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沈黙の悲鳴 #001



 音の亡骸が、折り重なる場所だった。


 百年前の「共鳴崩壊」 。その災厄によって地図から消し飛んだ村の、これが成れの果てだ。


 風が吹き抜ける。けれど、少年には届かない。


 彼の世界は、音のない音で満ちている。


 ――痛い。


 思考ではない。もはや、生理的な感覚だ。


 声にならぬ絶叫が、耳ではなく、脳の芯に直接突き刺さる。ありし日の村人たちの笑い声。食卓を囲む団らん。鍛冶場の槌音。祭りの日の歌。それら全てが、崩壊の瞬間の大不協和音に塗り潰され、おぞましい残響となって少年の内側で渦巻いていた。


 人はこれを呪いと呼び、獣はこの気配を恐れて寄り付かない。


 沈黙の悲鳴。


 それが、少年の世界のすべてだった。


 彼は、とうに崩れ落ちた鐘楼の土台に背を預け、両膝を抱えていた。意味などない。物理的に耳を塞いでも、この悲鳴は止まらないのだから。それでも、そうせずにはいられない。この世界に生きる自分が、かろうじて正気でいるための、ただの儀式だった。


 空腹は、とうに感覚が麻痺している。


 昨日食べた、雨水でぬめった木の根の味が、舌の奥にこびりついているだけだ。それでも彼は、この場所を離れなかった。


 彼には、記憶がない。


 己が誰で、どこから来たのか、何一つ思い出せない。


 だから、この廃墟だけが、彼の「故郷」と呼べる唯一の場所だった。この悲鳴だけが、彼の過去と繋がる唯一の証明だった。


 その、瞬間。


「…………え?」


 不意に、嵐が凪いだ。


 違う。消えたのではない。


 彼の内側で荒れ狂っていた数万、数億の不協和音が、まるで絶対的な指揮者のタクトが振るわれたかのように、たった一つの、澄んだ響きへと収束していく。


 静かだ。


 違う。これは、静か、などという陳腐な言葉ではない。


 生まれて初めて知る、音の『調和』。


 空っぽの無音ではない。心を、魂を、その根源から優しく包み込むような、温かい沈黙。


 少年は、忘れていた呼吸を思い出したように、浅く、短く息を吸った。顔を上げる。涙が滲んで、夕暮れの視界がぐにゃりと歪んだ。


 そこに、誰かいる。


 逆光の中に立つ、一人の少女。


 夕日に溶ける赤褐色の編み込み髪。騎士を思わせる、実用的ながらも気品のある装束。


 何より、彼女から発せられる“音”が、違った。


 澄み渡り、どこまでも真っ直ぐで、微塵の揺らぎもない、力強い音色。それは、少年が聴き続けてきた、濁流のような残響とは全く異質の、一つの完成された『音楽』だった。


 少女は、少年を見て少しだけ目を見開く。その碧い瞳に映るのは、驚き。そして、深い、深い憐憫。


 彼女は、ゆっくりと歩み寄ってくる。一歩、また一歩と彼女が近づくたびに、少年の内の悲鳴は和らぎ、調和の響きが満ちていく。


 やがて、彼の目の前で足を止めると、少女は痛ましげに眉を寄せ、そっと口を開いた。


「あなたの“音”、少しだけ、調律させてもらいました。……楽に、なりましたか?」


 言葉の、意味は分からない。


 けれど、ただ、分かった。


 この人が、この奇跡をくれた。


 その事実だけが、冷え切った彼の胸に確かな熱を灯す。


 次の瞬間、彼の大きな瞳から、ぽろり、と大粒の涙が零れ落ちた。


「……ぁ……ぅ、あ……」


 声にならない。嗚咽にならない。


 ただ、堰を切ったように涙だけが溢れ、頬を伝い、乾いた地面に染みを作っていく。


 嬉しいのか、悲しいのか、それすら分からない。


 ただ、温かかった。


 世界に疎まれ、拒絶され続けた魂が、初めて「あなた」と認識され、「大丈夫か」と気遣われた。


 その温かさが、彼の孤独を静かに、溶かしていく。



 そんな彼の様子を、少女――ベアトリーチェは、ただ静かに見守っていた。


 驚きは、もうない。憐憫も、今は違う。


 目の前で、まるで生まれたての赤子のように泣きじゃくる少年。


 その魂から発せられる「響き」は、先ほどまでの荒れ狂う不協和音が嘘のように、澄み渡っている。あまりに純粋で、あまりに無防備。硝子細工のように繊細なその音色は、彼女の心を強く揺さぶった。


 彼女はゆっくりと膝を折り、泣き濡れる少年の目線に、己の高さを合わせる。


 そして、まるで壊れ物に触れるかのように、そっと、その手に触れた。


 びくり、と少年の肩が跳ねる。


 だが、拒絶はなかった。彼の内なる響きに、恐怖の色はない。ただ、途方もない困惑があるだけだ。


 人肌の温もり。


 彼が、生まれて初めて知る感覚だったのかもしれない。


 ――この子を、放置はできない。


 ベアトリーチェは、少年の手に触れながら、内心で強く決意していた。


 この廃墟から感じ取った、巨大で悲痛な音の歪み。その源が、この少年であることは間違いない。彼自身が不協和音を発しているのではない。むしろ逆だ。彼の魂は、この地に渦巻く百年前の悲鳴を、その一身に受け止め、共鳴し、増幅させてしまっている。


 まるで、巨大な教会の鐘が、他の全ての音を飲み込んで響き渡るように。


 彼がここに在り続ける限り、この土地の歪みは消えない。何より、彼の魂が壊れてしまう。


 絶対音感が、そう告げていた。鐘楼守としての経験則が、警鐘を鳴らしていた。


 そして。


 響箱団のリーダーとして、一人の人間として、目の前で助けを求めるように泣いている存在を、見捨てるという選択肢はなかった。


「ルカ!」


 ベアトリーチェは、背後で待機しているはずの仲間の名を呼んだ。


 すぐに、瓦礫を踏む小さな足音が近づいてくる。


「は、はい! ベアさん、ご無事ですか!? ものすごい響きでしたけど……って、その人……」


 現れたのは、水の巫女服をまとった小柄な少女、ルカ・マレーア 。彼女は、泣き崩れる少年と、その横で膝をつくベアトリーチェを見て、困惑に目を瞬かせている。


「この子を保護します。車へ運ぶのを手伝ってください。おそらく、ひどく衰弱しています」

「え、えぇっ!? ほ、保護って……」

「問答は無用です。これは、決定事項ですわ」


 有無を言わせぬ強い口調。リーダーとしての彼女が、一度決断を口にしたのなら、それは覆らない。ルカもそれをよく知っていた。彼女はこくりと頷くと、おずおずと少年に近づいた。



 意識が、どこか遠い。


 自分が二人の少女に体を支えられているのを感じていた。足が、うまく動かない。何日も、まともに食べていないせいか。それとも、心の箍が外れてしまったせいか。


 ただ、不思議と不安はなかった。


 頭の中は、驚くほど静かだ。時折、まだ微かな残響が聞こえるが、それはもう、彼を苛む悲鳴ではなかった。遠い日の追憶を奏でる、子守唄に近い。


 ベアトリーチェと名乗った少女の、凛とした音色。


 ルカという少女の、水面のように揺らめく優しい音色。


 二つの音楽に包まれて、彼は夢の中を歩いているようだった。


 やがて、巨大な影が見えてくる。


 獣か。岩か。見たこともない、鉄の塊。それが、彼女たちが「車」と呼ぶものらしかった。


 扉が開かれる。


 その瞬間、彼の鼻腔を、温かい光と共に、ある匂いがくすぐった。


 それは、香ばしい匂い。コトコトと何かを煮込む甘い匂い。


 食べ物の、匂い。


 彼の空っぽの胃が、きゅう、と愛しい悲鳴を上げた。さっきまで流していた涙とは全く違う、生理的な涙が、口の端にじわりと滲む。


 彼にとって、それは「家」の匂いだった。彼が、一度も知ることのなかった、温かい「帰る場所」の匂いだった。

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