第一変『陽性変異 Vol.2 ・3』
空は、いつも何かに切り取られて、灰色に見えた。
それが唯一青く見えるのが、夏だった。
まっさらだ。誰の上にも無遠慮なまでに広がる、澄み切った青空を見ていると、すこしだけ、こんな私でも気分が晴れる。
田舎のおばあちゃん家が恋しくなる。お盆には行けるだろうけど、最後に行ったのはお正月だから、もう半年も行っていない。あそこは空を切り取るものがまだ少なくて、私のような不完全な人間の空虚な心にも潤いをもたらしてくれる。温みを注いでくれる。憩いといえば、まさにそんな感じ。
おばあちゃんもおじいちゃんもその動作の一つから古びたブリキ細工のようにゆったりとしていて、いつもエプロンが多少しめぼったくとも、私はその匂いが好きで。何にも急かされることがなくて、私は普段の日常の中で今にも張り裂けそうな内圧極大の風船みたいに張り詰めた気持ちを、そこにいる間だけはぷひゅーと力無く吐き出せるように感じるのだ。
きっと哀しむと思う。
この二人は。
泣くと思う。
例え惨たらしい現場など目にしなくとも。
きっと惨い傷にしてしまうと思う。
それからずっと、夏が来るたびに寂しい想いをさせて、こっそり泣かせてしまうに違いない。
それを想像するのは、身を斬られるように辛い。この痛みはメメントモリ。おそらく心臓を自分で貫く以上に鋭く、哀しい痛みが胸のうちに先走るのだった。
こんな想いはない。
六十だか、七十だか、そんな歳まで生きて、孫の自死に遭わなければならないなんて、なんて可哀想なことを考えるのだろう、私は。なんてひどい。
だから。二人のことを想えば。
できれば生きたい。
生きて、何かしらの二人を喜ばせる成果を得て、二人の生きているうちに報告やそんな話はしたかった。二人の安心して喜んでくれる笑顔が見たかった。そしてその歳月の刻まれた脆い身体を優しく抱きしめてあげたい。
生きててよかったね。まだまだ長生きしてね。そう言ってあげたいのだ。夢なんて大それたものは何一つ持っていない私でも、ぼんやりとそれくらいの願いは思う。
私は、生きる、ということから……それがあまりに辛そうで……いやもうすでにあんまり辛いものだから、逃げ出したい。
なんてことはない。
真実はただ、それだけのことなのだった。
けれど、東京に帰ってくると、うんざりするような空気の重みが足枷のように肌から張り付いて心にまでじっとり染み込んでくるようで、一転して何もかもがねばっこく感じられて、やっぱりとたんに全部嫌になる。性格まで変わってる気がする。
とりわけ、音が嫌だ。
遠慮のない痰切りの咳払いや、常に喧嘩を売ってるみたいに低い男性の声調、女性の嘲るような甲高い笑い声、車やバイクの夜鳴きにテレビの音。特にバイクの潰れたマフラーの音は滅ぼしたいくらいに耳障りで、憎悪するほど嫌いだった。
鈴虫の声にはどれだけの癒し効果があるかしれない。
蝉の声にはどれだけの励ましの力があるかしれない。
虫は嫌いじゃない。
家にわくナメクジも、クモも、時折手に止まる羽虫の一匹から私は殺したことがない。むしろ、私たちよりずっと短い寿命を受け止めて(いるかは実際しれないけれど)、小さな身体で懸命に這いずるその姿に愛着が湧く。
何なら吠えて偉そうに唸る甘やかされた犬などより(田舎のロマ。コーギーの雄はそれほどでもないけれど)鳴くにも控えめで、楽器のように清々しい分、虫のほうが好きかもしれない。猫は当然うるさくないし、犬のようにべたべたと甘ったれてもこない。動きも淑やかで物を倒さない配慮さえできて、小動物の中ではダントツに完成していると思っている。
もちろん、田舎には田舎の退屈さや不便さや村単位のコミュニティのやかましさが、それはあるのだろうけれど、都会の乾燥した、それなのにじめじめとねばっこいような、言うなれば圧のうっとうしさに比べたら、きっとなんてことはないだろう。
いや、わかってる。
暮らしたことがないから。隣の芝生が青く見えてるだけだって、浅はかなのはわかっている。
それでも、こんな都会に住んでるよりはずっとマシなんじゃないか。都会に住んだことのない人もまた私と同じくらい浅はかに、この雑音に日々苛まれる苦しみや砂糖を溶かした水のように乾きながらもべたべたとした人間関係の過重を考えているだけではないのか。
と、ずいぶん長い間羨ましがっていると、私のそんな様子を見兼ねて、母は田舎のおばあちゃん家に住むことも検討してくれた。
けれど、父はその度苦言を呈し、嫌々と首を振る。そのうち不機嫌になって物や母に当たり散らし、母方の親戚やその土地柄、私の好きなものに対しての雑言を惜しげもなく吐いたり、大きな音や声を出して脅かすようになるので、今はもう私からお願いして、話題に出さないようにしてもらっていた。
語弊のないように加えておくと、父か母かという問題ではない。夫婦の力関係が悪いと、子供は顔色を窺うようになるだけのこと。
だから、フリで生きている人は私にはすぐにわかる。その形を見るのも話を聞くのも嫌いだった。これほど無責任で罪をばら撒くものは他にないと思っている。
真面目なフリ。頑張っているフリ。誰かを好きなフリ。愛しているフリ。中身のあるフリ。強いフリ。弱いフリ。
しかし。私もそうだ。
剣道。ピアノ。お料理。
こんな風に、何をするにもケチがつくうち……気がつけば、私は、何よりもまず他人の顔色を伺うような、どこの誰にも角が立たないよう、何の色も出さずに返答するこの世で最もしょうもない特技が身について、
負け癖がついて、
勉強と学歴と肩書きだけの、中身のない他の誰でもいいような人並みの人生を送っているフリを、私は——純粋な気持ちの底から染み出した、それだけに耳を塞ぎたくなるくらいのグロテスクな真実——歯車のようにただただ、し続けていくのだ。
悲鳴のようだった、
いつしか、そんな諦観が心の底まで染み込んだ。
慣れ親しんでさえいる。
いや死んでいるではないか。
自殺なんて行動に移すまでもなく、そんなのはすでにいきているとはいえない。とっくに死んでいる。
物理的にやるか。
精神的にすでにそうしているか。
それを想うと哀しみの次には怒りが、湧いてくる。
自殺はダメとか命を大事にとか口では綺麗事言いながら、なんだよこいつら。そんなうわっつらの言葉が私たちを生きながらすでに死体にする。私たちはそんな実効的な力もない口先だけの連中のために、生きるにも生きられず、死ぬにも死にきれず、いわば動く死体、ゾンビにならざるを得なくなるのだ。指令は誰か? 私は何の命令で動いている?
そのうえ、境界知能とかADHDだとかLGBTだとか。話に出るだにうっとうしいだけの、そんな言葉遣いが溢れて、平和そうに見えるその実この世界は戦国時代のようだ。そんな連中ばかりが楽しそうにいつも誰かと喧嘩している。嫌いならお互い区別をして近寄らなきゃいいだけのことなのに、余計なおせっかいで混ぜようとする人が出てきて、やっかむためだけに近づくものもいて、またべたべた、ぐちゃぐちゃとするから、社会的な人間ってものに、この世に一層うんざりとさせられる。
正義の抗争なんか心底どうでもいいよ。
ゾンビの世界で平和なんざ誰が尊んでいるんだ。
一生外でやっててくれ。
ただし、私たちを混ぜようとすんな。
あんたたちの問題はあんたたちの問題で、それは不憫に思うこともあるけれど、私たちだってあんたたちに負けないくらい生きてりゃそりゃゾンビみたくもなって、せめて土に埋もれないようにするだけでいっぱいいっぱいなんだ。健常者は泣いてわめいたって通常、誰も聞いちゃくれない。あんたたちが聞いてくれてるかのように思えるのは、あんたたちがすでにこのお優しい平和の世界で目にもわかりやすい弱者というその特権を勝ち得ているからだ。
ゾンビは泣かない。泣いたところで何も変わらないのが身に染みるうち、泣き方を忘れてしまったからだ。どんなに哀しくとも自分のことで、それも人前で、泣くことは絶対にしようにも、できなくなっている。
ゾンビからすれば、そういったマイノリティだって、よほど強者だ。
なのになんでみんな、それでいて逞しそうに生きていられるのだろう? 優しそうに振る舞えるんだろう。毎日毎日、朝から晩までくだらない顔の突き合わせ。自分の精神が解放される瞬間なんかないに等しいのに。それが白鳥のバタ足のようなものだとして、そうまで頑張れる意味がわからない。理解ができない。どうして? 私には無理だよ。できない。
我慢の限界が肉体よりまず精神をぶちこわそうとしたところで、ムンクの叫びみたいに私はリタイヤすることにした。
冷たい人間で構わない。サイコパスでいい。
狂ってて結構。
そんな誰のためにもならない嘘を普通にこなして蔓延させる連中のが、私の目からすればよっぽど普通じゃない。
私が社会の敵だということは、ひるがえせば、わかってるくせに、そんな社会の普通に倣う連中こそが、私の敵だ——。
正気を失ってまで友達なんかいらない。友達百人なんて歌があるけれど、私からしたら怖気が立つ思いがする。二、三人もいればそれで私のコストは満杯だ。他を当たってください。