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陽性変異 Vol.2  作者: 白雛
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第三十五変『ヤクザの家と偶像崇拝・6』




 ぬっちゃ……ぬっちゃ……。

 なぜだろう。そのとき天の部屋に水の滴るものなどありはしなかったのに、ベッドの上に座り込んだ彼女が下敷きにしているぬいぐるみからは、そんな音が聞こえてくる気がするのだった。

 それから、ぎしっぎしっ、とリズム良くきしむ床板の音も。

 真夏の真昼であった。

 しかし、そこにふと分厚い雲がかかったかのように部屋は薄暗く、その影の中心で彼女はつぶやいた。

「さすがにおかしい」

 例の大学病院の一件である。

 皐月と同じように……いや、それ以上の被害を被った彼女である。

 頭に三針、腕は六針も縫う大怪我を負った照宮 天だったが、またしてもお見舞いは来なかった。

 お見舞いは来なかったのである。

 さすがにこれは今度こそ来るだろう、来なきゃ友情を疑わざるを得ない、と天にして思われていたお見舞いであったが、結局現れずにはや数日である……お手製のみよちんぬいぐるみの顎のとこ(・・・・)黒い目(・・・)がほつれて取れかかっているように、頭の包帯もほつれて、彼女の横顔にその堪え難い心情をうつしだすように、長く綺麗な黒髪とともにたらりと垂れ下がっていた。

 彼女のフラストレーションは限界であった。

 気がつけば腕が震えていることがあった。

 同じ傷の痛みに応じてではあるものの、それは物質的な腕や頭の痛みに応じてなどではない。

 みよカス、ひいては傷つけられた他者への信頼に応じてだ。

「なんで来ないんだろうね? ねぇ、なんで……? わたし、なにか、わるいことしちゃったのかなあ……?」

 ぬっちゃ……ぬっちゃ……。

 ぎしっ、ぎしっ。

 ばしっ、ばしっ。

 自身の手でディフォルメされた憎らしい顔面を鞭のように引っ叩きまわす合間、天は哀れなぬいぐるみにも慈悲を与えるような手つきで撫でまわし、猫撫で声でささやきかけた。

「わたしね、ニュースにもなったんだよ……? 幼馴染でさ、家が近所でさ、それだけの大事件になって、その被害者の一人になって、名前も全国に晒された……なのに……それなのにッ!」

 そして、その首元を押さえつけると、顔面に向けて拳を振り下ろした。

「なんで見舞いにも来ねえんだよッ! 今更だけどおかしいだろアイツの優先順位ィィィーーーーーッ!!」

 二回目の電子空間を行き来し、みよちんがPCを介して天の部屋に跳んだとき、彼女はまさしくその行き場のない寂しさをズタズタになったお手製のみよちんぬいぐるみに爆発させていたところだった。

 ぬいぐるみの白いはらわたが室内に飛び散る中——目の前のボロボロになったぬいぐるみと、PCから出てきた本人を見比べて、

「あ……え……うそ……信じられない……」

 瞠目した直後、まったく逆の感情も同時に競り上がってきて、

「——とはいえ、どっから入ってきてんだ、てめえええええーーーーーッ!」

 喉を最大限に震わせ、その勢いのまま彼女は薔薇の蔓を展開した。

 かつてないほどそのトゲは鋭かった。

 とっさに鏡生はみよちんを盾にしたが、散弾銃を乱射したように、部屋中にそのイバラのトゲが飛び散らかることとなったのだった。

 そのとき一階で大学時代からのご友人マダムとアフタヌーンティーを楽しんでいた天の母は、突然二階から聞こえてきた大きな物音にも動じずに、ただ天井をぼんやりと眺めるだけで言った。

「あらあら! またね……」

「……天ちゃん、いったいどうしたの?」

 テーブルの真正面に座ったご友人マダムが尋ねると、天の母はさすがに物憂げに眉をしかめて話した。

「実はあの事件からね……ちょっと後遺症があるみたいで、ときどきああやって癇癪を起こすことがあるの」

「まぁ。でも、事件・事故の直後にはよくあるそうよ。じきにいつもの天ちゃんに戻るわよ」

「ええ。それよりも今年のワールドシリーズが……」

 一階ではそんなマダムたちのおファビュラスな会話が為されていた。

 一方で……集合体恐怖症(トライポフォビア)の人が見たら間違いなく震え上がるだろう……みよちんの身体はアイアンメイデンで処された罪人のごとく、孔だらけだった。患部は(とげ)の侵入によって周囲の皮膚が腫れ上がり、虫刺されのようにひとつひとつ、思わず目を覆いたくなるような膨らみになっている。

 天は、その足元にひれ伏す一方、イバラの蔓で尚その首を締め上げながら、むせび泣いていた。その締め付けは首が千切れて落ちそうなほどに強い。みよちんが腐った死体でなければとっくに死んでいた。

「……そりゃ嬉しいよ? 来てくれて……やっと来てくれて嬉しかったけど、飛び上がりたいくらい今もほんとうに幸せ……だけどさあ、ちょぉぉぉぉーーーーー複雑でしょう、これェッ!」

 まさに慟哭というに相応しい。哀しみと同時に怒りが込み上げるそのままに天は感情を発露させた。

「今更がすぎるっていうか! 出てくるにしてもそこはないだろっていうか……! わかるよね、私のこの気持ち……しかたないよね。さすがにみよちんが悪くない?」

「うん。仕方ないね。仕方ないから、天の気持ちはよくわかったから、もう薔薇はしまってくんない」

「……じゃあ、話す間ハグしてていいの?」

 ケンカして顔をあかく泣き腫らした子どもが親にあらためてねだるように、天は言った。

 それでも、それは愛する人なのだ。

 天は本来臆病で気弱な子であった。

 殊に美汐の死によってそれはより顕著となり、愛することをやめれば、自分自身すら一緒に崩れ去ってしまいそうなほどに歪み、屈折した……しかし、その愛こそが天をここまで生かしてきたものでもある。

 いつかはそこから脱却して自立する必要があるかもしれない。けれど、すくなくとも今はまだ失えない、自分を支えている大切な感情なのだった。

 みよちんは天のハグで全身をぎゅうぎゅうに締め上げられ、今度はボンレスハムのようにされながらはっきりと返した。

「いいけど、気が済んだら離してよ」

 二人がそのようなやりとりを交わす一方、鏡生はみよちんを盾にしてトゲの第一波をかわすなり、部屋の隅に隠れるようにして二人に尻を向け、震え上がっていた。

「……いてて」

 天が薔薇をしまい、みよちんを解放すると、次第に塞がっていく傷痕を確かめながら、みよちんは言った。

「第一、あんたが好きなのはウチの兄貴でしょ。いつから私になった」

「違うよ。今も昔も変わらない。ずっと好きだよ。好きなんだよ、二人とも。ただ尊敬を超えた何かになっちゃってるだけで」

「…………」

 それはもはや崇拝……信仰の対象のようなものなのだ。

 世には無数にある。

 いわゆる宗教的思考、偶像崇拝。

 中には支配されたいという欲求もある。

 こうして落ち着いてくれば、むしろ忠犬のように大人しくなる天の様子を眺めて、

「やれやれ……」

 みよちんは珍しく嘆息を漏らした。

 が、しかし、みよちんもほどほどに寛容になっていた。以前ほどそれを毛嫌いしていない自分に、そこで気付かされたのである。

 というのも、イワシの頭も信心からと言われるように、誰かを好きになったり、愛したり、なにかを信じること、それ自体が宗教で、それなくして人は生きられない。

 宗教はバカにできないのだ。もしそんなものがなくても生きていけるという人は、それこそ余程の幸せ者か、あるいは人と関わって生きていないかのどちらかであろう。

 かように、自分もそうであるから。あとは自分だってそうして甘えたくなるときはあるのだからと。

 この夏の経験から、自分もそんな存在……すなわち希望を欲していたことに気付けたからだ。

 例えば、実生活を隅から隅まで包み隠さず公開する偶像(アイドル)がいるだろうか。あれは現代における最も代表的な偶像崇拝の一つである。彼ら・彼女らはそうして人を信頼させて、その信頼に対して等価……ときには過ぎた価値……を得る稼業である。

 仕事というものが実はその連続であるがそれはさておき、番組で見せている姿、舞台・ステージ上に顕れる彼ら・彼女らは、それが実体を持つか持たないかというだけで、リアプロジェクターが特殊透過スクリーンに投影するボーカロイドなどの3Dライブ映像となんら変わりはない。

 例えそこまでしたとしても、実生活において、隣に実在しているはずの恋人の心がわからなくなる・信じられなくなることがあるように、他者の内面世界を自身の実体験として味わう装置がなく、他者が主観に成り変わり得ない以上、それは自己からすれば、どうしたって単なる観測の結果としての感想であり、反射であり、ひいては自分の頭の中で描かれた偶像なのである。

 ところで、信頼というのはとても壊れやすい。本人すら意図していないちょっとしたことであれ、信じられなくなればどこまでも疑えてしまうのが人間であるし、同じく本人すら意図していないことであれ、逆に信心が強まることもあるのが人間だ。

 それが過ぎるか、過ぎないかという程度の問題なのであって、多かれ少なかれ人は誰でもそれが不確かな真実を内包すると知りながらも、ときに盲信したり、ときに欺瞞で誤魔化したり、ときに距離を取ったり、ときに邪推するなどして、自己の心の安定を保ちながら生きているのだ。

 自分の中の勇者やミカ、羽根、それに蝶華に兄貴の美汐。みよちん自身もそうして誰か・何かに未来への希望を重ねることで、徐々に前向きさを取り戻してきたように、人は、こうした信仰、すなわち希望なくしては生きられないのだ。

 そして信仰とは、これはなにも特別なことじゃない。それは、誰かの希望になるということだった。

 疑い出せばキリがない人の間で、そのようにして社会というのはひとつひとつは小さな、しかし、次第に寄り集まって大きくなる想いや信仰、他者に対する信頼によって成り立っている。

 この信頼を裏切られれば不信にもなる。

 先にあげた例の逆に、小さなことでも裏切られ続ければ他者やそれを包括する組織・または団体に対してネガティブにも敵対的になろうし、それで報いられれば他者に肯定的にもなれよう。

 だからこそ、ならば——?

 しかしそれに気付き、そんな天に対しても温和に受け入れられるようになると、みよちんは今度は逆の真理にも至った。

 ——偽者。

 ——偽者たちが跋扈するこの世の中。

 ならば——そうだ。

 嘘つきや詐欺師、ひいては、人を侮辱し、踏み台にし、騙すことをなんとも思ってない奴ら。そうして信頼関係を傷つけようが、自分は傷つかないから良いとタカを括っている偽者や半端者の行いというのは、だから偽善として、社会的に絶対的な悪だと言えるのだ。

 本来企業や社会の中では厳格な上下関係があってそれは厳しく教育され、取り締まられてもいただろうことが、アマチュアが跋扈する世の中になって、雑になってきた。

 彼らは当然アマチュアなのでアマチュアの雑な精神で聞こえのいい文句しか言わない。自分に不利益が被るとなれば尻尾を巻いて逃げ出したり、言い訳や自分が助かるための虚偽を重ねる。会社勤めならばこうはいかない。責任を問われるからである。それが彼らにはない。もしくは仲間内や信者たちの手で助けられてしまう。

 だから、それを見ている人たちもまた、そんな彼らに倣い、雑でいい。目立てればいい。大胆なことさえやればいい。自分さえ良ければそれでいいという自分勝手なだけの思考が風潮として伝染していったのではないか。

 偶像崇拝自体が悪なのではない。

 世間に跋扈する偽者どもの源とは——そんな彼ら——人の信頼関係や影響力を舐めてかかるアマチュアの偶像どものことだと、みよちんは思い至り始めているのだった。

 もちろん、ここで言うプロ・アマとは厳密には規定されたものではない。活動するものの精神の話である。

 中にはアマであれ全体の奉仕者として、プロの精神で勤め上げ、日々、切磋琢磨しているものもいるだろう。

 だから、蝶華はこれを本物と偽者と言って分けている。

 ひいては、それを流通させ、見過ごしているシステムも。

 動画サイトやSNS、そこでもたらされるただ物質化された数字のやりとりが、ひいては人を数字で測る外資の感覚そのものが……根本にはある。確立された英語と曖昧で行間を読む日本語との文化の温度差くらい、日本人の気風には合わないのかもしれない。

 だけど、それも結局は扱う人の問題だ。

 どのようにそれを使っているかが要旨であって、問題はやはりそれを利用して図に乗った偶像に行き着く。

 また、同じ希望に見えても、人によっては悪しき希望もあろう。

 それが陽毬であるならば、また別の良き希望であるためにも、彼女とは対立せざるを得ない。

 それが、その時の、みよちんの考えだった。

 はっきりと見えてきた。

 みよちんは、それらの感覚をはっきり言語化できないまでも、そのように思い至って、あらためて天の手をとった。

 自分がミカや蝶華に憧憬を抱いたように。

 自分自身もそこに背いて逃げることはできない。

 結局はそこだ。

 それが悪しき半端者の偶像であろうと、自分が信じた偶像(または内なる神とでも言える)に対して背かなければ、前は向ける。

 だから宗教はバカにできない。

 今こそ。

 自分が見てきた数々の勇者にその正しい姿勢を見せて報いるときなのだ。

「……あー、その、それでね……」

「えっ」

 天はその手触りに驚く。

「ごめん……なさい」

「えっ?!」

「あのとき……そりゃ私も頭に来てたとはいえ、冷静ではなかった……」

 みよちんは逸らしていた顔を向き直し、真正面から天を見据えると、はっきりと告げた。

「私も間違ってた。天はすごい勇気を出して私のために言ってくれたのに。私はひどいことを言いました。ほんとうにごめんなさい。こんな私でよければ……いや、言える立場じゃないけど……また改めて。今から付き合いなおすつもりで、友達になってください」

「…………」

 天は一息に解せない。

 目の前で起きていることが、まるで現実のこととは思えなくて。

 むしろ、真っ白になった。

 なんて言った?

 なんて?

 なぜ、突然、私の身にこんなことが?

「あ……え……あ……」

 冗談も言おうとした。けど、不謹慎だろう……とかなんとか、いろいろと、考えあぐねているうちに、天は笑い出した。

 からからと、笑えてきた。

 やった。

 なんでか、わからない。

 なんでかわからないけど、なにか、報われた気がして、心に晴れやかな光が満ちる心地になったのだった。

 きっとこんな風にして、誰しも光さす朝がくるものなのだろう。それは身構えているときには訪れないのだろう。

 あるときふっと、憑き物が落ちたように、棚から落ちてくるくらいの不自然さで、自分には理解しがたい因果をめぐり、ひょっこりと顔を覗かせるものなのだ。

 気楽さとは。

 笑いながら、天はすこし涙をこぼした。

「私こそ、ごめんね。ひどいことも言った。ずっと一緒にいてあげられなくて、ごめんね、みよちん……」

「ううん。今日からまた」

 引き取るように天がみよちんの手をとった。

「うん。よろしくね、みよちん」

 幼馴染の仲はそうして復活した。


 ◇


 さる七月二十日の昼。

 夏休みということもあり、浮き足だった気持ちがそうさせたのか。

 二年五組の加古川 蒼は地味に気になっていた女の子が屋上に上がっていくのを見て、さりげなくその後を追いかけていた。

 そして、見つけたのが、この白い羽根であった。

 元から地味に女人気(オタク女子グループ限定)の強かった蒼である。それから数日して、同じソフトテニス部である千葉 裕子と付き合い出すと、蒼は彼女を家にさそった。

「まぁゲームしかない部屋だけど、あがれよ」

「うん。ありがとう」

 片目が塞がるくらいに伸ばした前髪を中学生独特の気取った感じであげながら言うと、蒼は裕子を部屋にあげた。

 しかし、蒼の狙いは、初めてのキスだとか乳繰り合いだとか、そんなところにはない。

 そもそも歳の離れた姉のいる彼にとって、女とは、空想上の良い匂いがして花も恥じらう可憐な生き物などではなかった。

 むしろ火山の火口のような生臭さをいつも醸し出し、口うるさくてわがままで、とにかく気持ちの悪い存在でしかなかったのだ。ちょうど同い年の女の子が同じ年頃の男の子に対して感じるような嫌悪感を、蒼もまた女子に感じ、それに反比例するように、彼の興味は二次元に集中していったのである。2.5次元なども興味がない。完全なる二次元である。

 確かに都合のいい夢物語さ。だが、だからなんだ? あの風の谷のお嬢さんだって、描くうちに狂わんばかりに募った監督の恋焦がれからそうして起こされ、誕生したキャラクターだ。

 キャラクターというのはそもそもそういうもの。作家の理想像そのもの、だがしかし、無からすら生み出されてしまう作家の現実から反転した渇望の源泉なのだ。

 それこそが純然たる人間の紛うことなき真実の愛ではないか。肉欲すらも超えている。

 だから、時代を超えて、キャラクターは愛され続ける。

 おれの愛は、それと同じだ。人がモナリザやボッティチェリの描いたヴィーナスに焦がれるように、ただ愛が、同じヒト種には向かなかったというだけのこと。ならばまだ紙の匂いやPCの匂いがしたとしても、理想の性格や(かたち)を持った女のほうがいい。くだらない現実でアトランダムに描かれた妥協の産物などよりも。

 彼のその強い渇望がその奇跡を呼び寄せたと言っていい。

 彼は年頃の男子にありがちなゲームの腕前や高水準のPCスペックそのものを自慢する素振りでフルタワーサイズのデスクトップを起動させると、そこに彼女を座らせ、後ろからそっと近寄り、彼女をその中へと突き落とした。

 イソップ寓話の『金の斧、銀の斧』のようにPCのモニターが水面のように波打って千葉 裕子の身体を引きずり込んだかと思うと、次の瞬間、入れ替わりに、まったく別の女性が同じモニターから飛び出してきた。

 足元まで全身を絹のような素材の衣装に包んだ女性であった。ブリオーという基本装備に加えてコルサージュと呼ばれる上着まで着込んでいる。ブロンドの髪は長い三つ編みにして、頭にはウィンプルと呼ばれる薄いヴェールをまとっていることから、蒼のみならず、わかることがあった。

 それなりに良いとこのお嬢さんであるということだ。

「素晴らしい……!」

 彼は、自室の部屋の地面に女の子座りをして、不安げに周囲を見回すその子に傅き、その手を優しくとった。

 涙を滲ませ、少女にこう言った。

「言葉はわかるね。ぼくは幸せです。あなたに会うために、ぼくは生まれてきたんだ……!」

 彼はミカから逆転の奇跡を授かっていた。

 対比、もしくは対照となる事象を入れ替える能力である。

 彼はこれを『表裏一体歌合(ハッピーリフレイン)』と名付けた。

 彼の両親が共働きだったことも幸いしたと言えよう。その上、そこが高級マンションの上層階という陸の孤島状態であったことも、また彼自身も夏休みに入ってからというもの、そうして完全に彼女らの世話に追われる生活となり、友達付き合いもなくなったことも相まって、彼の所業に気付くものはいなかった。

 時は過ぎて、八月二十二日の正午ごろ。

 彼はそうして喚びだしたアニメやゲームキャラたちのために自分の部屋をまるまる一つ差し出しながら、その隅で肩身も狭く、とあるVtuberのライブ配信を見ていた。PCやゲーム機は彼女らにとっくに奪われた。

 ぴんぽーん。チャイムが鳴ると、元貴族の女の子が蒼の財布を持って部屋を飛び出していく。

『おはこんばんしゅらーっ! さぁ、今日もやってくしゅらーーっ!』

 シャカ・プロジェクトとかいう、いわゆる個人ギルド所属の絵馬咲アシュラというVtuberであった。

「閃いた。こいつは面白くなりそうだ……!」

 蒼が横にしたiPhoneを眺めて、にやりと笑うと、

「蒼くん、その笑い方キモイー。やめなー」

「そうそう。陰キャ丸出しっていうか……」

 魔物を狩るものたちのゲームに勤しむ彼女たちから野次が飛ぶ。蒼はもう慣れっこになって、

「うるせえな。人が面白そうなこと思いついたときにどんな笑い方しようが勝手だろうが……」

「みんなー、ウーバーイーツ来たー。ごはんにしよー!」

 言いかけたところに、先ほど出て行った元貴族の子が戻ってきて、みなをリビングに呼ぶと、女の子たちはぞろぞろと部屋を出ていく。

 後には脱ぎ散らかされた衣服や遊ぶだけ遊んで放置されたオモチャの数々が、台風の後のように残されていた。忘れていたように、最後に空っぽになった蒼の財布だけが部屋の外から投げ込まれた。

 まるでアイドルの楽屋裏のようであった。

 すると、さしずめ蒼は彼女らのマネージャーというところであった。彼は彼女たちが揃っていなくなってから、こっそり呟いた。

「……喚びだせて数日は良かったものの、現世に順応したとたんにどいつもこいつも、地雷になりやがって……女ってのは……」

「はぁー?! 勝手に喚びだしたのはアンタだろうが。世話するのはアンタの責任だろ。勝手なこと言うんじゃねえよ」

 耳のぴんと尖ったエルフは耳が良かった。部屋に残った蒼の呟きも一つ残さず捉えてリビングから言い返してくる。

「……こ、こんなはずじゃ……」

 肩をガックリと落としながらも、蒼の心はまるで違った。

 だが、面白いのは確かだ。

 普通に生きていては決して味わえない難易度・苦労がこの生活にはある。そこに彼はゲーム以上の新たな魅力を感じていたし、なかなかどうして悪態をつかれながらも、この関係性は心から嫌いなわけではなかった。幸いなことに彼女らもなんだかんだ言いながらも居着いてくれている。

 おもしろきこともなき世を、おもしろく。

 すみなすものは心なりけり。

 ここのところクセになっている、かの有名な高杉晋作の辞世の句を心の中で読むと、

「(もっと、もっと面白いことができる。おれならば……! 次はコイツらで遊んでやろうじゃないか……闇の炎に抱かれて消えろ! ふふふふ、あーーーーーっはっはっはっ!)」

 手元のVtuberの配信画面を見下ろして、彼はまたしても内心でほくそ笑んだ。




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