第一変『陽性変異 Vol.2 ・5』
皐月は本屋で、いつも読んでる漫画本の続きを買った。
いつもの動作を繰り返すように、なぞるように、それを袋に包んでもらうと鞄の奥にしまい込んで、出口のところで待つ私のところに小走りに寄ってくる。
「うっし。いくかぁ」
「うん」
私はいつものように機械的に答えながら。
その本を読む機会はあるの?
意地悪く尋ねてみたかった。
読むかどうかは関係ない。
その日にすら、私はそれまでの私でいたいのだと。
きっと、皐月なら答えたろう。
その数分後、私たちは都内にある雑居ビルの屋上に佇んでいた。ペントハウスから出る際、生ぬるい夜風が脚元から全身を舐めるようにさらった。夏の夜特有の湿気を伴った感触は、嫌いじゃない。この大嫌いな人混みの中心にいてさえ、自然の匂いはなお私の心を慰めるかのようだった。
天使の息吹のようだ。
ラッパこそ吹かなくても、なぜかしら、隣にいて、不健全な心と私にも寄り添っていてくれる。
田舎のロマを思い出した。尻尾を切られたウェルシュ・コーギーの雄は、それでも時折、何も言わずとも頭をすりつけ、やかましいくらい強引に懐に入ってくることがあった。人間に尻尾を切られたことなんか忘れてしまったみたいに。
惜しむといえば、それだ。
この匂い。ロマの匂い。おばあちゃんのエプロンの匂い。
匂いは、記憶に直結する。
温もりも。感触も。匂いからすべて、思い出せた。
何年か前、とあるオリジナルアニメーションの美麗な映像が好評を博したのは、それが、極めて写実的でいながらも現実では見たことのない美しい色合いの空を魅せたからだと思っている。
本当は誰しも、都会の上にあんな空を見たいのだ。
そして解放されたいと思っている。何からかは、特別言わないけれど。隕石の直撃を自分自身で受けたみたいで、後半のあのシーンが格別に好きだ。
それだけにあれは現代を舞台にしながら、実にファンタジーだった。
現実の空はいつも雨模様。
思えば、私たちはもうきっと、代わり映えのないこの世の模様に飽きている。
同じようなビルが並ぶ街の風景。同じような顔のアイドル。同じような歌に曲に、歌詞に、胸糞の悪い物語。
あの、一世を風靡したオリジナルアニメーション以降似たようなものは乱立したけれど、そうじゃないんだ。
そんなつまらない人たちの作った、商業を至上目的とした薄汚い二番煎じは、それだけにあの映画がなぜ私たちの心に刺さったのか。一つも、その本質を理解していなかった。
きっと、違う。
私たちの真実の望みは、青春のような整然とした綺麗なものなんかじゃない。気持ちとして清々しいものとはいえども、形質はそう——逆なのだ。
創造ではなく、破壊。
機械ではなく、自然。
便利ではなく、不便。
涼しさではなく、やかましいくらいの暑さに。
華やかなヒーローではなく、泥臭い主人公の生身を伴った悲鳴に。
息の詰まるような秩序ではなく、目の醒めるような混沌。
それがかえって新鮮なんだ。
だから、初めからいつでもある、そうじゃないもの、人の手に左右されないものに憧れた。
魔法ならいつでもそこにある。
ただ人の手に成らないだけで。
自然にある、誰にでも共有されていながら、誰にも縛られることのない元素、物理法則、それら原記憶の潮流を味わえなくなることは、惜しいといえば、そう、惜しい。
そう感じられる私が私であることは、今のこの一世かぎりのことだから。
心残りとは違う。
残していくものはない。
私たちのこの肉体も皐月の鞄の中の漫画本も、私たち自身が死んでしまえばそれら全てのものは私たちのものではなくなって、生まれ変わりがあるにせよ、ないにせよ、それら持ち物の一切が、もうその頃の私にはまるで関係がないものになっているはずだから。
次は、何に生まれてくるのか。
それとも、二度と目覚めないのか。
きっと知ることもないだろう。
醒めて観るような記憶もきっと残らない。
しかしいずれにせよ、誰も生きている間には知る由もなく、生きているからには誰も到達することができない真実に、ほんの束の間、私たちは触れに行く。
そう思うと、私は少し、わくわくすらしていたのだった。
なぜか二人ともスマホを確認していた。誰かからの直接的なメッセージやSNSで懇意にしていた輩の宛先不特定のメッセージ。ニュース。
それらをルーティンで何とは無しに眺めて、ふと喫茶店での一服に区切りをつけるように、どちらからともなく切り出す。
「そろそろ、いこうか」
「うん」
地上までビル五階分、およそ20~25メートル。大きいほうでも、落ちれば三秒かからない。その間に永遠のような長さを感じ、必ず後悔するとは実しやかに聞く話だった。
時間は相対的だから、きっとそれはあるんだろう。
けれど。
私たちは飛んだ。
ジェットコースターに乗ったときのような浮遊感が腹の底から押し寄せて、全身が恐怖に総毛立った。頭の重みに釣られて前のめりながら、私はぎゅっと皐月とつないだ手と瞼をつむり、すこし、感動した。
やった。
こ——。
吐瀉物でもぶちまけるような醜い音とともに、一言の猶予もなく、私の思考は途絶えた……。
……はずだった。
これで、私は終わりだ!
やってやった! この世とおさらばできる! ざまあみろ!
瞬間沸騰したアドレナリンがライブ中のバンドマンみたく私を興奮させて、そんな風に思った。普段の私からすれば本当によくやった、思い切った行動だったのが誇りにさえ思えて、踊り出したいくらいだった。
けれど、それも束の間。
すぐ異変に気付いた。
おかしい。
なら、どうして私の意識はこうして続いている?
うっすらと目を開けた。
冷たい裏路地の濡れたような地べたに倒れている。
それは確実だ。
頭を強く打っている。手足が妙な方向に折れ曲がって、爪がこちらを向いていた。腕の先が道の反対側まで吹き飛んで、私の方を向いている。奇妙な光景。
地べたは本当に、私の血液で濡れていた。
しかし痛みはない。
エンドルフィンだとかの脳内麻薬が分泌されまくって、いろいろ感覚がおかしくなっているのかとも思ったけれど、それも違った。
「う……」
呻いたのではない。声を出せるか試したのだった(そして出せた)。
私はむくりと起き上がった。
感覚的にまず額を押さえようとして、ないのが右だと、そこで初めて気付いた。
改めて、左で額を押さえると、赤いはずの手のひらにべっとりついたそれは、赤くなかった。
腐ったような異臭を吐いて、青く、煌めいていた。
「……に、これ……」
寒さ、より冷たさを背筋に感じた。
私は急いで頬を触る。
感触にさしたる違いは、なかった。
あるとしたら……あるとしたら、温もり。
体温はなかった。
まるで死体が動いているようだった。
皐月を見た。
傍らで横たわる皐月は、打ちどころが良かったのか、それでもまだ少女的だった。
線の細い身体付きを地べたに雷を描くように折り曲げて、棒切れのような白い脚を惜しげもなく曝け出している。
見た目にひどいのは私ばかりのようだ。
再度振り向いて、視線の先にこっちを睨みつけるように落ちている私の腕を捉えた次の瞬間、私は今度こそしかと目を見開いた。
位置が違う。
すこし、近づいてきている。
道の反対側に落ちている私の腕、すでに感覚のない腕の途切れた先が、私の意思とは無関係に動いていた。
そして、こちらに向かってきている、ずるり、ずるりと、持ち主を探すように。
恐怖した。
自分の腕なのに。
よくもこんな目に遭わせてくれたなとばかり、私はこれから叱られでもするのだろうか、私自身の腕に。と、そんなとぼけたことを考えた。
けれど現実のほうが、そんな空想よりも遥かに奇怪に作用した。
あまり名前を出したくない(虫は好きとはいえ、あればかりはどうしても生理的嫌悪が勝る)生き物かツチノコのようにするするすると地べたを這ううち、私の胴体に残され、幾分か短くなったほうもまた私の意思を離れて我知らず持ち上がったのだ。
まるで磁石か、かっけのようだった。
そんな風に私の預かり知らないところで二つの腕は勝手に互いの再会を尊ぶように引き合わさり、退いて胴体を逸らす私の目の前で、ぺたり——と、また元の通りにつなぎあわさったのだった。
私は信じられない面持ちで、右腕を折り曲げ、途切れていたその先、手のひらまでをも見つめた。
まず私の意思で動くことに。
それから、指が動いていることに。
驚くよりも夢でも見ているかのような錯覚を覚えた。
途切れた左脚も気が付けばそのようにして、元通りにつながっていた。
ふと額を触れてみると、頭の傷も塞がっているようだった。
腐った血、バラバラになってもつながる手脚。
あぁ、これはあれか? ゾンビってやつだ。
私はゾンビになっていたのだ。
哲学するゾンビ? 何の冗談だろう。
その自覚が芽生えてハッとする。
皐月は?
間もなく私は振り向き、横の皐月を見た。
私がゾンビになっているとしたら——なら、皐月は?!
しかし、そこには先ほど見たままの光景があるのみだった。
十三歳の女の子が糸の切れた人形のように倒れ伏している。頭から赤い血を流して。
「皐月」
私は名前を呼びながら、その肩に触れてみた。
同じように冷たい。
けれど。
その肩をゆすりながら、呼びかけた。
「皐月」
けれど、私だってそうだ。
それなら、皐月だって。
「皐月!」
皐月だって目覚めるはずなのだ。
目覚めていいはずなのだ。
今にも私みたいに全身の傷が塞がって、起き上がるべきなのだ。
なのに。
「……なんで! 皐月っ!」
指はもはや触れるより掴む勢いで皐月の肩を揺らしていた。
なのに。
皐月は、
「ねぇっ! なんでっ……!」
一向に、目を覚まさなかったのだ。
哀しみより恐怖が、土砂崩れのように心に押し寄せて、身を引こうとする自分にぞっとする。
私のせいだ……!
私が……誘った……!
私が、殺した……!
そんな自責の念は確かにあった。
いや、それが胸の内で膨れ上がるほどにだ。脚から力が失せて、じっとりと額に汗が滲むと、ふっ——と……そんな悔恨とは裏腹に、嫌になるくらい冷静に頭がささやいたのだ。
今なら誰にも見られていない。
幸い、私はまだ生きている。
何事もなかったように、しらんぷりをして、日常に戻るなら、今しかない……!
逃げろ。
逃げていい。
なんで私は生きているのだ?
そうじゃない。事故だったのだ。私だけが助かったのだ。幸運だった……!
私は、皐月の死体を前に、その責任のすべてをほうりだして、逃げだそうとしていたのだ。
明快な真実の前に他はすべて誤魔化しだ。
——しかし、感情がそれを拒絶した。
私は皐月との間に見えなくとも確かにあって、つい今しがた散らばりかけた何か大切なものを拾い集めるように、彼女の額をなで、頬にキスし、その胸にしがみついて、逃げようとする脚を震えながら押し留めた。
皐月の胸を枕にするように、目を閉じた。
ごめん。皐月。
ごめんね。もう大丈夫だから。
どこにもいかないよ。
だって、私たち、友達じゃん。
そうだよね?
私たち、友達だったよね?
皐月の胸の上に私は横たわったまま、静かに真実を受け止めるのだった。
新たに知る真実——。
「——ゾンビになっても、涙は流れるなんて……」
どれくらい経ったろう。
そもそも屋上から飛び降りてから地べたで目覚めるまでも、一瞬のように思えて、等間隔とは限らない。
周りはまだ暗いままだが、時間はもはや定かじゃなかった。
「みよちん」
皐月の声が聞こえた気がして、私は何度となく呼んだその名をまた口にする。
「皐月……ごめん……ごめんね……私が誘わなければ……なんで私だけ……」
「みよちん、こっち」
「最悪だ……こんなことになるなんて……皐月、私に関わらなければ……こんなことには……」
「みよちん、違う。そっちじゃない」
「そうだよ……皐月は優しいから。こんな情けない私にも付き合ってくれて……」
「違う、みよちん。こっちむけ」
「あぁぁぁぁ……私なんか産まれてこなければ!」
「人の話を聞けやボケぇぇええーーーーっ!」
ふわっと、風が、頭を通り抜けて……私は気がついたように面をあげた。
ガスのようだ。
白い幕を張ったように視界が薄ぼんやりとしている。
涙のせいではない。
匂いもなく、目に煙たいものが含まれているわけでもない、白いモヤが私の視界を……いや、私の顔面を貫いて、きっと頭の後ろまでも覆っている。
けれど、私は確かに見ていた。
その白いモヤの伸びる先——肩があり、首があり、胴体があって、その先に——見慣れた友人の顔までもがきちんとついているのを。
「皐月!」
「みよちん!」
私は両腕を広げて、皐月を受け止めようとして——腐った脳内にうっすら残るガールズ"オブザーバー"がストッピをかけた。
ちょっと待って。
私、臭わない?
夏の上に、ゾンビだし。
死んだばかりとはいえ、さっき見た通り血はもう青くなってて、手脚が一度ちぎれたこともあって全身は血でべたべた……え、てか、腐ると人間の血って青くなるん?
奇妙だが、それ自体が、なんかズレているような……。
そもそも皐月の身体は今も眼下、地べたの上。
そこで寝そべっている。
一方、白く薄いモヤ状の皐月が、私の目の前にも浮かんでいる。……浮かんでいる?
「皐月! どうして! え、これ……」
脚がなかった。
よく見れば、今の私と同じくらいに肌は青白く、その身体は薄ぼんやりとしている。
腰から先が、なにやら煙のようにひょろひょろとしていた。それでいて皐月ときたら、律儀にも両手をくの字に折り曲げて、その額には丁寧に白い三角巾までつけているのだ。
脳裏に浮かぶイメージはただ一つ。
まさしくそれを目にして恐れおののく怪談の主人公にでもなったように、私は、彼女を見上げて、
「こ、これって……皐月、」
「うん。みよちん、私ね、」
「オバケになっちゃった……?」
「オバケになっちった」
ビルの隙間で、月の下——。
二人、呆れた声が重なるのだった。