが宿っている。
「さて。少し、私たちのことをお話ししますわね」
彼女は、まず自らの胸にそっと手を当てた。
「私たちは、響箱団。見ての通り、この響箱車で大陸を旅しながら、百年前の『共鳴崩壊』が遺した音の歪み――不協和体や、それに苦しむ人々を助けて回っている、しがない調律師の一団です」
響箱団。調律師。
レゾの知らない言葉が、するりと彼の耳を通り抜けていく。
ベアトリーチェは、そんな彼の様子を確かめるように見つめ、そして、本題へと入った。その碧い瞳が、真っ直ぐにレゾを射抜く。
「私たちは、あなたを助けたい。けれど、そのためには、あなたのことを知る必要があります。差し支えなければ、教えていただけませんか?」
彼女は、言葉を一つ一つ、慎重に紡いだ。
「あなたの、お名前は? なぜ、あの場所に、たった一人でいたのですか?」
名前。
その単語を反芻した瞬間、レゾの世界から、再び音が消えた。
ベアトリーチェがもたらした、温かい調和とは違う。彼の記憶が存在すべき場所にある、底なしの、冷たい虚無。
彼は、答えようとした。
この温かい人たちに、自分という人間を伝えたかった。差し出された善意に、誠意で応えたかった。
だが、言葉が、出てこない。
記憶の井戸を、いくら深く、深く覗き込んでも、そこには何も映らない。ただ、自分の空っぽな輪郭が、揺らめいているだけだ。
「おれ……は……」
やっとの思いで、声が漏れた。
「……わからない」
「え?」
ベアトリーチェが、わずかに眉をひそめる。
「なにも……思い出せないんです。自分が、誰なのか。どうしてあそこにいたのか……。名前も……」
最後の方は、ほとんど音にならなかった。
しん、と響箱車の中が静まり返る。
ベアトリーチェの響きから、凛とした張りが消え、深い悲しみの音が滲んだ。ルカのそれは、怯えるように揺らめいている。腕を組んでいたニコルの鋭い響きが、一瞬、ぴたりと止んだ。
ただ、エレナの静かな音だけは、変わらなかった。まるで、最初からすべてを知っていたかのように。
重い沈黙を破ったのは、やはりベアトリーチェだった。
「……そうでしたか。辛いことを、お聞きしましたわね。ごめんなさい」
彼女は立ち上がると、棚から真新しいシャツを取り出した。
「ともかく、その服では体が冷えてしまいますわ。少し大きいですけれど、こちらに着替えてください」
彼女が、レゾの着ていた、もはや襤褸と呼ぶしかない服に手をかけた、その時だった。
カラン、と。
硬質な、しかしどこか澄んだ音を立てて、服の破れたポケットから何かが床に転がり落ちた。
それは、手のひらに収まるほどの、古びた歯車。
響鋼にも似た、鈍い黒光りを放つ金属。その表面はひどく摩耗していたが、縁にかろうじて、いくつかの文字が刻まれているのが見えた。
ベアトリーチェがそれを拾い上げ、ランプの光にかざす。
「……R……E……S……O……?」
彼女が読み上げた四つのアルファベット。
それが何を意味するのか、誰にも分からない。
けれど、これが、記憶のない彼が持っていた、唯一の物。
ベアトリーチェは、新しい服に着替えて少しだけ人の形を取り戻した少年に向き直ると、その歯車を彼の掌に、そっと握らせた。
「あなたの本当の名前が思い出せるまで、で構いません。でも、名前がないのは、きっと寂しいでしょうから」
彼女は、花が綻ぶように微笑んだ。
「よかったら、この歯車にちなんで、『レゾ』と。……そう、呼ばせていただけませんか?」
レゾ。
その響きが、彼の空っぽの世界に、最初の音色を灯した。
彼は、自分の掌の中にある、ひんやりと重い歯車を見つめた。己の過去へと繋がる、唯一の道標。
そして、目の前で微笑むベアトリーチェの顔を見た。己の未来を、照らしてくれた最初の光。
レゾは、小さく、しかしはっきりと、一度だけ頷いた。
そして、確かめるように、自分の名前を呟いた。
「レゾ……」
それは、彼がこの世界で発した、最初の意味のある言葉だった。